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第二章 恋人試用期間中 4

 誰もいないと思ったのに。だからこそのローズマリーの行動でもあるが、考えて見れば今現在進行形で、パーティが広げられているこの庭園内で完全に人の目から離れることなど、最初から無理だったのかも知れない。

 どうしよう、さすがにこれでは情けなさ過ぎる………レイドリックが。

 移り気な幼馴染みに怒りは抱いても、彼に社交界で無用な恥は掻かせたくはない。ローズマリーの顔が思わず、さーっと強張った時。木々の葉を揺らせて、その陰から姿を見せた人に思わず、ぽかんと小さく口を開いて見上げてしまった。

 その人は、社交界に疎いローズマリーでも、良く見知った人物だったからだ。

「済みません、お邪魔してはいけないと判っていたのですが、二人の会話が面白すぎて」

「…アッシュギル」

 驚いたことに、その人物の名を呼ぶレイドリックの口調は、随分と砕けたぞんざいなものだ。本来なら自分達よりも遙かに上位の階級を持つ人物相手だというのに、敬う素振りも見せずに、彼の名を呼び捨てる。

 なんて失礼なことをと一瞬考えて、すぐに二人の共通点に気付いて思い直した。そう言えばこの二人は、昨年同じ時期に王宮騎士団に取り上げられたはずだ。人数の限られた、それも同じ年頃の青年同士、身分がどうのと言う以前に同じ王宮騎士として、交流があったとしてもおかしくはない。

 納得したは良いものの、だからといってローズマリーまでが砕けられるほどには、気安い心境を与えてはくれなかった。それどころかここにいるのがアッシュギル本人だと実感すると、とたんにじわじわと頬に熱が昇って、頭がぼーっとしてしまう。

 アッシュギル・グランエード。それが彼の名だ。

 グランエード侯爵家の後継者で、王宮騎士団所属。社交界では父親の侯爵が持つ第二の爵位である、フォーガスト伯爵を名乗っている。とは言え、社交界が得手ではない彼は、あまり華やかな催し物に姿を見せることはないのだけれど。

 物腰が柔らかく、穏やかな微笑を浮かべている彼は、身に纏う雰囲気も穏やかで優しいもので、騎士というイメージはその外見からは伺えず、だからといって貴族らしいというイメージもあまりない。

 一番しっくりと似合うのが、小さな子供達の先生……あるいは優しい牧師様、という印象だろうか。堅苦しい牧師服も、彼の優しい顔立ちに、アッシュブラウンの髪とラベンダー色の瞳が良く似合うだろう。

 そんな彼を、心ない者達は影で生まれがどうのと陰口を叩く者もいるけれど、彼に憧れている少女達も多い。

 かくいうローズマリーも、昨年エリザベスに誘われて参加した夜会で、たまたま知り合った彼に一目で引き寄せられ、心の中の憧れの君にしてしまっている。誠実さが表に滲み出るようなアッシュギルは、女性に対しても優しいけれど、どこかきっちりと他者に対して線を引いていることを感じさせるためか、浮いた噂の一つも無い。

 レイドリックも彼ほどにとは言わないまでも、少しは見習ってくれれば良いのに。力強く心の中で思った時、アシュギルの顔がこちらを振り返って、優しい笑顔が向けられた。

「こんにちは、ミス・ノーク。昨年の夜会以来ですね」

「わ、私のことを覚えて下さったんですか?」

「もちろんです。レディー・エリザベスとあなたと、あの夜会をとても華やかで可憐な花として彩っていらっしゃいましたから。本日も、春に相応しい愛らしく爽やかな装いでいらっしゃいますね。良くお似合いです」

「そんな…あ、ありがとうございます…」

 褒め言葉も、手の甲に恭しく寄せられるキスも、紳士として当たり前の社交辞令だと判っているのに舞い上がってしまう。つい先程までレイドリックのこめかみを、握り拳で攻撃していたとは思えない素振りで恥じらう。

 ついつい、気心の知れた幼馴染み相手には強気に出てしまうローズマリーでも、憧れの君の前では借りて来た猫より大人しい。

 頬を赤らめて、そっと瞳を伏せる……今までのどんな姿より、淑女らしいローズマリーの様子にアッシュギルは、何か微笑ましいものでも見つめるようにその笑みを深めるけれど。二人の間に漂った雰囲気を押しのけるようにして、彼とローズマリーとの間に身を割り込ませたのはレイドリックだった。

 突然視界が憧れの君の笑顔から、幼馴染みの背に切り替わったことで、ローズマリーもぼうっとしてしまった意識が、急に現実に引き戻される。

 ちらと後ろから覗き込んだレイドリックの顔は、少しばかり険しい。怒っていると言うよりは、ムッとしていると言った方が正しいだろうか。

「どうして、アッシュギルがここにいるんだ?」

 その声も、いささか刺々しい。もちろん、敵意とまでは言わないけれど、明らかに不機嫌さが感じられる声音はアッシュギルにも伝わったようで、彼が僅かに苦笑する。

「別に不思議じゃないだろう? 私も、マダム・レノリアに招待されたんだよ。春の装いを纏った庭園に、是非お越し下さいと」

「そうじゃない、どうしてこんな庭園の奥にいるのかって訊いているんだ」

「私は人の多い場所はあまり得手ではないから。マダム・レノリアにご挨拶した後は、ここに逃げ込んでいただけだよ。決して、君たちの邪魔をしようと思って付いてきた訳じゃない」

 最後に付け加えられた言葉に、また少しムッとレイドリックの顔が顰められた。そんな彼の態度にローズマリーはきょとんと目を丸くして、つい尋ねてしまう。

「…なあに、レイドリック。……もしかして、やきもち…?」

 他にレイドリックの彼に対する態度の理由が判らないと、純粋に驚く気持ちで問いかけたのだが。どうやらローズマリーのこの問いは、少々この場では口にしてはいけない言葉のようだ。

 ぐっとレイドリックが一瞬、声を詰まらせたかと思うと、振り返った彼の目元が僅かに赤い。目を丸くするローズマリーを一瞬睨んで、数秒言葉を詰まらせて。やがて、やけっぱちのように口を開くレイドリックは、まるで駄々をこねる子供のようだ。

「あのね…! ローズ、君は一応、僕の恋人って言う立場だよね」

 一応、試用期間という注意書きが付くけれども。

 うん、と意外に素直に頷いたことに一瞬気が抜けたのか、幾分レイドリックの表情が柔らかくなるものの、不機嫌な顔つきは変わらない。

「だったら、他の男を見て頬を赤らめながらぼうっとする姿が、不愉快に感じることくらい判ると思うけど」

「……それはそうね、ごめんなさい」

「え」

 あまりにも素直な謝罪に、今度こそ完全に毒気が抜けたらしいレイドリックから、やけに間の抜けた声が洩れる。

 ローズマリーとしては別に意図的に顔を赤くしたり青ざめたりが出来るわけではないので、そんなことを言われても困る、と言う感情もあるものの、確かに逆の立場で考えれば、面白くないだろうと感じたからこその謝罪だが、レイドリックとしてはこれほど素直に謝罪されるとは思っていなかったようだ。

 ぽかんと目を丸くする彼の表情を見て、またアッシュギルが喉の奥で偲び笑うような仕草を見せたけれど、レイドリックは気付いていない。そんなレイドリックの顔を真っ直ぐに見上げて、ローズマリーは言った。

「でも、今あなたが不愉快だと感じたのと同じ感情を、さっき私も感じたのだと考えて欲しいわ」

 別にレイドリックにやり返すために、アッシュギルに対してぼうっとなったわけではないけれど。告げるとついに絶句したレイドリックは、そのまま沈黙して数秒後。

 降参とばかりに両手を挙げると、はあと深い溜め息を付いて寄越した。

「……判ったよ、今後気をつける。全く…俺は昔から、ここぞと言う時のローズのお願いには勝てないんだ」

「そうだったの? 良いことを聞いたわ。大いに利用させて貰うわね」

 言われてみれば、確かにそんな気もする。普段は彼の口先に丸め込まれてしまうことも多いけれど。

「お手柔らかに頼むよ…」

 小さく吐息を付き、顔を寄せてきたレイドリックのサファイアの瞳を覗き込んで笑う。やれやれと彼も苦笑混じりに口元を綻ばせて、ローズマリーの額に唇が軽く押し当てられた。

 彼からこうした謝罪を受けるのはもう随分と久しぶりで、本来なら血の繋がった家族ではない妙齢の男女のやりとりとしては相応しくないのかもしれないけれど、子供の頃に身についた習慣というのは、幾つになっても変わらないらしい。

「…二人ともとても仲が良いね。羨ましいよ」

「おいおい。折角丸く収まったのに、蒸し返そうとしないでくれよ?」

 そうした二人のやりとりを眺めながら、本当に羨ましいと思っているらしいアッシュギルの瞳は、何処か遠い。それに気付いたからだろうか、わざとレイドリックが茶化すように言葉を紡ぐ。

「そんなつもりはないよ。もちろん二人のお邪魔になるつもりもない。…………ただ…」

 ただ。少し、懐かしいな。

 聞こえなかったはずの彼の言葉が、この時ローズマリーの耳に聞こえた気がした。

 懐かしい? 何が?

 尋ねようにも既にアッシュギルはいつもと変わらぬ様子で微笑み、

「それでは私は、もう少しこの庭園を楽しませて頂くよ。お二人はどうぞごゆっくり。レイドリック、また騎士団で会おう」

 そう言い残して、この場を立ち去って行く。離れていくアッシュギルの姿勢の良い後ろ姿を見送って、少しだけ戸惑った瞳でレイドリックを見上げれば、彼も何とも言えない表情で溜め息を付く姿が見えた。

 多分先程のアッシュギルは、ここではない、どこか遠い場所を見ていた。それがどこなのかはローズマリーには判らないけれど、懐かしいと聞こえた彼の微かな呟きが、もしかしたら今はもう手の届かない、彼の過去を思っているのではないかと感じてしまう。

 不意に先日、エリザベスが口にしていた言葉が蘇った。

 元々は侯爵家ではなく市井の中、母親の手によって育てられたこと。グランエード侯爵にはアッシュギルの兄に当たる二人の嫡子がいたが、次々に病や事故で亡くなってしまった為に、後継者を亡くした侯爵がアッシュギルを半ば強引に、母親の手から引き取って来たことは、社交界では有名な話だ。

 そこでどんなやりとりがあったのかは判らないけれど。

 貴族社会で生きて行くのが、とても辛そうに見えると。そう、彼女は言っていたのだ。上手に生きて行くことが不得手であるのではないかと。

 そうかもしれないと思う。

 そして……エリザベスはもう一人の名も、出していた。

 見上げると、目が合ったレイドリックがふっと微笑む。ローズマリーの手を取って、軽く引いた。

「そろそろ行こうか」

 逆らう理由もなく、手を引かれるままに歩き出すローズマリーの心の中で、友人の声が繰り返し響く。

 レイドリックもまた、アッシュギルと同じように……上手に生きていくことが、不得手なのではないか、と。

 ローズマリーの目には、やっぱり彼はとても上手に生きているように見えるのに。どうしてか、今、その友人の言葉を完全に否定することは出来ないのだった。

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