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――空を舞うのは、とても気持ちがいい。
暑く照らす太陽を背にして、俺は風を切る感覚を楽しんでいた。
眼下にはむき出しの岩肌が広がっている。もしも俺がいたずらに飛行を止めれば、きっと真っ赤な華が咲くだろう。もちろんそんなことは有り得ない。
俺が空を飛んでいるのは、何も趣味というわけではない。仕事でここにいる。そうでなければ、こんな辺鄙な場所に誰が羽根を伸ばすものか。
「目標、補足」
短く、小さく、的確に。
代わり映えのしない岩肌の影に隠れていた、小さく感じる標的を見つけた俺は、誰に報告するわけでもなく呟く。
影は、遠目でも分かるほど輝く赤茶色の鱗で全身を覆っていた。過去に何人の同胞を裂いたのか分からない鋭き爪、どれだけの血を吸ったのか見当もつかない禍々しい牙。目は紅く辺りを威圧し、丸太と見間違うほど太いしっぽは、影が歩くたびに揺れる。
影の正体は、太古より世界の支配者として君臨してきた種、竜と呼ばれる化物だ。
「グルルッ」
短く唸る声が、影のはるか上空にいる彼の耳まで届いた。向こうも俺に気付いたようだ。
東洋にあるという鎧で全身を包み、背中にある一対の丸い翼からは絶えず火が噴出する。とても生物には見えない出で立ちだ。仮に生物に見えたとしても、それは眼下を闊歩する竜であって、空を自由に翔ける鳥ではない。
俺の姿はとても鳥には見えない。だから気付かれるのも無理はなかった。
「これより――」
全生物の頂点に君臨する支配者に睨まれているが、あくまで物理的な意味で見下しているから、という理由のせいなのだろうか。
どこまでも静かに、俺は言う。
「――任務を開始する」
俺は一度、背中にある炎を緩める。推進力を失った体は鎧の重量もあってすぐに降下を始めた。
だが俺は別段焦りも抱えぬまま、重力に従い墜ちていきながら、すっかり熱を失ってしまった翼に再び火を灯す。
グンと体を押される感覚。同時に、俺の口角がわずかに上がる。
これだ、この感覚こそが、俺の愉悦の瞬間なんだ。
竜は、流星のように空に尾を引く俺を、茫然と口を半開きにした様子で眺めていた。
今起こっている状況が理解出来ないのか。そんなわけがない。
竜の口元を、火の粉が舞う。心なしか口全体が赤に染まっているような気もする。
知っている。奴がこれからどうするつもりなのか。何度も似たような仕草を見てきた俺はよく知っていた。
「――ッ!」
だからこそ、片翼ずつ出力を調整し、体にかかる負荷をあえて無視して鋭敏に旋回する。
全身から、軋む音がした。
「ゴァッ!!」
ただ、軋むだけで済むのなら安いものだ。
先ほどまで気持ちよく飛んでいた道を、身の丈を優に越す火球が塗り潰した。
もしも俺が回避行動を取られなければどうなっていたのか。考えるまでもない、丸焦げだ。日が落ちればきっと支配者の夕食になっていただろう。
それに比べれば、体が悲鳴を上げる程度で文句が出てくるだろうか。答えは否。少なくとも俺は、無傷で避けられただけで満足している。
「トカゲの分際で、クソ生意気な」
翼を再度微調整。今度は宙で制止するように操作する。
ブレスの余韻に浸っているらしい竜は、人一人なら丸のみ出来そうなアギトを開きながら、目は俺を睨んでいる。さすがに距離を詰めた状態で睨まれると、背中に冷たい塊が駆け抜けてしまう。
――だがまあ、だからなんだという話ではあるのだが。
俺は背後に手を回して肩にある取っ手を掴み、一気に引き抜く。
姿を現したのは無骨な直剣。片刃の刀身は光を吸う黒。柄は手によく馴染むよう調整された相棒である。
竜が、敵である支配者が、警戒の唸り声をあげる。雰囲気の違いを見抜いたのか、殺気に触れたからだろうか。
どうでもいいことだ。俺は、コイツを狩らなければならないのだから。
翼に推進力を与える。目的はもちろん、相棒で敵を裂くためだ。
「ガァッ!!」
竜が、空を翔けて距離を急激に縮める俺を牙にかけようと、大きな口をさらに大きく開ける。きっと俺が奴の射程範囲内に入った瞬間に、口を閉じて羽虫のように辺りを飛び舞う俺を捕食しようと思っているんだろう。
それがどうした。食われるのが怖くて、この仕事が続けられるわけがない。それに、そんなトロい動きで、俺を捉えられると思っているのか。
くるり、と俺は体をひねり、竜の口撃を避けながらすれ違う。
「グォォオオッ!?」
相棒に血を吸わせることも忘れない。
すれ違いざまに一撃もらい、痛みにのたうちまわる支配者。切りつけられた左目から血を流す姿は涙を流しているように見えなくもない。
「痛いか? 悪かったな」
次は外さない。確実に、狩ってやる。
後方に流れた竜に体の正面を向けながら、俺は確固たる意志を胸に刻む。
再度、俺は竜へと突っ込む。今度はまっすぐ飛ぶのではなく、撹乱のために左右に揺れながらだ。
ただでさえ機動力に優れていると自負している俺の動きは、竜であっても簡単には捉えられない。左に右に首を振る竜の様子からも、そのことは容易に結論付けられる。
動きが捉えられないのなら、やることは一つ。
竜の牙から、火の粉がこぼれ、先ほどの倍はある火球を吐き出した。
標的が絞れないのなら、辺り一面を焼き払ってしまえばいい。世界一強い種である竜であれば簡単に出来るのだ。やらないはずがない。
俺は、相手が予想通りに動いたことに思わず口角を上げながら、体を翻して全力で横に飛び、凶悪な火炎を回避する。全身にびっしりと球のような汗が滲んだのは、きっと熱のせいだろう。
俺の狙いは、竜が苛立たせることだ。苛立ち、業火を使わせること。俺はそうさせるために、まどろっこしくフラフラと飛んでいた。
――理由は簡単だ。
「やっぱり、動けなくなるのか」
竜は炎を吐いた姿勢のまま、固まったように動かない。いや、その言い方だと語弊があるか。竜は今、動けない。
辺り一面を火の海に変える業火だ。その代償なのだろう。動けなくなると言ってもほんの数秒、堅固な鱗ならば稼げる時間だ。だからこそ、どんな敵が相手でも何も考えず全てを焼きつくそうとする。
それはとても正しい判断だと思う。鎧と言っても差支えないほどの強固な鱗を全身に着込んだ竜に、まともな生物は傷一つ付けられないのだから。
だが、俺は普通とは違う。
翼に火を灯す。今度は最短距離を一気に詰めて、数秒を逃がさないように俺は翔ける。
目指すは口元だ。無防備に開いている凶悪なアギトを、内側から斬り破ってやる。
「ァアッ? ガァアッ!」
チッ、あと少しだったのに。
竜が我に返ったのか、飛びかかる俺に咆哮を浴びせる。
俺は、ちょうど俺一人分ほどの距離を残して竜の咆哮を食らった。
体が突然の音量に震える。支配者の怒りを真正面から受けて、歯の奥がガチガチ鳴るばかりでかみ合わない。
――だから。
「どうした!!」
俺は翼にさらなる力を込める。状況が変わろうが目的は変わらない。
例え、竜が俺が来るタイミングを見計らって、顎を閉じようとしていたとしても、俺には関係ない。
――俺は、コイツを狩る。
肉が裂け、紅い花が咲いた。
「ウグッ!?」
俺の顔が、痛みで歪んだ。竜の噛み千切ることに洗練された牙が、足を砕こうとして刺さっているからだ。足の骨が軋む音が、すぐ近くで聞こえた気がした。
勢いを殺せず、バランスも崩した俺は、岩盤の上を滑るように跳ねた。纏っていた鎧の節々が全身を突いて、足に刺さったままの牙も相まってもはや苦悶の声すら上げられない。
だが、痛みを堪えて声が出せない俺はまだマシだ。
口から背中にかけて大きな裂傷が出来、物言わぬ骸と化した支配者だったモノに比べれば、まだ息が出来るだけ儲けものなのだ。
「ふぅ、任務完了。これより帰投する」
誰にともなく呟いて、俺は痛む体に鞭打って再度翼に火を付ける。この依頼最後の仕事を片付けるために。
俺が飛び、骸が転がるだけとなってしまった殺風景な場所に残された呟きは、誰の鼓膜を震わせることもなく空気に消えた。