ありがとう
長山高校の高校球児山下光広は本を読むことが好きで、練習帰りに書店に立ち寄ることが趣味と言えるほどだった。夏休みになった今では二日に一回のペースで通っているほどだ。そんな彼も最近の生活には嫌気が差していた。長山高校は公立校だが、何故か中学時代クラブチームで活躍していた選手が何人もいるし、無駄に練習は長く厳しい。そのお陰で、彼は試合にはあまり出れず毎日の練習で疲れ果てていた。そんな彼には小説だけが唯一の癒しだった。
今日もキツイ練習が終わり、気が付くといつもの書店に足を運んでいた。何か面白いのないかな。そう思いながら奥の方へ進もうとした。その時目の端に見覚えのある顔を捉えた。あれは確か……同じ中学だった三井勇二だ。そういやあいつちょっと不良だったな。中学の時に比べるとまともになってる感じはするけど。そんなことを考えていると、向こうも此方に気付いたようだ。
「おー、山下久しぶり。何してんの?」
「何ってここ本屋だからね。本買いに来た。」
そう言った瞬間に、光広は三井が『小説入門』という本を手にしていることに気付いた。
「それよりお前小説書くの?」
光広は三井が持っている本を指差した。
「ああ、これね。いやまぁ暇潰しかな。」三井は何故か悲しそうな笑顔を見せた。
「なるほどね。じゃあ俺は本買いに来たから行くね。」光広は三井が見せた笑顔に少し疑問を感じたものの、これ以上話すことも特に無いし何より疲れていたのでこの場を立ち去ることにした。
「あ、ちょっと待って。」
「何?」光広は振り返る。
「山下って文章書くの得意だよな?」確かに光広は中学の読書感想文で賞を取ったこともあるし、高校の現代文の成績も良い。一時は小説家を目指していたほどだ。
「もし良かったら俺のために小説書いてくれないか?」三井は涙目だった。
「何だよ、説明しろよ。」
「実は俺の父親が末期ガンでもうじき死んじゃうんだよ。でさ、俺の父親が小説家だってのは知ってるだろ。その父さんに俺が立派に成った姿を小説で見せたいんだけど、俺にはなんの才能もなくて……。お前しかいないんだよ。だから頼むよ山下……。」 そう言い終わる頃には彼は泣きじゃくっていた。しばらくの沈黙の後口を開いた。「うーん……。良いよ。俺も父親病気で無くしてるから。」彼は父親が亡くなったことを誰にも言うつもりは無かったので自分でも驚いた。しかし、突然亡くなった父親へ何もしてやれなかったことを今でも悔やんでいたことは確かだ。
了承されるとは思ってもいなかった三井は多少驚いていたが、光広に感謝していた。
その日は連絡先を交換し、家に帰った。光広は帰ってからいつも通り風呂に入り、食事を摂った。何気なくベッドに横たわると、書店での出来事が目に浮かんだ。本当に引き受けちゃって大丈夫かな。そんな不安が込み上げてくる。まず問題なのが、あのキツイ練習があるということ。野球と執筆を両立出来るのか。そして、自分には文章は書けるがアイデアが浮かばないと言う欠点がある。まぁ今は考えなくて良いや。明日は貴重なOFFだし三井と会って書いてみてからだ。
翌日三井の家に行った。まずどんな小説を書くのか話し合った。
「まぁ山下が書きやすいジャンルで良いよ。」
「そんなこと言ってもネタが思い付かないんだよなぁ。」
「野球やってるんだからそれを参考にしてみたりとかは?」
「あぁ~、いいんじゃないかな。」
今日は進展があまり無く、家に帰った。三井には野球物を提案されたが、本当にそれで良いのだろうか。それで自分が立派であることを示せるのか。いっそ下手でも自分で書くべきではと言う考えも浮かんだが彼の気持ちを思うと言えなかった。
次の日からまた練習が始まった。朝9時から夕方6時まで。帰って風呂、食事等をすると執筆出来るのは8時頃からだ。光広は机に向かい、何とかアイデアを出そうと必死だ。三井は父親に立派になったところを見せたい…そういや三井って不良みたいな感じだったな…そんな奴が小説書くと確かに喜ぶだろうな…でも、中学の時に比べると高校では真面目にやってるらしい…ん?三井自身を小説の主人公にして不良だった頃から真面目に成った過程、ああやって俺に父親に立派になったところを見せたがっていた所を多少フィクションをつけて書けば……。え?これいいんじゃない?俺天才じゃん!光広は良いアイデアが浮かんだ安堵と疲労でその直後椅子の上で眠っていた。
三井にはこのアイデアのことは言わなかった。どうせ恥ずかしがって反対するに決まってる。でも、この位しないと想いは伝わらない。恥ずかしがって気持ちを伝えられないのがどんなに悔しいことか、俺には分かる。
その日から毎日のように光広は8時頃になると、机に向かって小説を書いた。そして夏休みも残り一週間となった日、小説は遂に完成した。それを三井に渡し、ワープロで打ち印刷するように言った。
「ありがとう、本当にありがとう!」彼はただただ喜んでいた。
「いや、別に良いよ。案外楽しかったし。」それを聞くと三井は原稿に目をとおし始め、しばらくすると
「やりやがったな。どおりで内容を教えないわけだ。」とニヤリと笑った。
「でも、まだ完成した訳じゃない。最後に三井の想いを書くんだよ。」
「でもそれじゃあ俺が書いてないのがバレるし……。」
「良いじゃん。お前は立派になったところを見せたいんだろ?」
「うん、まぁ。」
「だったらこの内容でその目的は果たせるじゃん。」
「そう…だな。うん、ありがとう。そうするよ。」三井は納得したようだ。良かった。ありがとう三井。これで俺の中のモヤモヤも晴れたような気がするよ。あとはこの想いが彼の父親へ……。
俺は走った。今までに無いくらい周りの景色が速く過ぎていく。ものの5分で家に着き、早速パソコンに向かった。元々タイピングは得意だったので原稿を写すのは造作も無かった。しかし最後に俺の想いを書かねばならない。そりゃあ今まで一緒にいて言いたいことはたくさんあるけど、文字にするのは難しいんだよなあ。それに最後に何を言えば……。
するとここでふと思った。別に沢山書かなくても良いじゃん。俺の気持ちを一言で表してくれる、そんな言葉……。
三井は病院にいた。
「すいません、もう少しで面会時間終わるんですが。」見知らぬ看護婦が困った様子で言う。
「お願いします、少しだけ会わせてください。お願いします。お願いします。」その必死な彼を見て看護婦はなにも言わず通してくれた。
扉を開けると、父親は外を見ていた。
「こんな時間にどうした。」父親は微笑んだ。
「実は渡したいものがあって……。」三井は二十枚に及ぶ印刷用紙を差し出した。
「お前が書いたのか?」
「それは、読んでからのお楽しみだよ。」やばい、これ以上ここにいると泣いてしまう。早く出よう。
「じゃあまた来るから。読んどいてね。」
「ああ。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
父さん、思ったより元気そうでよかったなあ。病室を出て初めに思ったことだった。
彼はひしひしと自分の息子が立派に育っていることを感じた。しかし、自分が病気とは言え元小説家。これが息子が書いたのではないことくらい分かる。しかし最後の文、これは違う。勇二、お前も良い文が書けるようになったじゃないか。彼は泣きながらその文章を復唱した。
『ありがとう』