第二章 恋人試用期間中 2
二人が向かった先は当然ながら、王都に構えるラザフォード伯爵家の屋敷だ。
領地の本邸である城には到底及ばないとは言え、それでもローズマリーのノーク男爵邸よりも遙かに大きな敷地と、立派で絢爛な屋敷は、それだけで圧倒される。
昨年のデビュタントで初めて訪れた王宮も、生まれて初めて見る荘厳華麗な佇まいに目を奪われたものの、それほど緊張せずに済んだのは、男爵家という貴族では下級の爵位のお陰だ。
会場に集まっていた人々の注目を浴びるのは、伯爵家以上の美しき令嬢ばかりだと判っていたから、幾分か堂々としてもいられた。けれども今回のガーデン・パーティは、伯爵夫人がわざわざ、ローズマリーに会う為だけに開かれたパーティだと言う。
「緊張している?」
今、自分はどんな顔をしているのだろう。情けないことに、もう間もなく伯爵邸に到着すると思うと、強がる気にもなれない。
「……ええ、とても」
これで緊張しない方がおかしい。馬鹿にされてしまうかしらと思いながらも、素直に認めると、レイドリックが笑った。でもその笑顔は、ローズマリーが気にしたような種類のものではない。
不慣れなことに戸惑う者を助け、慈しむような笑みだ。ここ数年は殆ど見ることの無かった種類の笑みは、ローズマリーに子供の頃の記憶を思い起こさせる。
まだ幼い頃、小さなことで驚いたり喜んだりする自分を見て、彼はよくそんな笑顔を浮かべていた。
何だか少しだけ嬉しくて、切ない。
胸の奥を、きゅうっと締め付けるような不思議な感覚に、唇を引き締めた時、不意に馬車が止まった。とうとう到着したのだ。
外から呼びかける声に応じて間もなく、御者が開く馬車の扉の向こうに、先に降りたのはレイドリックだ。
「ようこそお越し下さいました、レイドリック様。ご到着をお待ちしておりました」
「出迎えをありがとう、アーロン。元気そうで良かったよ」
「レイドリック様もお変わりないご様子で、安心致しました。お連れ様は如何でしょうか」
「ああ、そうだな。お前にも紹介するよ。おいで、ローズ」
この伯爵家の執事だろうか。親しげな口調で言葉を交わす二人の邪魔をするのは気が引けて、未だ馬車の中で座っていたローズマリーを呼ぶ声に、そっと外を覗き見る。顔を出した自分へと、差し出されたレイドリックの手を取って馬車を降りれば、目の前でゆっくりとお辞儀する老紳士がいた。
かっちりとした少しの隙もない執事服に身を包んだその紳士は、その人自身が貴族だと言われても素直に信じてしまうほど、堂々とした振る舞いだ。一瞬気後れしそうになるものの、顔を上げて、ローズマリーに向かって柔らかい微笑を浮かべてくると、とたんに穏やかで優しげな印象が前面に押し出されてくる。
お陰で、ホッとして少しだけ肩の力が抜けた。
「伯爵家家令のアーロンだよ。見習いの頃には随分と世話になった。もしかしたら、一番世話になったのはアーロンかもしれない。ここだけの話だけどね」
「勿体ないお言葉でございます」
「そうだったんですか。…初めまして、ローズマリー・ノークと申します。どうぞ、お見知りおき下さい」
「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。ラザフォード伯爵家、家令を勤めさせて頂いております、アーロンと申します。快適にお過ごし頂けますよう努めて参りますので、どうぞ何か御用の際は、いつでもご遠慮なくお申し付け下さい」
伯爵家とは言いつつも、一体どんなところで少年時代を過ごしたのかと、内心心配していた気持ちを払拭するような家令の姿に安心した。どうやらレイドリックの少年時代は、随分と良い環境であったらしい。
その貴族家がどのような雰囲気や環境であるかを知るためには、使用人を見ると良く判ると聞く。アーロンの他、彼の後ろにずらりと並んで来客を出迎える他の使用人達の顔を見ても、皆穏やかな表情を浮かべているところからして、この家の主人達は使用人にも正当に接する人物だと判る。
少なくともレイドリックの変化は、この家のせいではない。だとするならば、一体何が原因なのかはやはり不明のままだけれど……今は、恵まれていた彼の環境に、素直に喜ぶべきだろう。
「こちらへどうぞ。奥様のところまでご案内させて頂きます」
「ありがとう」
ローズマリーの手を自分の右腕へとさりげなく移動させ、アーロンの後に続くレイドリックの仕草はとても自然だ。パートナーのスマートなリードは、女性にとって喜ばしいことだが、あまりにも自然な態度は逆に、どれ程女性をエスコートすることに慣れているのかと思うと、少しだけ複雑になる。
「何?」
複雑な感情のままに、じっとレイドリックの横顔を見つめていたらしい。自分でも無意識の行動に、本人に問われてハッと気付くと、慌てて取り繕うように小さく首を横に振った。
「…何でもないわ。気にしないで」
こんなこと、いちいち気にしたところで仕方がない。彼の華やかな噂は最初から知っている、慣れていて当たり前だと無理矢理自分を納得させて、顔を上げた。
案内されたのは、今回のパーティの会場となる、伯爵家の庭園だ。
美しく整えられ、見事に咲き誇る春バラが形作るアーチを抜けると、とたんに視界に彩り様々な色彩が飛び込んで来る。
物語に出て来る花の妖精を模した大理石の噴水を中心に、放射状に通された小道沿いには季節に応じて様々な、花や木々が楽しめるように計算され尽くした配置になっている。
今は春バラを中心に、アイリスやクロッカス、ゼラニウムにアザレア、アネモネにサクラソウやチューリップ、スミレなど沢山の花が一斉に咲き誇っている。その他にもローズマリーには名前の判らない花も数多く、春に咲く花の見本市のような光景に、否応なく目を奪われた。
「凄い、綺麗…」
男爵家でも庭師が、母やローズマリーの為に様々な花を育てているけれど、残念ながらこことは比べようもない。規模も違うし、花の種類も違うがそれ以上に、センスが違うのだ。全てが洗練されたこの庭では、見馴れた花も今初めて目にするような美しさで、咲き誇っているように思えた。
それでいて、花そのものが持つ自然な美しさも少しも損なわせていないところが素晴らしい。これほど計算し尽くされていると、何処かで作り物めいた不自然さが見えてもおかしくはないのに。
「ここの花は、マダム・レノリアがお抱え庭師と相談しながら、ご自身で手入れをなさっているんだよ」
「凄いわ、本当に…」
ただ花や草木が好きなだけではなく、人任せにせずに自らも世話をすると言う。
ガーデニングを趣味にしている夫人は多いが、恐らく伯爵夫人ほど本格的に取り組む夫人は少ないだろう。緑の貴婦人と呼ばれる理由が、この庭を一目見るだけでも良く判る。
「あっちを見てごらん、ローズ」
促されて目を向けた先に咲く花を見て、思わずローズマリーの口元が綻んだ。視線の先で咲き誇る花は、男爵家でもお馴染みの花だ。
ローズマリー。自身と同じ名を持つ、小さく可憐な薫り高い花である。普段は素朴で可愛らしいこの花も、ここの庭ではまるで尊い貴婦人のように、おすまししているように見えて、それがなお可愛らしく見える。
「ローズマリーの花言葉を知っている?」
「何だろう、お転婆とか、意地っ張りだけど可愛い女の子、とか?」
「もう! そうじゃなくて、ローズマリーの花言葉はね……」
軽くレイドリックを小突いて、答えを告げようとした時だった。
「ようこそ、レイドリック卿。我が家の庭は気に入って頂けたかしら?」
幼馴染みの気安さで二人顔を寄せ合い話しているところに、不意に掛けられた声に驚いて振り返った。柔らかな声の持ち主は、一目で身分の高い女性だと判る貴婦人で、少しだけ気取った口調にレイドリックへの親しさが感じられる。
とたんにレイドリックが、照れくさそうなはにかんだ笑みを浮かべて見せた。まるで母親に悪戯現場を目撃された子供のようだ、と思ったローズマリーの印象は間違っていなかったらしい。
流れるような自然な仕草で差し出された手を、レイドリックが受け取って、その甲に唇を落とす。そうしながら、彼はその女性の名をごく自然に呼んだ。
「止して下さい、マダム・レノリア。いつもと同じように、レイドリックと呼んで下さい」
自分の子供の頃のことを良く知っている人に、改まった呼ばれ方をされても、からかわれているような気がして居心地が悪いと訴えれば、貴婦人は笑みを深めながら戯けたように言った。
「もうじきご結婚なさる騎士様に、いつまでも子供相手のようで失礼かと思ったのよ。でも、実はそちらの方が私も呼びやすいの、お言葉に甘えさせて貰うわね。…そちらのご令嬢が?」
好奇心旺盛に瞳を向けられて、慌てて礼の形を取るとお辞儀をした。
すっかりと庭園の美しさに目を奪われていて、自分が誰に招待されてここまでやってきたのかを失念していた。忘れていた緊張が急激に蘇ってきて、少しばかりぎくしゃくした身のこなしになってしまったかも知れないが、どうしようもない。
「初めてお目に掛かります。ノーク男爵、デュオン・ノークの妹、ローズマリーと申します」
「初めまして。この屋敷の主の妻、レノリアよ。どうかそんなに緊張なさらないで、あなたのことはレイドリックや、エイベリー子爵夫人から色々と伺っているせいか、初対面という気がしないの。想像通り、とても可愛らしいご令嬢ね。少し前からあなたたちの様子を拝見していたの。良くお似合いだわ」
「……恐れ入ります」
きらきらと少女のように輝く瞳を向けられては、とてもまだ婚約していませんとは言い出せない。かと言って話を合わせすぎて、後で訂正が利かなくなっても困る。どうしたものかと頭を悩ませるローズマリーの隣で、口を開いたのはレイドリックだった。
「実はまだ、ローズには結婚の承諾を貰えていないんです。母が少々、先走ってしまったようですが」
「まあ、そうだったの?」
「ええ。俺の浮ついた噂が許せないと怒られてしまって。お陰で今の俺は、彼女のお眼鏡に叶うかどうかの試用期間中なんですよ」
「…っ、レイドリック…!」
「だって本当のことだろう?」
確かにその通りだが、それを伯爵夫人相手に言うのか。反射的に彼の袖を引き、小声で咎めるも、レイドリックはケロリとしていて、ローズマリーの方が目を白黒させてしまう。
そんな二人を見て、くすくすと笑うのは伯爵夫人だ。
「あらあら、それは身から出たサビと言うものね。そんな噂が立つようなことをしているから、大切な時に大切な人に、信じて貰えなくなってしまうのよ。これに懲りたらもう少し、慎ましく振る舞わなくては」
「今、深く痛感しているところです」
「周りをそっと見てご覧なさいな」
微笑みながらも意味深に囁かれ、言われるがままに周囲に目を向けたローズマリーは、ここで初めて気付いた。周囲にいる他の招待客達の視線の多くが、自分達に注がれていることに。
庭園の見事さや、伯爵夫人に気を取られて、余所からの視線など全く気付いていなかったローズマリーにとって、あちらこちらから注がれる視線は、まるで矢のように感じる程だ。そう言えば、この状況は想定していなかった。少し考えれば、充分に想像できたことなのに。
驚きと怯えに、思わずレイドリックの腕に縋る。浮気な幼馴染みとは言え、今ここでローズマリーが頼れる人は他にいない。
そうした反応は、周囲の人の目にはどう見えたのか……少なくとも、目の前の伯爵夫人の目には、とても微笑ましい光景に映ったようだった。
「皆、噂しているわ。渡り鳥の君と呼び名も高いレイドリック卿の、心を射止めたご令嬢はどのようなご令嬢かと。どんな強健な翼を持つ鳥でも、いつまでも飛び続けてはいられないもの。落ち着いて、羽根を休められる場所が必要よ」
だから早く、承諾を貰えるように頑張らなくてはね、と付け加えられてさすがにレイドリックも苦笑する。
「きっと、あなたたちの話は明日にはもう、宮廷にまで広がっていると思うわ。こんなに仲が良くてとてもお似合いなんですもの、一日も早く良い知らせを聞かせてちょうだいね」
「努力しています」
優雅に笑いながら、伯爵夫人は他の来客の元へ去って行った。
残されたローズマリーとレイドリックはと言えば。
「………ちょっと、レイドリック」
「何かな、ローズ」
「……どうするのよ」
「何を?」
しれっと尋ねてくるものの、レイドリックはローズマリーの言いたいことなど良く判ってるはずだ。伯爵夫人は言っていたではないか、明日にはもう自分達の話は、宮廷にまで広がっているだろうと。
このガーデン・パーティに出席するからには、そう言う噂からは逃れられないと判っていた物の、実際にそれを示唆されればやっぱり、どうしても動揺してしまう。
たかだか子爵家の息子と、男爵家の娘の結婚と侮るなかれ。伯爵夫人の言葉は、身分以上に彼が宮廷で名高いことを示している。
噂を聞きつけた貴族達全員に、先程の伯爵夫人に対するような返答を返すわけには行かない。あの返答は、ラザフォード伯爵夫人相手だからこそ通用したようなもので、普通は男性からの求婚に対して、試用期間を付けて返答を先延ばしにする令嬢など、傲慢で鼻持ちならない娘だと受け取られ兼ねないからだ。
つまり、人々の噂を否定できないと言うことになる。
公の場に二人で出れば、それも仕方ない結果とはいえ……少々、と言うよりもかなり、頭の痛い問題だ。心なしか頭痛がしてきそうな気がして、頭を抱えたくなったローズマリーに対し、レイドリックの返答はと言うと、相変わらず潔いほどあっさりとしたものだ。
「それを心配しても、もう仕方ないんじゃないかな。後のことは後のこととして、今はとりあえずこの状況を楽しむと言うのも良い手だと思うよ」
「………あなたっていつも、そんな成り行き任せなの?」
「こういう時は、臨機応変と言うんだよ、ハニー?」
あっと思う間もなく引き寄せられて、頭のてっぺんにキスされる。直後、きゃあと耳に届いた高い歓声のような、悲鳴のような声はどこから、誰から発せられたものか、考えるのも気が滅入るくらいだ。
人前で何をするのかと、赤くなるよりもぐったりとして、思わず肩が落ちそうになったその時だった。




