第三章 芽吹き始める 1
ガーデン・パーティを始まりとして、お互いが定めた三ヶ月という期限を有効なものにしようとするかのように、レイドリックと共に過ごす時間が圧倒的に増えた。
時々は軽い口論めいたこともあるけれど、そうであっても気心の知れた彼との時間は素直に楽しく、また自分を良く見せようと偽る必要も無い自然体のままでいられるので、居心地が良い。
レイドリックも肩肘を張らないで良い、と言う意味ではローズマリーと同じようで、良く笑い、時々戯けながらも自分との時間を楽しんでいるようだ。もっとも、二人の関係はと言うと、幼馴染み半分、婚約者半分と言った少々どっちつかずなものなのだが。
一応は、お互いに心半分に意識しているだけ、進歩と言えるのかも知れない。
あれだけ大騒ぎをして、試用期間だの、努力をしようだのと言っていた割には、まあまあ良い関係が築けているのではないだろうか。
レイドリックは折角王都にいるのだからと、ローズマリーを観劇や音楽鑑賞に美術館、王立図書館に植物園等、様々な場所に連れて行ってくれたが、ローズマリーが一番好きなのは公園や森での、緑溢れる自然との触れ合いだった。
男爵家では、比較的貴族の令嬢としては自由に過ごしてはいたけれど、もちろん外出するとなれば行き先は厳選されたし、必ず供も付く。付いた供は万が一のことがないようにとローズマリーの行動に目を光らせるので、なかなかあちらこちらを歩く、という訳にも行かない。
その点レイドリックが一緒だと、誰も文句を言わないのが良い。つまりはそれだけ、兄や母、そして屋敷の者達から彼が信用されている証だ。それ自体は良いことなのだろうけれど、ローズマリーとしては少しだけ悔しいのも事実だった。
とは言え、外出はやはり楽しい。元々活発な性格の少女だ、家の中に閉じ込められているよりは外の空気を吸っている方が気持ちが良いし、様々なものを目にし、経験することも嬉しいと思う。
特にローズマリーは、レイドリックの愛馬に興味を示した。
白と緑を基調とした彼の騎士服に良く似合う、真っ白な白馬は、名をヒンティという美しい牝馬だ。騎士の馬としては戦場に置いて、重たい甲冑を身につけた騎士を背に乗せ疾走しなければならないと言う役割の為に、体格の大きな牡馬を選ぶ騎士も多いが、レイドリックはあえてこのヒンティを選んだのだという。
「何だか優しい顔をしているだろう? 初めて目が合った時に何か、運命的なものを感じたんだ。まあ、俺の思い込みかもしれないけどね」
でも多分、これは両想いだよと。
言いながらレイドリックが顔を撫でてやると、嬉しそうに頭をすり寄せてくる。馬を刺激しないよう、ゆっくりと近づき顔を覗き込めば、馬の顔の違いなど判らないはずなのに、確かに優しい顔立ちをしていると感じた。
そっと手を伸ばして、レイドリックの真似をしながら頭を撫でてやると、思ったよりも固いたてがみと滑らかな毛並みに感動する。間近で見れば驚く程豊かで長い睫毛に、
「私より立派な睫毛だわ」
と笑うと、そんなローズマリーにヒンティも笑うようにそっと鼻面を押し付けてきた。
「乗ってみる?」
「いいの?」
「もちろん、ローズ一人では無理だから、俺との相乗りだけど。ヒンティも君を気に入ったようだし、きっと乗せてくれるよ」
軍馬は通常の馬とは違う、特別な訓練を受けている。その為、乗り手を馬自身が選ぶ騎馬も珍しくはない。馬と、騎士との信頼関係が成り立っていないと、それが戦場で命に関わることも多い。
馬をただの資産としか考えていない騎士も沢山いるけれど、上位の騎士になればなるほど、自分の馬は武器や甲冑と変わらないか、それ以上に大切にする。レイドリックも同じだ、彼の愛馬に対する思い入れは、下手をすると人の女性に対してよりも深いのではないかと思えるくらいだ。
その馬に乗せてくれるというのだから、ここは素直に喜んで良いところだろう。
「乗りたいわ! 家ではお兄様が、危ないからと近付くことも許してくれなかったの」
「俺はデュオンよりも馬の扱いは得意だから、大丈夫。おいで」
レイドリックに引っ張り上げられ、思ったよりも高い馬の背で、バランスを崩しそうになる前に彼の腕が回って、ローズマリーの腰をしっかりと鞍に収めてくれた。
ピタリと身を寄せられ、後ろから抱きかかえられるような姿勢には、内心ドキリと鼓動が跳ねたが、それもヒンティが歩き出すまでのことだ。賢く優しい馬は、普段とは違う客を自分の背に乗せていることを自覚しているのか、ローズマリーを怖がらせないように始めゆっくりと、次第に駆け足程度の速度で走り出す。
横座りのまま馬上でバランスを取るのはなかなか難しかったけれど、しっかりとした手綱捌きと、自分の身体を覆うように支えてくれているお陰で恐いとは思わない。
馬車の窓から外の風景を眺めるのとは全く違う経験に、自然と歓声が上がった。
「凄いわ、気持ちいい…!」
「この素晴らしさが判るなら、君にも乗馬のセンスがあるね。馬のことも怖がらないみたいだし、俺の家に来ることになったら、暇を見て一人でも乗れるよう教えて上げるよ」
「本当? 約束ね!」
晴れやかに笑うローズマリーは、家に来ることになったら、という言葉が「嫁いで来たら」という意味であることに気付いていない。精々、遊びに来た時に、と言う感覚だ。
これは、彼女が無邪気と言うよりも、ただ純粋に言葉の意味に思い至らない、と言うだけのことだろう。
男として全く意識をしてないわけではないけれど、言動の全てに敏感に反応するほどでもないローズマリーに、レイドリックは苦笑に似た笑みを洩らした。
「何がおかしいの?」
頭の上から振ってきた、微かな笑いの気配に顔を上げて見ても、レイドリックは何でも無いよと緩く首を振るだけで教えてくれない。なにやら含みがある様子に頬を膨らませたのは一瞬だけで、すぐに流れゆく景色と、肌に触れる風の心地よさ、そして普段は経験することの出来ない馬上での爽快感に、また笑みが零れる。
「乗馬が上手ね」
「そりゃあね。騎士が馬を満足に操ることも出来なければ、戦場には出られないだろう?」
もっともだ。貴族の嗜みや、道楽程度ではとても勤まらない。ある意味彼にとっては乗馬は、剣術と同じくらい重要な彼の本職でもある。
だが…何気なくレイドリックが口にした、「戦場」と言う言葉に、それまでローズマリーが浮かべていた笑顔が、急激にしぼむのを自覚した。
ここ数年は、この国で大きな戦争は起こってない。だからこそ芸術や文明、貴族社会が発展して来ているのだが、それでも国内各地では小規模ながらも何らかの諍いは起こっているし、時には騎士が出動することもある。
一番近い記憶では、半年程前に国境近くに領地を持つ領主の一人が、現在の身分以上に個々の実力を重く取る内政に反発して、近隣の諸侯と連携し内乱を起こしたことがあった。
現在の国王、アルベルト三世は、自らが優れた騎士王であることから、身分よりも実力ある者を重用する比重が高い。身分と才能の両方が揃っていればそれに越したことはないが、平民でも才能や実力のある者は積極的に役人や騎士に取り立てる方針だ。
王宮騎士団は王が即位する百年も前から存在しているが、殆どは貴族やその子息を中心に与えられる名ばかりの名誉称号であり、今のように実力の伴った騎士で真実の意味で騎士団として形成されたのは、アルベルト三世が即位してからのことである。
それが古くから土地と財産、血筋を守り続ける貴族達には面白くない。
彼らに言わせれば、何よりも尊いのは血筋であり、多少腕が立つからと言って血筋の正しからぬものが城の中枢にまで食い込むことは、長く続いた王国の威信に泥を塗る、という主張だ。
表向きは王に従いながらも、内心同じことを考えている貴族は多いだろう。
政治の詳しいことなどローズマリーには判らないものの、政治の中枢である王宮内では、貴族と平民、そして中立を保つ三つの派閥に別れていると訊く。
一見平和を保たれているように見える国も、ほころびはいくらでも存在する。半年前の内乱には、レイドリックも含む王宮騎士団の一隊と正騎士団の一つが王命により出動し、無事制圧した時のことを思い出した。
兄から、レイドリックの出陣を聞かされたローズマリーの心中は、決して穏やかではなかった。彼が戦に出るのはあれが初めてというわけではないけれど、いつだって親しい人が戦に出ると聞かされれば、無関心ではいられない。
「…また、戦場に行くの?」
「もちろん、必要な時には。………寂しい?」
悪戯っぽく囁かれ、今度はさすがに彼の声に含まれた意図に反応して、ローズマリーはぷいと顔を背けた。一瞬にして、カッと頬に昇った熱を誤魔化すために、わざと怒った口調で言う。
「すぐ調子に乗らないの! もう…家族ぐるみで親しい人が戦場に行くって聞いたら、心配の一つくらいしても当たり前でしょう!」
もっとも、その誤魔化しは上手く行っているとは言えないかも知れないけれど。証拠のようにレイドリックの、くすくすと偲び笑う声が聞こえて来る。露骨にからかう気配にムッとするけれど、馬上で彼に支えられた今の状態では逃げ場がない。
ローズマリーに出来たことは、口元を引き締めながら、視線を周囲へと投げることだけだ。
そのまま、少しの沈黙が二人の間に訪れて。その沈黙を破るように口を開いたのは、レイドリックだった。
「今のところ戦争に出る予定は無いけれど、来月、戦う予定は出来たんだ」
「………えっ?」
戦争ではないけれど、戦う予定があるとはどういうことだ。驚きと共に、むくれていたことを忘れてパッと振り返るローズマリーに、レイドリックは口元に笑みを刻んだまま種明かしをする。
「御前試合があるんだよ。それぞれの騎士団に所属している騎士のね。もちろん全員は無理だから、各騎士団から代表が数人選ばれて参加する形式のものだけど」
「御前試合? レイドリックも出るの?」
「そう。上司命令で。戦いがないからと言って、腕を磨くことを怠ってはならない、という陛下のご提案とのことだよ。あとはまあ、半年前の内乱に荷担はしていなくても、含む感情を持つ諸侯達に対する牽制の意味もあるのかな」
王宮騎士団を始め、騎士団は言わば王にとっては懐剣だ。存分に王の騎士達の力を周囲に見せ付けることで、叛意を押さえようとする考えなのだろう。もちろん、本当に叛意を翻そうとする者をそれで完全に押さえ込むことが出来るわけではないが、行動を慎重にせざるを得ない状況にすることは期待出来る。
「当日の御前試合は観戦出来るから、デュオンと観に来ると良い。ついでに俺の応援をしてよ。…アッシュギルのじゃなくて」
「アッシュギル様も出るの?」
「出るよ。あとは………エリオス卿も」
少しばかり重たい口調で呟いた名は、聞き覚えはあっても知らない人の名前だった。エリオス…どこで聞いた名だろう、と考えて思い出したのは、エリザベスの顔だ。
確か彼女が、自分とレイドリックが幼馴染みだと知った時に、自分にも幼馴染みの騎士がいるわよと笑って教えてくれた人の名ではなかったか。
「エリオス卿って……確か、エリザベスの?」
「そう。レディ・エリザベスの幼馴染み、ブラックフォード公のご子息だ。シュワルツ侯爵を名乗っておられるけれど、騎士としての呼び名の方が馴染みが深い。君はまだ、会ったことがない?」
「公爵家の方とお会いする機会なんて、あるわけないわ」
「そうか。ならきっと、見ることくらいは出来ると思うよ。もっとも、俺としては……出来ればあの方には、御前試合は欠席して欲しいけどね」
あの方に勝つのは、とても難しいだろうから。
どちらかというと自信家で、自他共に相応の力を認められているレイドリックのものとは思えない、弱気な発言だ。例え相手が誰であっても、勝って見せると言い切りそうなものなのに。
相手が公爵家の子息だと、充分な実力を発揮してみせることは難しいのだろうか。そんな失礼とも言えるローズマリーの疑問を、笑って否定したのはエリザベスだった。