アザレアの夜
「………えーと…」
挙式も終え、誓約も終え、無事に全ての儀式を終えて、当日の夜。
晴れて夫婦の名乗りをあげることが出来るようになった、二人きりの夜。
いわゆる、新婚初夜と呼ばれる夜の、夫婦のベッドの上に二人向き合い座りながら、しかしレイドリックはどこか戸惑ったような声を洩らして、視線をローズマリーの右斜め後ろに彷徨わせた。
お互いに身支度も調えて、いかにもな薄い夜着を纏っただけの無防備な姿で向き合うのは、いくら付き合いが長い幼馴染みと言えどもそうそう経験があることではない。
うんと小さな、それこそローズマリーがまだ四つか五つか、という頃には、男爵家に泊まったレイドリックの寝台に潜り込んだこともあるけれど、ただお互いくっついて穏やかな睡眠を取ったあの頃と今とでは、目的そのものからしてまるで違う。
当たり前だ、夫婦になったのだから。そうこれは、当たり前のことなのだ……!
……と、どれ程ローズマリーが強く己の心にそう言い聞かせていたとしても。
座り込んだ自分の膝の上、真っ白な夜着を固く握りしめるローズマリーの両手は、見ていて気の毒になるほど力を込めすぎて色を失っている。それどころか、完全に強張った顔をして俯きながら、ぷるぷると小さく震えている彼女の姿を目にして、一体どれ程の男が、さあこれから致しましょうか、という気分になれるだろう。
いくら何でも、これほど怯える子羊の身ぐるみを、オオカミさんよろしく速攻で剥ぎとって、美味しく頂く……つもりには、さすがにレイドリックもなれない。
例えこの時をどれ程待ち望んでいたとしても、だ。
「…いや、うん、ローズ? ……少し、肩の力を抜こうか」
少し宥めるつもりで伸ばした手の先で、ローズマリーの身体がさらにビクリと大きく震える。自分の意思とは関わりない身体の反応に誰よりも驚いたのは、当の本人であるローズマリーだ。
「あ…」
これではまるで、彼を拒絶しているようではないか。決してそんなつもりはないのにと、慌てて顔を上げたローズマリーは、けれど自分の視線の先でレイドリックが何か、笑いを噛み殺すような微妙な顔をしていることに気付いた。
吹き出す一歩手前、と言わんばかりのその表情。怒るとか、傷つくとかそう言う反応なら理解出来るのに、何故笑われるのかの理由が判らない。
「な、何で笑うの? 私、何か変…?」
精一杯声を押し出したつもりだけれど、その声も今は随分弱々しい。そんな彼女にレイドリックは必死に腹の底から込み上げそうになるものを飲み込んで、いやいやと、手を目の前で左右に振った。
「そうじゃないよ。ただ、あんまりにも君が緊張しているから。ちゃんと俺、意識されているんだなと思ってさ。この状況で全然意識されないよりは、されすぎている方がいい。うん、安心した」
「……っ!」
緊張しすぎて少しばかり青ざめていたローズマリーの顔に、瞬時に血が上る。咄嗟に違うとも、そうだとも言い返すことが出来ずに口元を強張らせるしかない彼女の肩を、今度こそ掴むとそのまま、レイドリックはくるりと後ろを向かせた。
何、と振り返るよりも早くに腰に手が回って、後ろから抱え込むように抱き締められる。
淡いベッドサイドの灯りの先で、引き寄せられて崩れた、夜着の長い裾に隠された自分の両足が、元々座っていた場所に名残惜しげに投げ出されている様が見えた。
「レイ…」
「大丈夫、何もしないよ。今はまだ。……少し話をしようよ」
何もしない、今はまだ。その言葉で落ち着けるものがどれ程いると言うのか、彼に懇々と尋ねて見たい。
けれども、それが彼の気遣いだと言うことは嫌と言うほど判るから、反論する言葉など出て来るわけもなく。
すっぽりと自分を背から包み込む彼の胸と両腕が、まるで自分の為にあつらえた特別製のように思えてしまうと、尚更だった。
背中が温かい。腰に回ったレイドリックの両腕は、悪さすることなく行儀よく、そこに有り続ける。彼に抱き締められるのは好きだけど、背中からの抱擁はいつも以上に守られているような感覚が強くて、自然と胸に溜まった息が吐き出された。
そうすると、少しずつ強張った身体から力が抜けていく。抱き締められていてもまるで石のようだったローズマリーの背が、ゆっくりと身を預けるようにレイドリックの胸に体重を預けると、彼の唇がまるで良く出来ましたと褒めるように、こめかみに押し付けられた。
「……何の話をするの?」
その小さなキスに軽く首を竦めながら、問えば。レイドリック自身も何か、これという話題があったわけではないのだろう、うーんそうだなと少しだけ考えるように呟きながら、腰から持ち上げた片手で、ローズマリーの髪を撫でる。
真っ黒で、毛先に行くに従って癖の強くなる自分の髪が、ローズマリーはあまり好きではない。纏めにくいし、重たく見えるし……兄のように怜悧な顔立ちには良く似合うけれど、自分の様にどこか甘さの見える顔立ちにはあまり似合わないとずっと思っていた。
けれどもそうやって、レイドリックに何度も何度も、大切なものに触れるように撫でられ、梳かれている様子を見ると、不思議とこの髪もそう悪くないのではないかと思えてくる。
そうやって彼の手と、自分の髪を見つめていると。
「過去の思い出話は今まで沢山してきたからさ。今度は未来の話をしてみない?」
「未来?」
「そう。こんな夫婦になりたいとか、子供は何人欲しい、とか」
「子供って……」
「俺は欲しいよ、何人でも」
折角落ち着き出したと言うのに、この状況での子供の話は、否応なく身体が強張りそうになる。けれどローズマリーの身体が再び強張るよりも先に、続いたレイドリックの言葉が、それを柔らかく阻んだ。
「君に良く似た、可愛い女の子が欲しい」
髪を弄んでいた腕が肩に回る。腰に回っていたもう片方の腕はそのまま、ローズマリーを抱き締める力がほんの少しだけ、増した。
からかっているのでも、お愛想でもない、真実そう思っているのだろう柔らかな声と言葉に、お腹の奥からじんわりと、何かが滲み出して全身に広がっていくような感覚がする。
焦れったいような、泣き出したくなるような不思議なその感覚は、これまでローズマリーが一度も感じたことのない種類のものだったけれど……嫌だとは思わなかった。それどころか何だか切なくなってくるのは、何故だろう。
「そんなことを言って…お転婆な女の子は、色々と大変なんじゃない?」
「大丈夫、慣れているから。きっと元気で、可愛くて、優しい女の子になるよ」
慣れているから、の一言にローズマリーはむっと頬を膨らませる。
「……じゃあ、私はあなたに良く似た男の子が欲しいわ」
「それこそ育てるのは大変なんじゃないかな」
「大変なのは育てるよりも、育った後じゃないかしら?」
子供の頃のレイドリックは、それはそれは聞き分けの良い優しい子供で、親にしてみれば男の子を育てるのは大変という基本概念を覆すほど、育てやすい子供だったはずだ。両親や家族を本当の意味で手を焼かせ心配させたのは、むしろ成長した後の方である。
それを言われると、レイドリックはぐうの音も出ない。その自覚があれば尚更にだ。
「…意地悪だね」
「あなたの方こそ」
少しばかり拗ねた声を洩らすレイドリックに、ローズマリーは小さく笑う。それは今夜、初めて見せた笑顔だと言うことに、彼女は気付いていない。その小さな笑顔が、内心同じように緊張していたレイドリックを安堵させたことにも。
その後も二人は、まだこれから先の未来の話について言葉を交わす。
お互いの希望を叶えるため、出来たら子供は二人以上は欲しい。娘が出来たら、自分の目に敵う男でなければ決して嫁には出さない、息子なら本人の希望次第で立派な騎士に育てる。
屋敷の庭には、王都、領地両方にハンモックやブランコを作ろう。
親元にいる幼い間に、沢山の愛情を注ぎ、様々なところへ連れ歩き、様々な経験をさせてやろう。もしかしたらその経験の中で、一生涯の友人となれる人物に出会えるかも知れない。
もし万が一子供が出来なかったとしても、悲観することなく夫婦二人の穏やかな生活を送ろう、家の跡継ぎは姉のところに産まれた次男以下の男の子でも可能なのだから……等々。
朝早くから、日が暮れ、寝室に下がるまでの間の今日という日は賑やかな一日だった。
けれども今、こうして二人きりで過ごしている夜は、とても静かで、自分達が生み出す声や衣擦れの音以外、耳に届く音はない。
そうやって彼に背中から抱き締められてじっと会話をしていると、次第にローズマリーは今の状況を受け入れられるようになりつつある……と共に、少しだけ不思議な気持ちがした。
幼い頃には、お約束どおりに彼のお嫁さんになると口にした事もあったけれど、それ以上にレイドリックは自分にとって兄のような人であったし、彼にとっても妹のような存在だった。
それなのに今は、夫婦としてここにいる…言葉だけでなく、本当の夫婦になろうとして、様々な言葉を交わしているなんて、と。
去年、縁談が持ち上がる以前には、こんな夜が来るなんて考えたこともなかったのに。人の人生など、実は自分が思っているより容易く、大きく変わるものなのかもしれない。
不意に、どうしようもなく彼の顔が見たくなって、腕の中で身を捩りながら身体を振り向かせる。
レイドリックの胸に密着していた背中が離れ、代わりに身体の側面がその胸に触れ。温もりを感じる場所を移動させながら、そうっと見上げれば、何、と柔らかく問いながら真っ直ぐに自分を見下ろしている、青い瞳とぶつかった。
その瞳を見つめていると、じわりと、けれども無視出来ない大きな感情がローズマリーの胸の内を満たして行く。彼に恋をしていると自覚してから、この日を迎えるまでの間にも、何度も何度も感じた想いだ。
ああ、私はやっぱりこの人が好きだわ、と。
その気持ちを、今言葉にしたわけではなかったけれど、何も言わなくても眼差しだけでレイドリックは察したのかも知れない。見つめ続けている内、彼がふっと微笑んで、その直後どこか切なそうに苦笑に変わり。
「…ごめん、もうちょっと余裕があるところを見せたかったんだけど。………もうそろそろ、やせ我慢は限界かな」
何の我慢なのかとローズマリーが疑問を抱く前に、ぐいと肩を引き寄せられて、上向いた唇を塞がれた。
想いを繋げてからこれまでに、キスは数え切れないくらいにした。でも、今この時、彼が仕掛けてきたキスはローズマリーがこれまで経験してきたどの口付けよりも深い。
じんわりとした、良くわからない痺れのようなものが背筋から腰、そして足の先にまで走って、それぞれからさらに枝葉を伸ばして広がって行く感覚に暴れたいような、けれど力を奪われるような不思議な思いがした。
口を塞がれて、そこからは言葉が紡ぎ出せない代わりに、喉の奥で鳴り、鼻から抜けるような声が洩れ、自分のどこか媚びるような甘ったるい声に自分自身で驚いた。
どうすれば良いのかと彷徨う手の平は、いつの間にかレイドリックの片手に、手の平をあわせる形で握り込まれている。
口付けは続く毎に、深く、淫らだとさえ感じるのに、自分の手の平を握り込む彼の手の温もりは、大きく優しくて、その落差に思考能力が削ぎ落とされていく。
ようやく唇が離れたその時、ベッドサイドの淡い橙色の灯りに照らされて、彼の口元で何かがきらりと輝いて見えた。
「好きだよ、ローズ」
「……ぁ…」
「愛している。お願いだから、俺のものになって」
灯りの中で、愛情と欲情で彼の瞳が揺れて見えた。
この状況で、このタイミングでそれはずるい。
愛の言葉を初めて聞かされるわけでもないはずなのに、耳から身体の中に滑り込んだその言葉に何も言えなくなる。
身体の奥に、小さな火が灯ったような気がする。他の誰でもない、レイドリックが自分に付けた火だ。
それはずるいわと、やっとの思いで口にしようとした言葉は、けれど再び重ねられた彼の唇の中に飲み込まれて消えていくのだった……
それからの結婚生活は、ローズマリーがこれまで送ってきた人生とはまた違った毎日の連続だった。
これまでとは違う人を家族と呼び、違う場所で暮らし、愛し、愛され、時々は頭を悩ませるような出来事にも遭遇し、けれどそれらを一つ一つ隣にいる人と相談しながら解決していく日々は、間違いなく満たされていた。
穏やかな毎日の中で埋没してしまいそうな当たり前の幸せも、何かの折りに触れて振り返れば、それがどれ程幸福な事なのかを思い知ることも出来る。
人としての幸せも、女としての幸せも、全て彼が与えてくれた。これから先も様々なものに触れ、様々なことを見聞きし経験しながらこの幸福はきっと広がって行くだろう。
その予感めいた思いは、やはり勘違いではなかったらしい。
やがてローズマリーはもう一つの幸せを知ることが出来るようになる日が訪れる。それはレイドリックとの婚礼から、半年が過ぎた、新しい年が訪れたばかりの冬の日だった。
ここしばらく、どことなくローズマリーの体調が悪く気分が優れない日が多いようだと、侍女のアニーがレイドリックに報告し、彼によって手配されて診察をした医師がもたらしたものは、その家の家族や使用人、そして実家に残してきた家族全ての人を笑顔にさせた。
もちろん一番最初に驚き、そして喜んだのはローズマリー自身だ。
月の障りがないことと、じわりと込み上げる吐き気や微熱など普段とは少しずつ違う様々な症状から、自分でももしかしたらと思っていたけれど、改めて確定事項として医師から告げられると気持ちも違う。
新しい命が自分の胎内に存在している。それも、愛する夫の血を引く子供だ。
レイドリックもまたある程度予想はしていたらしい。それでもその事実をローズマリーの口から報告を受けたとき、サファイアの青い瞳を丸く見開いて、それから何かを言おうとして口を開きかけ……けれど結局何も言えずに唇を震わせて、無言のまま抱き締めてくれた。
自分の頬に触れる、彼の頬が少しだけ濡れている。
やっとの思いで、ありがとう、と一言だけ囁かれた掠れた声が、ローズマリーの耳から胸の内に滑り込んで心を震わせ、彼女もまた少しだけ目元を潤ませながら小さく頷くと、彼の背を抱き返す。
そうやって互いを抱き締め合う若い夫婦を、部屋の外から義父母と使用人達が微笑みながら見守っている。
多くの人が喜び、見守る中で翌年六月……偶然にも二人が婚礼を挙げてから一年を少しだけ過ぎたその頃に、エイベリー子爵家に元気な産声が響き渡ることになるのだった。
アザレア(花言葉):あなたに愛されて幸せ




