表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/55

幸福な思い出

 多くの人でごった返す、王都の中央広場近くで一人の少女が大人達の足元をかき分けるように、歩いていた。

 ぽてぽてと、小さな足が生み出す柔らかな足音は、周囲を忙しく行き交う大人達の足音にいとも容易く掻き消されてしまう。

 つい先程まで、確かに母親と手を繋いでいたはずなのに、ふと目の前をひらひらと舞っていった真っ白な蝶の姿に気を取られ、あちらへこちらへと蝶を追い駆け歩いている内に、気がつけば少女の周囲には見知った人間が誰一人いない。


 決してお母様やハリーの傍から離れては駄目よ。


 そう何度も言い含められていたのに、母親との約束を破ってしまったことと、見知らぬ大人達ばかりの姿に、すぐに少女の大きな瞳に涙が盛り上がる。

 その時だ、通りの向こうから、高らかな騎士達の帰還を知らせるラッパと太鼓の音が響き、いくらもしないうちに整然と並んだ馬に乗った騎士達が、周囲の人々の歓声を受けながらこちらへと向かってくる姿が見えた。

 その様子に俯いていた顔をぱっと上げた少女は、先程まで泣き出しそうだったことを忘れて、小さな背丈をうんと伸ばしながら騎士達のやって来る方向へと目を向ける。

 父がいるかもしれないと思ったからだ。

 そもそも、少女が今この大通りまで、母親や屋敷の執事、近侍たちと共にやって来たのは、彼女の父親を出迎えるためだ。

 三ヶ月程前に起こった紛争を止めるべく、国王が差し向けた騎士団の中に父がいた。

 どこで、どのような理由で争いが起こってしまったのかは、まだ四歳になったばかりの少女には判らないし、母親達もあえて説明はしなかった。例え聞いたところで、理解も出来ない。

 ただ少女にはっきりと判ったことは、王様の命令で出掛けていった父親が、長く屋敷に帰ってこないと言う一点のみである。

 そんなのは嫌だと駄々を捏ね、父親に行かないでと縋ったけれど、普段は自分に甘く優しい父も、躾に厳しいけれどやはり優しい母も、少女の願いにうんと頷いてはくれなかった。

 ただ少し困ったように笑って、ごめんと謝り、出来るだけ早く帰ってくるよと小さな娘の身体を抱き締め、額にキスを残して父は出掛けていった。

 今日はその父親が帰ってくると知らせを受けての出迎えだったのだ。

 母親達から場所は離れてしまったが、父親を出迎えると言う当初の目的はすぐに果たせるように思えた。彼女の父は、先頭を進み来るのは黒馬に跨った黄金の髪と漆黒の鎧に身を包んだ男性の、僅か後方に続きながら姿を見せたためである。

 まだ遠目でも、大好きな父親の姿はすぐに判った。

 朱金の髪と白馬、白銀と緑の鎧に身を包んだその出で立ちは、少女の記憶にある父の姿そのものだったからだ。

「おとうさま…!」

 精一杯の声を上げた少女の声が聞こえたのか、馬上から彼女の父親がぴくりと反応を示して、視線をこちらへと向けようとする。

 けれども彼の視線が娘の姿を捉えるより早く、小さな少女の目前を覆い隠すように幾人もの大人達が歓声を上げながら詰めかけて、たちまち少女の身体を前列から弾き出してしまった。

 幸いにして大人達に蹴られる、というような事態にはならなかったものの、背丈の小さな少女の視界はいとも容易く塞がれて、もう父の姿どころか通りを悠然と歩く騎士達の列さえ見えない。

 おとうさま、おとうさまと精一杯繰り返しても、周囲の大人達が上げる歓声に掻き消されてしまう。

 それからしばらく頑張って見たけれど、結局再び父の姿を見つける事は出来ず、しょんぼりとべそをかいたまま、諦めてとぼとぼと歩き出した。母親の元へ戻ろうと思ったのだ。

 しかし歩き出してすぐに、少女はその足を止めてしまう。

 自分がどの方向からやって来たのか、判らない。蝶に誘われるようにふらふらとこの場まで歩いて来た少女は、すっかりと元いた場所の方向を見失ってしまっていたことを思い出した。

 一度忘れていた不安が再び蘇ってくると、小さな胸の内側に先程感じた比ではない不安が、唐突に大きく膨らんでぎゅうと迫ってくる。

 どうしよう。父親どころか、このままでは母親に会うことも出来ないかもしれない。

 お屋敷に帰れなくなったらどうしよう。

 きょろきょろと前後左右を見回して、やがていてもたってもいられずに少女は駆け出した。おとうさま、おかあさまと両親を呼びながら駆け回るも、探し求める人の姿は見つからない。

 続いてハリー、と執事の名を呼んでもやっぱりその呼び声に返事を返す人はない。

 周囲の大人達はそうした少女の姿に目を向けながらも、誰も声を掛けてはくれない。恐らく身なりからして貴族の家の子供だと判る少女に関わって、面倒なことになるのを避けたのだろう。

 代わりに目が合うと、ニヤニヤと笑いながらこちらに向かって歩き出して来たのは、見るからに人相の宜しくない、いわゆる恐い大人達だった。

『絶対に、お母様とハリーの傍から離れては駄目よ。知らない人に声を掛けられて後をついていくのも駄目。親切な人もいるけれど、怖い人も沢山いるの。もしそう言う怖い人に見つかったら、二度とおとうさまやおかあさまと会えなくなってしまうかもしれないわ』

 と。

 唐突に頭の中に蘇った母の言葉が、少女の足を竦ませた。今まさに、その恐い人達がこちらに向かってやって来る。どうにか逃げなければと身を翻そうとするものの、小さな少女の行動など大人の男にしてみれば、子犬や子猫の行動と大差は無い。

 いとも容易く追いついて、その手が少女の腕へと伸ばされようとした時だ。

「はいそこまで。お前達その子に何の用だ?」

 突然割って入った声に、男達の行動が止まる。捕まる恐怖に思わずその場にしゃがみこみ蹲ってしまった少女は、聞こえて来たその声にハッと顔を上げた。

 幼い視界に映ったのは一人の騎士の背中だ。戦場から戻ってきたばかりの、鈍く光る鎧と腰に帯剣したままの出で立ちは、他の誰よりも冴え冴えとした存在感と威圧を放っている。

 突然の騎士の割り込みに驚いたのは少女も同様だが、今まさに捕らえようとしていた男達も同様だったらしい。

 それまで浮かべていた笑みをとたんに強張らせて、いや、あの、と締まりのない声を洩らす。どうにか、二人いた男の内の一人が、ぎこちない愛想笑いをしながら、

「いや、その、何もおかしなことをしようとしていた訳じゃありませんよ、騎士様。ただ、その子が迷子になっていたみたいだから……」

「そ、そうそう! 俺たちが一緒に親を捜してやろうと思っていただけで」

 到底そんな親切なことをしそうにない見え透いた嘘をついて、両手を胸の高さまで上げて見せた。

 丸腰であることを主張して、歯向かうつもりはないという意思表示だ。さすがにどんなに愚かな人間であっても、よほど腕に覚えがない限りは完璧に装備を調えた騎士に歯向かう気にはなれないのだろう。

 賢明な判断だ。

 そうか、と頷いて騎士は男達に向かってにっこりと微笑んだようだった。それなのに、何故かその笑顔を向けられた男達が二人揃って顔を強張らせ、後ろに逃れるように、足元を乱れさせる。

「それはどうもありがとう。俺がその親だ、娘が手間を掛けさせて申し訳ない」

 文字通り、男達は飛び上がったようだった。

 バタバタと先程以上に足元を乱れさせてじりじりと後ずさりながら、それは良かった、なら安心だと、やっぱりこれっぽっちもそう思っていないだろう言葉を吐き出して、これ以上はごめんだとばかりに、ささっと走り出してしまう。

 逃げ出した男達の背を、騎士は追うことはしなかった。代わりに彼が取った行動は、背後でぺたりと座り込んでしまっている少女を振り返り、彼女の目前で視線を合わせるように膝をつくことだ。

 先程まで、背を向けていたために彼がどんな顔をしていたのかは少女には判らない。けれど今、自分を見るその人の表情はホッと安堵した表情と、苦笑と、そして少しばかり咎めるような瞳をしている。

 その顔は間違いなく、少女が良く見知った父親の顔だった。

「こら、アリス。母様の言いつけを破ってあちこち歩き回ったら駄目だろう。向こうでローズが、死にそうなほど心配していたぞ」

「…っ……おとうさま…!」

 とたん、パッと両手を伸ばして抱きつけば、父親の両手がしっかりと抱き返してくれる。首にしがみついてべそべそと泣き声を上げる娘の身体を片腕で抱き上げて、もう片方の手で小さな背を撫でながら、涙に濡れた頬に優しいキスが降りて来た。

「お前の声が、この辺りで聞こえたような気がしたんだ。間に合って良かった」

 あまり心配させてくれるなと囁いて、父親に抱かれながら向かった先には、一頭の白馬がいる。行儀よく主人の帰りを待つ馬は、少女も良く知る父の愛馬であるヒンティだ。

 優しい馬は、少女が伸ばした手に鼻面を押し付けて来ると、小さく嘶いた。

「ヒンティも心配したって言っているよ」

「……ごめんなさい、おとうさま。…ごめんね、ヒンティ」

「ローズにもちゃんと謝りなさい。ハリーや他の皆にも」

「……はい。……おかあさま、怒ってる?」

「怒ってはいない。ただ、心配しているよ。とてもね」

 ただ怒っていると言われるより、とても心配していると言われる方が心に堪える。しょんぼりと俯く娘の額に、もう一度口付けて、父は器用に片腕に少女を抱いたまま、鞍に乗り上がった。

 急に高くなる視界は少しだけ恐い。けれどしっかりと父が抱いていてくれるので、その恐怖もすぐに消えてなくなる。

「俺を、迎えに来てくれたんだって?」

 問われて、こくりと頷いた。

「俺がいない間、何か変わった事はなかった?」

「なにも。でも、おかあさまはさみしそうだったし、アレクは毎日、泣いてるわ」

「アレクはまだ、泣くのが仕事だからなあ。アリスは平気だった?」

「アリスは、へいき。もうアレクといっしょの、赤ちゃんじゃないもの」

「本当に? 俺はアリスに会えなくて寂しかったよ?」

「………ちょっとだけ、ほんの、ちょっとだけよ」

 おませな口調で平気と答えたくせに、すぐに少しばかりもごもごと、少しだけ寂しかったと告白すると、とたんに父が笑った。笑われて少しだけむうっとしたように頬を膨らませるものの、嬉しそうに笑う父の笑顔が少女はとても好きだ。

 優しくて、甘くて、とても格好いいと幼心にそう思う。先程の騎士達の中でも、父の姿は一際目立って見えた。それは多分に身内びいきが含まれているだろうが、父の姿が多くの人の目を引き寄せるのも、嘘ではない。

 実際に少女が父の姿を見つけたとき、周囲で見物していた若い女性が、その名をうっとりと呟いた声もはっきりと聞こえていたのだから。そして今も、馬上の父へと目を向ける人は多い。騎士というと、厳ついイメージが強い中で、子供連れで先を進む姿が微笑ましく映るのか、そんな人々の眼差しはどこか優しかった。

 そうした人々の視線の中、ぽくぽくと、少女が滑り落ちることのないよう、ゆっくりと歩を進める馬の背で周囲をきょろきょろと見回していた少女は、やがていくらもしないうちに視線の先に、母親と執事達の姿を見つける事が出来る。

 他にもその場に、父の友人である二人の騎士が顔を揃えている。

 彼らは父に抱かれて戻って来た自分の姿を目にすると、とたんに安心したように笑顔をこぼし、母親に至ってはそのまま泣き出してしまうのではないかと思うくらい、くしゃりとその表情を歪めて見せた。

 母は、どんな顔をしても可愛らしい。既に自分と、その下に弟を出産している二児の母であるはずなのに、まだまだ何処か年若い少女のようなあどけなさがある。そんな母親に泣かれてしまうと、少女の小さな胸もぎゅうっと痛んだ。

「アリス…!」

 父の手で馬上から降ろされるのと、母が駆け寄って来るのとはほぼ同時だ。何処までも自分に甘い父とは違い、一応母は子供の躾には厳しい。

 怒られるかと咄嗟に首を竦めたけれど、直後少女を襲ったのは叱責の声よりも我が身をぎゅうっと抱き締めてくる柔らかな母の抱擁が先で、その温もりと感触に落ち着いていた涙がまた込み上げて来る。

「もう…! あんなに傍から離れては駄目と言ったのに…あなたのお転婆は、誰に似たの!」

「それはあえて言わなくても、はっきりしているんじゃないかな」

「レイドリック、あなたは黙ってて」

「はい、済みません」

 降参、とばかりにあっけない程簡単に、両手を挙げてみせる父の姿に二人の友人の騎士達がにまにまと笑っている。日常生活で、父は全く母に頭が上がらない。

 少女からしてみればいつもの風景で何が可笑しいのか判らないけれど、二人が結婚する以前からその成り行きを見守ってきた彼らには、充分可笑しいのだろう。

「相変わらずレイドリックは、不戦敗みたいだな」

「そもそも、奥さんに勝とうなんて思ってないんだよ、レイドリックは」

「煩いな、ローウェンだって家ではあまり俺と大差無いだろ。ケビンは……まあ、早くそう言う経験が出来ると良いな。頑張れ」

「そっちこそ煩い。男やもめの傷を抉るな!」

 がう、と呻くように吠える友人の姿に、父も、もう一人の友人も、そして母も小さく笑っている。

 ようやく落ち着いた時間の中、それぞれがその場で別れ、帰路についた。父はそのままヒンティで、母と少女、そして執事は馬車へ。

 母がふとその足を止めたのは、馬車へと乗る直前のことだ。少女の手を繋いだまま、不意に何か思い出したという様子で、愛馬の元へ向かおうとする夫の腕に手を掛けて引き留める姿が見える。

「待って、レイドリック」

 そして振り返った夫へと、彼女は言った。

「大事なことを言うのを忘れていたの」

「? 何?」

 どこか少しだけ恥ずかしそうに、でも夫を見つめ、嬉しそうに。

「…無事に帰ってきてくれてありがとう。………お帰りなさい、あなた」

 多分、少女の記憶にある限り、父の顔がこれほど赤くなった様子を見るのはそう数多いことではない。

 一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くして、それからじわじわと熱が昇る顔を隠すように片手を上げて。数秒の間の後、彼は目元を赤らめたまま、はにかむ様な甘い笑みを浮かべると、母の肩に手を伸ばし、そっと互いの顔を近づけた。

「…うん。ただいま」

 その後の様子を、少女は見ていない。と言うのもいつの間にか後ろによっていた執事のハリーが、両親の顔が重なる直前でそっと両手で少女の目を覆ったが為に。




 アリス・エイベリーは、父レイドリックと、母ローズマリーの第一子としてこの世に生を受けた。それから二年半後に、弟であり嫡子のアレクロードが誕生し、その後も次女、次男、三女と、いずれも元気な子供達に恵まれて賑やかな家庭生活を送る。

 彼女が成長し、自らも親になるような年齢になってからも、父と母の仲むつまじい姿は変わることは無く、子供達の記憶の中で両親との思い出は暖かな宝物のように心に刻まれていく。

 子供達が、自分の両親について人から尋ねられた時、彼らは口を揃えてこう言った。

 

 自分達が知る限りの中で、両親ほど幸せそうだった夫婦は他に知らない、と。


 二人の死後も彼らの血を引く子供達は、例えそれぞれ互いの人生で道を分けても、必ず年に一度は実家に集まり、そして両親との思い出話に花を咲かせるのだった。

これにて、本編、番外編ともに全て完結とさせて頂きます。

長いお付き合いをありがとうございました!

また次回作でもお付き合い頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ