第二章 恋人試用期間中 3
「レイドリック!」
気がつけば、周囲を若い三人の紳士達が取り囲んでいる。
見たことのない青年達の顔ぶれに、何、とまた怯えて身を寄せるローズマリーの肩を抱きながら、レイドリックは彼らに笑顔を向けた。
「やあ、ケビン、ローウェン、それにボリス」
「全く、浮き名を流していたかと思えば、いきなり結婚だって? お前はいつも、人の不意を突くのが得意だな」
「人聞きの悪いことを言わないでくれよ、ケビン。俺たちのこの年齢になれば、誰にいつ同じ話が出たっておかしくないだろう?」
「でもまさか、レイドリックに先を越されるとは思っていなかった。全くそのつもりがなさそうだったじゃないか」
「ローウェンまで。でもまあ、確かに俺もローウェンより先になるとは思っていなかったな。シェリル嬢とは上手く行っているのか?」
「それが………彼女は頷いてくれていても、彼女の両親が首を縦に振ってくれなくて」
実は困り果てているんだと、悩ましげにローウェンと呼ばれた青年が溜め息を付いた。
彼らは誰かと思ったが、様子を見ているとどうやら、レイドリックとは友人のようだ。少しだけ緊張を解いて、彼らの顔を見上げるローズマリーの視線に気付くと、最初に声を掛けて来たケビンと呼ばれた青年が、悪戯っぽく微笑んでローズマリーの右手を取る。
「初めまして、レディ。ケビン・ブレンダンと申します。お名前をお伺いしても?」
手の甲へのキスの後に問われて、兄やレイドリック以外の異性とあまり顔を合わせる機会の無かったローズマリーは、幾分どぎまぎとしながらも名を名乗った。
「初めまして。ローズマリー・ノークと申します」
「ノーク? と言うことは、ノーク男爵、デュオンの?」
「はい。兄をご存じですか?」
「知っているも何も」
なあ、とばかりに隣に視線を投げて笑うケビンに、その視線を受けた青年は小さく苦笑した。見ればレイドリックももう一人の青年も少しばかり、微妙な笑みを浮かべている。
何だろう?
小さく首を傾げ、次にローズマリーの手を取って口付けを落としながら、種明かしをしたのは先程ローウェンと呼ばれていた、二人目の青年だ。
「失礼、ミス・ノーク。初めまして、僕はローウェン・パウエル。僕たちはレイドリックとは、同じ伯爵の城で見習い時代を、同じ騎士団で従騎士時代を過ごした仲間です。そしてあなたの兄君とは、レイドリックを通じて知り合った友人で……何というか、ケビンは無謀にもあなたの兄君にチェスで賭けを挑んで無惨に負け、その時の有り金全部を巻き上げられたという悲しい過去があるのですよ」
「おいこら、ローウェン。全部ばらすな、それじゃ俺が情けなさ過ぎるだろう!」
「実際に情けないじゃないか。お陰でその日の飲み代を払うのにも困って泣きついてくるから、仕方なく俺が奢ってやったんだよ」
ケビンに止めを刺したのはレイドリックだ。思い出すのも辛い、とばかりに大げさな仕草で天を仰ぐケビンへと、ローズマリーは何と声を掛けて良いのか判らない。
「それはあの…兄が大変失礼をしまして、申し訳ありません」
「謝る必要は無いよ、ローズ。自分の力量も知らずに、強敵に挑んだ方が悪い」
確かにローズマリーの兄、デュオンはそれなりの剣の腕はあるものの、体力や力ではレイドリックに及ばず、騎士としての称号を取ることもしなかったが、その分頭を使う行為全般に特に長けている。
チェスは兄の得意分野の一つで、子供の頃ならいざ知らず、兄が十五を過ぎてから誰かに負けたところを見たことも、話に聞いたこともない。
ローズマリーの世界は今のところ、ごく限られた範囲でしかないけれど、多分兄のチェスの腕が恐ろしく立つのは事実のはずだ。
その兄に、チェスで賭けを挑むとは…確かに無謀と言えるのかもしれなかった。
意気揚揚と勝負を仕掛けておきながら、見事に負けてしまった時のケビンの姿が想像出来るようで、いけないとは思っていても自然と笑みが零れてきてしまう。
「ふふっ…」
「あ、笑った…!」
「…! あ、ごめんなさい、私」
「いいんですよ、皆、あなたの笑顔に見惚れただけです。レイドリックも、随分と可愛らしいご令嬢を射止めたものだ、羨ましい限りです」
最後に会話に加わり、ローズマリーを見つめたのは三人目の青年だ。彼も同じようにローズマリーの手に軽く口付けて、品良く微笑む。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。ボリス・ハワードです。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」
ケビンが騎士そのものの勇壮な青年のイメージなら、ローウェンは明るく穏やかで優しそうな印象が強い。ボリスは二人より、やや大人しげに見えるものの、三人の中では一番繊細で品の良い青年だった。
三人とも実家は下位貴族家の次男三男で、レイドリックのように家督の継承権はない。その為、己の身を立てる手段として騎士の称号を得たのだと言う。そう言った貴族の子弟はとても多い。
親から財産を得ることの出来ない次男以下の子弟が、確実にある程度の収入を得ることが出来る手段として、騎士や医者、学者や聖職者になるというのはポピュラーであり、これらの中で最も人数を必要としているのが騎士だからだ。
それで、先程のレイドリックとローウェンの会話の意味が判った。
どうやらローウェンにはシェリルという名の恋人がいるのだろう。二人は結婚を意識しているが、当人同士とは違い、恋人の両親は騎士としての称号以外は、爵位も大きな財も持たないローウェンとの結婚を認めてくれない……多分きっと、そう言うことだ。
残念ながらこれも、良くある話だった。親としては娘に苦労はさせたくない。もっと露骨な親であれば、娘を財産を増やす為の道具として、懐の豊かな貴族や豪商に嫁がせる者もいる。
結婚とは、当人同士の問題だけでなく、家同士の利害関係も生まれてくる。それを思えばローズマリーの今回の縁談が、どれ程恵まれて、色々な人の好意により組まれたものかが実感出来る。
それを嫌だと言うなんて、何という贅沢な悩みだろう。
判っているのだ。………判っているのだけれど。
親しい友人達と共に笑っているレイドリックの顔を見ていると、ローズマリーの心に浮かんでくるのは彼に対する親愛と、戸惑いだ。
例え結婚を嫌だと言っても、彼のことをあれこれ言っても、レイドリックが大切な幼馴染みであることには変わりはない。本音では、彼のことはやっぱり好きだし、今でも困ったときには自然と頼りにしてしまう程、信頼してもいる。
だからこそ、あの夜の記憶が、抜けない棘となってローズマリーの記憶からいつまでも忘れ去ることを許してくれない。あの夜の出来事は一体何だったのかと、何があったのかと何度も聞こうとして、でも今までただの一度も訊くことが出来ないまま。
訊くことで彼を傷付けるかも知れないことや、自分が傷つくかも知れないことが恐かった。けれど、いつかは訊かなければならない時が来るだろう。このまま、彼と結婚する未来を考えるなら、尚更に。
彼はちゃんと、答えてくれるだろうか。あまり、自信がなかった。
しばらくの間雑談に花を咲かせて、三人の青年は「それじゃあまた」と二人の前から立ち去って行った。来た時も突然なら、別れるのもあっさりとしたものだ。男同士の友人とはこういうものなのかも知れない。
三人の次に二人へと声を掛けて来たのは、こちらもまた三人の、今度は令嬢だった。
とは言え今度の出会いは、先程のケビン達の時のように楽しい一時にはならなかった。三人の令嬢達は皆、レイドリックに熱い視線を向けながら、同じ瞳でローズマリーに鋭い敵意を向けて来たからである。
彼女たちは自分の存在を嫌と言う程意識していながら、会話の中では全く存在を無視してひたすらにレイドリックにばかり、甘く媚びた声で話し掛けていた。無視をするならば完全にしてくれれば良い物を、チラチラとこちらに目を向けては何とも不愉快にならざるを得ない目を向けてくる。
その上言葉の端々に、今回のレイドリックの結婚の話は何かの間違いだの、誰かの勘違いだの、自分達は信じないだのと言いたい放題である。
何より一番ローズマリーが頭に来たのは、そうした令嬢達の言葉を頷いて肯定することはしないまでも、完全に否定することもなく、微笑みながらレイドリックが話を聞いていたことだ。
思い込みの激しい年頃の令嬢にムキになって否定しても、火に油を注ぐ結果になりかねないし、思い詰められて妙な行動をされるよりは、はいはいと聞き流す手段が賢いやり方なのかも知れないと思いつつも、ローズマリーにしてみれば苛々が募るばかりだ。
いっそ、彼女たちにビシリと言ってやってくれと思うのは、自分ばかりではないはずである。
せめてもと、内心、苛々で煮える感情を隠しつつ、表向きはどんな視線を向けられても、ここぞとばかりににっこりと、自分に出来る一番愛くるしい笑顔を浮かべて返す。笑顔を浮かべる時に、何か策を弄する時の兄の顔を思い浮かべて、それを真似したのが良かったのか。
最後には、あくまで笑顔を貫くローズマリーに少々毒気が抜かれた様子で、悔しげに去って行く令嬢達の背を見送り、勝利を確信したものの、それでローズマリーの苛立ちが解消された訳ではない。
しかも腹立たしいことに、多分こうした思いをするのはこれが最初で最後というわけではないことを、察してしまう。
先程の令嬢達のように直接あれこれと言ってくる人間は、さすがにもうこの場にはいないようだったが、遠巻きに様子を伺いながら、ひそひそとこれ見よがしに内緒話をする人々の姿がそこかしこに見えて、彼らの話す会話の全てが好意的なものばかりではないとローズマリーに教えてくるのだ。
令嬢達の会話の後に、無言のまま庭園奥に向かって歩き出したローズマリーの後を、レイドリックが周囲に不自然に見えない仕草で追って来る。彼がいささか申し訳なさそうに口を開いたのは、そうした人々の姿が周囲に見えなくなってからだ。
「済まない、ローズ。嫌な思いをさせたね」
一応は、彼も先程の令嬢との会話が自分にとって、非常に不愉快なものであると気付いてはいたらしい。結構なことだ。少なくとも、全く気付いていなかったと言われるよりはまだ、救いはある。
もちろんその程度でローズマリーの怒りが収まることはないのだけれど。
「………何人?」
「え?」
咄嗟にレイドリックが聞き返したのは、ローズマリーの声が聞こえなかったからと言うよりも、彼女の発した声が低すぎて、一瞬誰の声か判らなかったからと言うのが正しい。
それほどこの時のローズマリーの声は、うら若き少女のものとは思えないほど、地を這うように低かった。無論その声の低さが、彼女の怒りを表している。
「あと、何人なの?」
「…ごめん、ローズ。訊かれている意味がちょっと」
判らない、とは最後まで言わせなかった。
「あと何人、あんな不愉快な話や、嫌がらせをしてくる面倒臭い人がいるのかって訊いているのよ!」
レイドリックの視線が泳いだ。
あーとか、うーとか、彼にしてみれば随分と歯切れの悪い声を洩らして、横目でローズマリーの様子を伺いながらも、とても誤魔化せる状況ではないと察すると、実に躊躇いがちに、
「ええと………判らない、かな…?」
下手に出たように答える。
つい先程までの堂々とした彼の振る舞いからは、嘘のように低姿勢だ。きっとこんな姿を、ケビン達に目撃されたら、死ぬまで彼らの笑い話のネタにされるだろう。もっともそれも、彼らが傍観者だから出来ることだが。
当然ローズマリーは当事者であるから、敵の人数さえ判らないと言うレイドリックの言葉を笑い飛ばすつもりはない。一体どれだけ多くの女性に愛想を振りまいているというのだ、この男は。
「本当にもう、レイドリックったら……」
口元にうっすらと笑みを浮かべても、目は笑っていない。そんなローズマリーの物騒な笑みから逃げることも出来ず、立ち尽くす彼へと両手を伸ばす。その手はまるで彼の頭を抱き寄せるように後頭部に触れ、頭を下げさせる。
さらりと朱金の髪を撫でるローズマリーの指先に、レイドリックが「おや?」とばかりに、引きつった口元を緩めた直後だった。
「あなたって人はもおおおおっ!!」
「いったたたたたたた!!!」
「渡り鳥だって目的地を決めて飛ぶのよ! 見境なしにあちこち愛想振りまいて飛んだりなんかしないわ、あなたのやっていることは鳥以下よ、以下!」
「ごめんごめんごめん、ほんっとごめん!! 約束の期間は絶対しないから、って言うか、婚約や結婚しても二度としないから!!」
「当たり前でしょ、ばっかじゃないの!?」
ひとしきり、両手の拳で作った手で、レイドリックのこめかみを力の限り、ぐりぐりとやったローズマリーが、ようやく満足したように手を離す。とたん、解放されたレイドリックが、彼女の手の届かない距離にまで後ろに後ずさりながら、じんじんと鈍い痛みを発する自分のこめかみを押さえて訴えた。
「ちょっと、どこの世界に両手拳固で、男のこめかみぐりぐり攻撃する令嬢がいるのさ!?」
「ここにいるわよなにか文句ある?」
間を置かない単調で素早い返答は、まだ彼女の怒りが完全に収まっていないことを教えるのか、苦情を言いかけたレイドリックはすぐに自分の言葉を改める。
「いえ、ありません済みません!」
ぴしっと元々良い背筋をさらに真っ直ぐに伸ばし、実に良い子のお返事が返って来た。
大きく葉を茂らせた庭木の向こうから、堪えきれずに吹き出す笑い声が聞こえて来たのは、その直後だ。