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青空ブランコ・秋

作者: こうやまみ

 この場所には、様々なものが空から降ってくる。冬には深々と積もる雪、春には淡く香る桜の花びら、夏には燦々と輝く太陽の熱。

 そして、今。

 季節は、秋。

 枯れゆく落ち葉が色も鮮やかに、乾いた大地に降り積もっていく。秋晴れの空はどこまでも高く、まるではるか上空をゆったりとすべっていく鱗雲とともに、心まで高く上っていけそうに思えてくる。

 秋は、とても不思議な季節だ。

 紘平(こうへい)は、実家の近所の公園のブランコの前で、コートのポケットに手をつっこんで、ぼうっと立ちつくしていた。

「待ちあわせ場所にしては、おかしいよなあ」

 つぶやいて、少しだけ笑う。

 この公園には、子どものころの記憶がいっぱいにつまっている。大人の待ちあわせ場所にしてはずいぶん不似合いなものだが、自分たちがもっとも時間を共有していた時代の象徴といえば、やはりここなのだ。紘平の思い出の象徴――それがこの公園であり、ブランコだった。

 公園のブランコは、その昔『青空ブランコ』と呼ばれていて、近所の子どもたちの間で絶大な人気を誇っていた。雨が降ると、ブランコの周りには、四本の支柱をぐるりと囲むほどの、それは大きな水たまりができる。そうしてたっぷりたまった水面には、雨上がりの晴れ渡った青空が一面に映りこむのだ。水たまりがある間だけ、ブランコは『青空ブランコ』と呼ばれ、そのときにブランコに乗ると、名前の通り空でも飛んでいるような気持ちになれるのだった。

 しかし今、ブランコ下に、子どもたちが靴裏をすって少しずつ深くなっていったくぼみはない。ブランコの周りは十分に盛り土されていて、グリーンの人工芝が敷かれていた。青空ブランコと呼ばれることは、きっと、もうない。

 ひときわ大きな風が吹いた。誰も乗っていないブランコがあおられ、かすかに揺れる。紘平はふとそこに、ないはずの姿を見たような気がした。子どものころの自分たちが、無邪気に遊んでいる姿を。

「懐かしい。本当に」

 紘平の思い出のなかには、いつだって二つの笑顔がある。小さいころは、四六時中ずっと一緒にいた、幼なじみ。

 彩人(あやと)と、律季(りつき)の笑顔だ。

 紘平にとって、特に印象深いのは、律季の笑顔だった。とりたてて大きな出来事があったわけではない。ただ、何気ない日々の生活のなかで、彼女の存在は鮮烈だった。はつらつとした、活動的な姿は、いつも紘平の目を引いた。自分にはないものを確かに持っていて、ときにはうらやましくもあり、ときには疎ましさにさえ苛まれた。

 ――好き、だったのだろうか。

 そう、ときどき考える。だが、律季が彩人を好いていたことは昔から知っていたし、二人のことを素直に応援してもいた。二人がうまくいったときなど、喜ぶというよりは、やっと落ち着いたか、と父親にでもなったような気持ちで安堵したものだった。

(違うんだ。もっと、何か……)

 今思えば、恋心でも何でもなかったのかもしれない。好きという感情に、限りなく近い、何か。年を重ねては、過ぎていった日々を思い、その象徴として、彼女の姿が鮮やかに浮かび上がっていただけなのかもしれなかった。

 けれど、まぶしかったのだ。それは、今も変わっていない。世界を照らす太陽のように、紘平の青春時代を輝かせ、照らしている存在。それが彼女――律季だった。

「コウ、久しぶり」

 呼ぶ声がした。昔よりもう少し低く、重ねた年月のぶんだけ深くなった、幼なじみの声だ。

「待った?」

 次いで、昔とちっとも変わらない、軽やかな彼女の声がきこえた。

 刹那、過去に引き戻されそうになる。紘平は秋空を見つめていた目を固く閉じた。まぶたの裏に、過ぎ去っていった日々がフラッシュバックする。

「いいや――」

 紘平は深呼吸して目を開くと、振り返って笑顔を浮かべた。そこに立っていたのは思い出のなかの彼らではなく、たくましく成長し、大人になった幼なじみたちだった。

「おれが早く来ただけだ」

 彩人は笑顔を返し、あいさつ代わりに腕で首をしめてきた。律季はそばで見守りながら、肩にかけているストールでくるむように、腕に小さな子どもを抱えていた。

「またおっきくなったなあ」

 彩人の腕を外しながら、律季に近づく。律季の腕のなかで無防備に眠っている子どもの頬をつついてみる。子どもは少しだけ身じろぎして、口をむにゃむにゃさせた。たまらずほほ笑んでしまうと、律季もまたほほ笑んだ。

「わたしたちはこの間会ったばっかりじゃない」

「いや、子どもの成長は早いっていうし、毎日見ても飽きないだろう」

 横から、彩人がひょいと子どもの顔をのぞきこむ。

「だんだんおれに似てきたと思わない?」

「ええ、アヤに似てるのかよ」

 不満声で返してみせると、たちまち彩人が取っ組みかかってくる。紘平は声を立てて笑いながら彩人に応酬した。

 大人になって、幼なじみだった三人の関係は変わった。彩人と律季は高校のころからつきあい始め、数年前に結婚していた。彩人と紘平は同じ高校に通い、野球部でリトルリーグ来のバッテリーを組んでいたが、大学進学でついにそれぞれの道へわかれたのだった。

 そして、流れる時間のなかで、紘平もまた一つ、変化に直面しようとしていた。

「紘平のところは?」

「まだまだ。来年の春くらいかな」

「そっかあ。春、かあ」

 来春、紘平は、父親になるのだ。大学で知りあった女性と結婚したばかりの紘平にとって、このうえなく嬉しい知らせだった。今は、生まれ来る子どもへの希望と感謝を胸いっぱいに抱えながら、夫婦であれやこれやと準備に勤しんでいる最中だ。

 ふと、春と秋は似ていると、紘平は思う。確かに存在するけれど、まるで一瞬のように、いつの間にか終わってしまう。しっかり目を開けて、手を広げていても、するりとすり抜けて、去っていってしまう。

 つかの間の季節は、いとおしさと、それと同等の悲しさをはらんでいるような気がした。

「春になったら、お花見でもしたいね」

 律季がぽつりとこぼした。

「中学校の桜は、けっこう見ごたえあるしな」

「そのころには、コウも一家の大黒柱になるわけだ」

 三人で顔を見あわせ、笑いあう。

 ゆっくりと、季節はめぐっていく。滞りなくめぐって、きっと、これからもいろいろなことが変わっていくのだろう。変わっていくものと、変わらないもの。二つを見極める必要なんてないのだけれど、心はどうしても、変わらないものを追い求めてしまう。この季節になると、そういう心を、より強く感じてしまう。

 先ほどよりも空気がひんやりとしてきたからだろうか。妙に人恋しくなってしまって、紘平は彩人にぴたりとより添う。

「寒い。アヤ、あっためてくれ」

「うわ、近づくな」

 こうして彩人とじゃれあうことも、変わらない。

「もう、相変わらずなんだから」

 そう言って二人を見守る律季のまなざしも、変わらない。

 青空ブランコは、もう、青空ブランコではない。そこにいっぱいの水をたたえ、空を映しだすことは、もうないからだ。しかし今、ブランコの下には、色鮮やかな落ち葉がやわらかに、いっぱいに降り積もっていた。これはこれで、悪くはないのかもしれない。

 紘平は空を仰ぎ、はあと息を吐きだした。うっすら白くなって空気に四散していく様を目で追いながら、やがて訪れようとしている季節の気配を感じる。

「その前に、冬だな」

 紘平のかたわらで、彩人が暮れ始めた空を見上げる。

「なあに、すぐに春が来るさ」

 何気ない彩人の言葉に、紘平の心はこんなにも軽くなる。ほころんだ紘平の顔をのぞきこんで、律季が笑う。

「紘平ったら、すっかり子煩悩なお父さんの顔になってる」

 そうして、また、三人で笑いあう。

 三人だった笑顔の輪のなかに、今はもう一つ、健やかな寝顔がある。来年の春には、もっと増える。きっと、これからもっともっと増えていくのだろう。輪は、年を重ねるごとに大きく、あたたかくなって、自分たちを包んでいくのだろう。

「さあ、それじゃ、そろそろ行こうか」

 彩人が声をかける。紘平と律季が頷いて、三人は連れ立って公園をあとにした。

「アヤんところのおばさんの料理、すっごく久しぶりだなあ」

 今日は、幼なじみ三人、彩人の実家に集まって夕飯を食べる約束をしていたのだ。おそらく在学時以来であろう今回の催しに紘平が胸を踊らせていると、

「わたしもお手伝いしなくちゃね。紘平は相変わらず大食らいみたいだし」

 律季も上機嫌でうけあった。紘平は思わず目を点にして尋ねてしまう。

「ええ、律季が?」

「何よ、文句あるの?」

 一転、律季がじっとりと紘平をねめつける。すると、彩人が紘平にそっと耳打ちしてきた。

「律季って、意外と料理上手なんだよ。おれも最初はびっくりしたんだけどさ」

 いたずらっぽい笑みを浮かべている彩人に、紘平もにやりと笑い返していた。釈然としない顔で紘平と彩人を見つめていた律季だったが、公園のすぐそばにある彩人の家の前まで来ると、

「ああ、そうだ。買いだしお願いしていい?」

 思い出したように声を上げた。

「食材はお義母さんが準備してくれていたんだけど、お酒がまだらしくて」

「わかった」

 彩人が快く返事をすると、

「おれも行くわ」

 紘平も彩人にならった。

「ありがとう。それじゃ頼むね、二人とも」

 彩人は律季に近づくと、ストールのなかにくるまっている子どもの頭をそっとなでる。それから、律季の髪の毛をそっとなでて、

「いってきます」

と言ってほほ笑むと、踵を返し歩きだした。紘平は彩人の横に並ぶなり、

「あんまり見せつけんなよ」

と、彩人に肘を押しつける。彩人は涼しい顔をしていたが、それでも、どこかとても満足げだった。紘平は頭の後ろに指を組んで、藍色の東の空に輝く一番星を見上げる。

「おじさん、元気かなあ」

「元気元気。相変わらずだって」

「昔はよくアヤと一緒にキャッチボールしてもらったもんだ」

「そうだなあ。今日だって、コウが来るって言ったら、めちゃくちゃ喜んでた」

「そっか」

「ああ」

 それきり、二人はしばらく無言のまま歩き続ける。

 もうすぐ、紘平は、新しい輪の中心となっていく。しかし、それと同時に、彩人の父と母や、紘平の父と母、祖父母――彼らの築いてきた輪のなかに、自分もまたいる。輪は、幾重にも重なって、連なっていくようだ。もしかしたら、輪ではなく、螺旋なのかもしれない。延々と、この世界に時間が始まったときから続いてきた、命の螺旋。

 彩人が、コウ、と呼びかける。

「来年は、家族、連れてこいよ」

「そうだな」

 暮れなずむ町のなかを、二つの長い影が歩いていく。彼らの手のなかには、たくさんのものがある。与えられてきたもの、作りあげてきたもの、守るべきもの、ゆるぎないもの――。今はただ、そのどれもが、いとおしい。澄み渡った秋の空に、この満ち足りた心が、どこまでも広がっていくようだ。

「どうしてだろうなあ」

 ――秋は、とても不思議な季節だ。

 彩人が首を傾げる。

「何が?」

 紘平はいいや、と頭を振ってから、口の端を上げる。

「どうして律季は料理が上手なのかと思って」

 彩人はどこか意味深に笑んでみせると、

「さあ、どうしてだろうなあ」

と、紘平と同じことを言うのだった。紘平も特別追及せず、彩人と同じに笑った。彩人のほほ笑みから、すでに答えをもらっているような気がした。

 薄暗くなってきた路地を、一陣の風が吹き抜け、頬の熱をさらっていく。紘平は思わず身震いする。

「寒くなってきたな。急ごうぜ、アヤ」

「ああ、そうだな」

 阿吽の呼吸で歩調を速める。

 深まっていく秋を肌で感じつつ、二人は背中を丸めながら、まだまだ花が咲いたばかりの昔話に興じた。




〈了〉

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