てんしょう
「待って下さい、女王陛下!」
凛としたヒールの音と重苦しい銀鎧の足音が、混乱する王宮を進んでいく。
王宮の主である女性、アン女王は焦っていた。
彼女が治める王都に、過去最大クラスの存亡の危機が訪れていたからだ。
「いいえ、それは出来ませんよミーレス。今は一刻を争う事態なのですから」
どうして今、わたくしが王を務めるこの時に、竜などという下劣な種族が邪魔をするのかしら。
アン女王の思考を渦巻く、漆黒と呼んでいいまでの感情。竜鎧のあの男が彼女を嫌う最大の理由だった。
「竜の数は!?」
ほとんど叩きつけるような勢いで、アン女王は目的の部屋の扉を開け放った。途端に、混乱していた王宮の比ではない量の怒声が彼女を吹き飛ばす。
その部屋は国の軍部を一手に引き受ける指令室。普段の私も席を置いている、国の中枢機関だ。
「だから言ったでしょう。お待ちください、と」
甲冑を着込んでいるからか、丸腰の女王に追いつけなかった私は苦笑しながら、まるでここだけ周りから切り離されたような熱意の弁が振るわれている部屋の入り口で呆けるアン女王に声をかける。
「状況はどうなっている。敵の数は」
「み、ミーレス様! 戻っておられたのですね!」
「無駄事はいい。簡潔に現況だけ報告しろ」
私の姿に気付いて、走り寄る一兵卒の期待の眼差しを一言で切り捨てながら、義務を果たせと言う旨を伝えるミーレスは、女王の護衛ではなく、ましてや嫌味を言うだけの騎士でもなく、立派な戦士の顔をしている。
「はっ! 現在王都南西に多数のゴブリンが進撃中です!」
一兵卒が期待に緩んでいた顔を引き締めて、綺麗な敬礼と一緒に現状を報告した。
「数は?」
「約三千!」
「そうか。竜の姿は確認されたか?」
「いえ! 現在時点では報告がありません!」
「そうか……」
報告を聞いた私は右手をあごに持って行って考えをまとめながら、もう片方の手で兵士を持ち場に戻るよう指示を出す。
三千のゴブリンなど、普通ではない。まず間違いなく、上位生物が黒幕にいるはずだ。だが姿はまだ見せていないという。
これでは相手の思惑が分からない。三千ものゴブリンを従えさせるような生物など竜ぐらいしか思い浮かばないのだが。
「やはり、本筋に聞くべきだな」
「待ちなさい、ミーレス。あの鐘は竜の襲撃を告げるものではないのですか?」
私の思考が気にいらない選択肢を選んだところで、主である女性の声が説明を求めた。
「ええ、女王陛下の認識で間違ってはいません。これは竜の侵略です」
「でも竜の目撃情報はないと。いるのはゴブリンだけでしょう?」
私は現場を知らない上司の疑問に耳を傾けながら、意識は議論を重ねる部下たちの話に向けていた。
さすがに存亡の危機に問答だけしているつもりは、私にはなかった。
「三千ものゴブリンは極めて脅威です。確かに竜鎧一人でどうにかできてしまう竜より、数の揃っているゴブリンが目に入ってしまうのは仕方がない」
すぐに招集できる兵の種類と数。周辺諸国に救援を出せるか否か。
それら流れてくる情報を聞きかじりながら、私は敬愛する上司の疑問に答える。
「ですが、ゴブリンにそれほどの統制力はない。奴らは姿こそ人間に似ていますが、本質は獣のそれ。本能に抗うことは不可能です」
連中は本能で生きるケダモノだ。策を講じるだけの知能もなければ、脅威を排除しようとする狡猾な危機感もない。ただ食っては寝るだけの動物だ。
「そうは言いますが、現に連中はこの王都を目指して行軍しているのでしょう。わたくしたち人間が知らなかった生態があった、という可能性もあるのではないですか?」
「残念だがそれはないですよ。女王様」
私とは違う、女性の声がアン女王の言葉をを否定する。もちろん、声の主はアン女王ではない。
紅蓮の髪に烈火の瞳、深紅のロングコートは風に靡き、灼熱から冷めぬ手甲で目を回した竜鎧を脇に抱える女性。
かつて紅蓮のカイナと呼ばれた、酒場の店主の登場だ。
「遅かったではないか。紅蓮」
「悪いね。久しぶりだから加減が分からないし、二日酔いで世界は回っているしで、フラフラとしてたら遅くなっちゃった」
「国の由々しき事態に何をやっとるんだお前は……」
「急に呼び出す方が悪いんだよ」
私の苦笑に頭を抱えた苦笑で返してから、カイナは目を鋭く細める。
「状況は?」
「ゴブリン三千、竜の居場所は不明だ」
「なんだ、その程度。アタシ呼ぶほどじゃないじゃん」
カイナは拍子抜けとばかりに肩をすくめる。
たかが三千ぐらい。すぐにでも灰にしてやると言わんばかりの余裕が、彼女の態度からは表れていた。
「お前のような怪物を困らせるような状況になったら、それこそ国なんて滅ぶ」
「違いない」
もう一度、今度は私の言葉を冗談として受け取って、カイナは苦笑を漏らした。
「カイナ様? 息災のようですね」
「お久しぶりです女王様。アタシ堅苦しいのは嫌いなんで、カイナでいいですよ」
女狐と豪傑が互いに瞳の奥に渦巻く感情を秘めながら、笑顔であいさつを交わす。
「それで。カイナ様が先ほどおっしゃった言葉の意味を説明してほしいのですけれど」
「えーと、ゴブリンの生態がドウタラって奴?」
「はい。わたくしたちが知らないだけで、三千もの数が集まる理由があるのではないか、という話です」
「それはないって」
いつもと同じ、酔っ払いのバカ話に付き合う店主の笑顔で、カイナはアン女王の仮定を即答で否定した。
「ゴブリンに物を考える知能はない。もしもあったのなら、この王都は作られなかったよ。理由は分かるよね?」
「元々、人間が集まって出来た町です。どうしてその王都が作られないと?」
「……ふぅん。人間相手には頭が回るけど、それ以外となるとテンでダメなわけね」
「申し訳ない。こちらでフォローすればいいと思っていたから、敢えて我々の分野は教えていなかった」
「別にミーレスが謝らなくても」
苦笑し、しばし逡巡してから、カイナはコホンと咳払い。
「じゃあ、軽く説明だけするよ。時間もないわけだしね」
カイナの言うとおり、彼女たちが話している間にもゴブリンの歩は進んでいる。もうそろそろ私も戦の準備を始めなければいけないぐらいには、切羽詰まっている状況だ。
しかし、カイナは高速で移動する術がある。だからこそ、他の兵士よりはまだ時間に猶予があった。
「ゴブリンも集落を作って生活しているんだ。しかも、生息は人間とほとんど変わらない。正直言って、生態は人間とほとんど変わらないんだ。ただ、一つ違うとすれば」
「集落の発展度合い。町となり国という巨大な群れを形成している人間と違い、ゴブリンは村単位までしか集落を発展出来ないのですか」
「うん、まあそういうこと。じゃあなんでだろうね。その理由は?」
「発展に意味を成せなかったから、じゃないんですか?」
予想通りの答えに、カイナは吹き出した。
「いやいや、違うんだよ。同じぐらいの知能があれば、ゴブリンも国を作っていた。連中は連中で、群れを形成する有益さを知っているからね」
「じゃあ何故、ゴブリンの町が出来ないのですか?」
「人間に知恵があったからだよ」
人差し指をアン女王の眼前に突き出しながら、カイナは続ける。
「知恵があったから、ゴブリンたちが発展すると困ると分かった。困ると分かったら、邪魔するのが性ってものでしょ?」
結果、人間はゴブリンを駆逐していった。発展し、ゴブリンが国を作らないように、加減なく蹂躙した。
ゴブリンはやられっぱなしで、その場での迎撃はしても反撃はしようとしなかった。それがゴブリンと人間を分かつ、最大の差である。
「人間用に思慮を読み取る勉強をしていた女王様には、ちょっと難しい話だったかな?」
「いえ、そのようなことは、ないですよ」
カイナが皮肉っぽく笑い、アン女王は目を逸らしながら考え込んでいた。聞いた話を反芻して、理解をより深めようとしているのだろう。実にムダな努力だ。
そんなに難しく考えなくても、本能に身を任せればすぐに分かることだと言うのに。
カイナは、自分の怪物然とした考え方に、思わず苦笑した。
「ぅあ、やっと地面が回らなくなった」
空気を読んだのか読んでいないのか、ちょうど話が終わったタイミングでクロガネが意識を取り戻した。
「クロガネ。やっと酔いが醒めた?」
「ああ、まだ本調子じゃないけどな」
機嫌が悪そうに、顔をしかめるクロガネ。その目は寝起きの時みたく鋭い。
「じゃあ、アンタにしかできない仕事を頼みたいんだけど、話は聞いてたかな?」
「おう。ゴブリンの相手をカイナたちに任せて、俺は黒幕の竜を探せばいいんだろ?」
「クロガネ様。どうして竜がいると考えるのですか?」
アン女王の疑問がまた一つ生まれ、今度はクロガネが捕まった。
彼は他の兵士とは役割が違う。だから動くタイミングもある程度は操作出来る。
「それじゃ、クロガネ。アタシもそろそろ行ってくるから、女王様に説明よろしく」
「はっ? はぁ、分かったよ。気を付けてな」
「誰に物言ってんだか。クロガネこそ、無事に帰ってきてね」
苦笑して、紅蓮の女性が窓に足をかけ宙を舞う。目を見張るアン女王の視線を背中に受けながら、両手の手甲に力を集中させて炎を噴出。落下することなく空を翔けていった。
「さて、竜がいる理由だっけ? 簡単だ、三千ものゴブリンを従えさせる恐怖はそれぐらいしか思い浮かばないからだ」
「そう、なのですか?」
腑に落ちていない、と言った様子で、首をかしげるアン女王。
もしかしたら、ただ理解できていないだけかもしれない。ゴブリンの生態も知らなかったような彼女だ。クロガネたちのような思考回路までは、まだまだ遠く及んでいないんだろう。
「ゴブリンに三千もの群れを作る能力はない。それに、人間の集まる町を集団で襲うこともない」
「はい。そこまではカイナ様に教えてもらいました」
「連中は簡単に言えば動物だ。己のリスクを考えたら得策じゃない襲撃なんて、やるわけがない。ここまでは理解できるか?」
「はい。なんとなく、ですが」
「それは結構」
クロガネがため息を吐いて頭を抱える。本来なら王宮で筆をとる女王には必要のない知識だ。だから正直言って、説明する意味もない。
とんだ、外れクジを引いたものだ。
クロガネは自分を生み出した親のような立場の人じゃなかったら無視していただろう話を、面倒に感じながら説明する。
「本来なら有り得ないゴブリンの行動は当然ながら連中の意思でやっているものじゃない。」
「なるほど。だから黒幕がいるとみなさんが判断したのですね」
「ああ、そうだ。動物を従わせるもっとも簡単で単純な方法がある。それがゴブリン共に恐怖を抱かせること。少数ぐらいなら俺も意のままに命令できるが三千も恐怖に陥れるのはさすがに無理だ」
世界に竜と認識をずらさせた存在である竜鎧ですら少数しか屈服出来ない。その現実が指している意味に、アン女王は気付いたようだ
「まさか、その黒幕というのは」
「ああ、竜だ。それも、かなりの上位種だろうな。下手したら、俺たちが束になっても敵わないぐらいの」
アン女王が息を呑んだ。
もしもクロガネの言葉が本当だとしたら、王都は滅びたも同然。一刻も早くここから逃げるべきだ。
今がどれだけ緊迫した状況か遅ばせながら気付いた一国の主は、真っ青になってガチガチと歯の奥を鳴らし始めた。
彼女の体を支配する感情は一つ。
それはこの王都に向かって進むゴブリンと同じ原初の感情、恐怖という名の圧迫だった。
「心配するな」
二人しかいない軍司令部に、静かな声が響く。
「お前らに作られた竜鎧がいるだろ」
「しかしクロガネ様。アナタ一人では勝てないのでは?」
先ほどクロガネ自身が言っていたではないか。王都にいる全員が束になっても勝てる相手ではない、と。
精鋭揃いの騎士たちも、怪物と揶揄される紅蓮のカイナも、竜と同様の能力を持つクロガネでさえも歯が立たないような絶対的な支配者が、この王都に牙を向けている。
なのに、どうして、クロガネはそうやって笑っていられる?
「それを言ったら、そもそも人間は竜に勝てないだろ」
あくまで笑顔のまま、竜を狩る人間が自分の存在そのものを否定する。
「俺は竜鎧だ。限りなく人間で、限りなく竜に近い半端な化物だ」
「そうですね。クロガネ様は確かに竜鎧です。化物、と民衆に忌避されているのも知っています」
どういう方法でクロガネの本質を築き上げられたのか、当時から指示する立場に立っていた彼女はよく知っている。
「竜鎧は世界そのものから認識をズラされた存在。だから俺にルールなんて通じない」
世界そのものを支配する竜。その唯一の反逆者として、竜鎧は話を続ける。
「相手がどれだけ優位だろうと、相手がどれだけ格上だろうと、所詮は生物だ。恐れることはないだろう?」
「それは、そうですが……」
言うのは簡単だ。誰にでもできる。
ただ、虚言を実現させるのは、並大抵のことではない。
「安心しろよ。俺は竜を狩る。今までもそうだったし、これからもそうする」
クロガネは冗談を言うつもりでもなく、本心からそう思っているのだろう言葉を紡ぐ。
何故、これほどまでに舌が回るのかはクロガネ自身にも分からなかったが、それでも話は止まらない。
「俺はアンタのことが嫌いだ。でも、この町は少し気に入っている。トカゲごときに、壊させはしない」
クロガネが漆黒の竜鎧を展開させていく。二つの日輪を背負った東洋の鎧が、戦いの準備を静かに始める。
「待ちなさいクロガネ、それではまるで……」
――遺言を残すようではないか。まるで、会うのはこれで最後だと言っているようなものではないか。
アンは焦燥感溢れる予感に、思わず漆黒の鎧へと手を伸ばす。
「本心から俺を呼んだのは初めてだな」
鎧の奥で、クロガネが子供のように口角をあげる。
「じゃあな。アン女王」
「きゃっ!?」
轟、と。
まるでアンの手を拒むように、クロガネは二つの翼に火を灯す。
「これより、任務を開始する」
小さく呟いてから、クロガネもまた空を翔けていった。