祝福の鐘 2
はあ、と幾度目になるかも判らないエリザベスの大きな溜め息に、彼女の目の前で焼き菓子へと伸ばした少女の手が止まった。
「一体どうなさったの、リジーお姉様。先程から、大きな溜め息ばかり。私に力になることは出来ますか?」
きらきらと純度の高い紫水晶のような瞳を向けられて、そのあまりの純粋な眼差しにまた、エリザベスは溜め息を洩らしそうになる。寸前で辛うじて堪えはしたものの、少女の自分を見る心配そうな眼差しは変わらない。
漆黒の癖のない真っ直ぐな黒髪と、紫の瞳……色合いと性別の違いはあれど、その顔立ちは彼女の兄に良く似ている。リゼル・ディアナ・ブラックフォード…それがこの少女の名であり、そして家名から知れるように、エリオスの年の離れた、たった一人の実妹だ。
エリオスと幼馴染みとして付き合いの長いエリザベスは、当然妹のリゼルとも付き合いが長い。お姉様と自分のことを呼び、素直に慕ってくれるこの愛らしい少女を、エリザベスも目に入れても痛くないほどに、可愛がっている。
自分より三つ年下のリゼルは、まだ社交デビュー前の十五歳。この世の汚いことなど何一つ見たことがないのではと思う程に純粋な瞳は、いつもそれだけでこちらの心が洗われるような気持ちになるけれど、今はその純粋さが少しばかり胸に痛い。
「…ごめんなさい、折角の時間に水を差してしまっているわね。ちょっと自分の心の浅ましさに、自己嫌悪しているの。………大切な友人の幸せに嫉妬するなんて、最低だわ」
するとリゼルはエリザベスの言葉がすぐには理解出来ないのか、ぱちぱちとその大きな瞳を瞬きする。彼女の代わりに口を開いたのは、二人のすぐ傍らに座っていた彼女の兄の方だ。
「別にそれほど自己嫌悪するほどのことではないだろう。その程度の嫉妬など、誰にでもあるものだ。だからといって相手を傷付けようとしたり、不幸を願っているわけではないのだろう?」
彼の口ぶりは、やはりエリザベスの内心にきちんと気付いていたらしい。そのことに今更驚きはしないけれど…
「当たり前だわ、ローズにもレイドリック様にも幸せになって欲しいと心から思っているし、その為に私に出来ることがあるなら手助けしてあげたいと思っているもの」
「ならば、何がそれほど気鬱なんだ。溜め息の理由は、その嫉妬とやらだけなのか?」
何かを見透かすようなエリオスの言葉に、ぐっと言葉に詰まる。一瞬誤魔化してしまおうかと思ったけれど、それが無意味であることはこれまでの付き合いで嫌と言う程判っている。
結局、僅かな沈黙の後、再び深い溜め息を付き、重たいその口を開いた。
「………お父様に言われたわ。今シーズンでお相手を見つけろと」
お相手とは、いわゆる結婚相手のことだ。
エリザベスも、もう今年で十八になった。
貴族の娘としてはそろそろ結婚適齢期のタイムリミットが近付いて来ている……婚約してから結婚までおよそ、一年の準備期間が必要なことを考えれば、相手を選ぶ余地があるのは恐らく今シーズンまで。
来年になれば、相手の選択の幅は極端に狭まるだろう。
結婚は貴族の家に生まれた娘の義務だ、それは嫌と言う程判っているし、今更そのことに付いてあれこれというつもりはない。それでなくともエリザベスは、国でも名門と言われるハッシュラーザ侯爵家の長女だ。
自分がもたもたしていたり、妙な相手を伴侶に選べば、その後の弟や妹の結婚にも支障が出かねない。
社交界の華と言われるエリザベスである。自惚れを承知で言ってしまえば、結婚しようと思えば相手には困らないだろう。
貴族が妻となる女性に求めるものは、愛だの恋だのと言う感情よりも、家柄と財産であり、その次に美貌があれば望ましい。
そのいずれもをクリアしているエリザベスへの求婚は、いちいち相手の名を記憶することが困難なほど多い。いずれはそうした求婚者の中から、夫となる人を選ぶことになると言うのは、もう幼い子供の頃から判っていた。
だけど……間近で、レイドリックとローズマリーのように、他の何よりも互いの愛情で結ばれようとしている恋人同士を見てしまうと、エリザベスだって年頃の娘だ。愛は二の次だと思っていても、心は揺れる。
何と情けないことだろう。ローズマリーが縁談に拒否反応を示していたときには、あれこれと偉そうな事を言っておきながら、いざ自分の番になるとこんなに心許ない気分になるなんて。
あの時ローズマリーも、自分と同じ気持ちだったのだろうか。
我が身で経験してみなければ判らないことは沢山あるというけれど、本当にその通りだ。
「それでしたら、お姉様は我が家においでになればいいのですわ。そうでしょう、お兄様」
その時、実に無邪気に微笑みながら、兄を振り返ったリゼルの発言に、何故か胸がざわついた。
その原因が、ドキリとしたのか、あるいはギクリとしたのかは良く判らない。
「……リゼル。そんな冗談は、エリオスに気の毒よ」
胸のざわつきを表面上は綺麗に隠しながら、困った子ねと微笑むけれど。
「私は構わない」
躊躇いなく返ったエリオス本人からの返答に、不覚にもエリザベスの取り繕って顔に貼り付けた表情は、壊されてしまった。
「えっ……」
たぶん今の自分は、とても困惑しているか、心許ない表情をしているかのどちらかだろう。それ以上の言葉が出てこなくて、声を詰まらせたままエリオスを見やれば、視線の先で憎らしいほどいつもと変わらない表情のまま……けれど瞳だけはこちらを真っ直ぐに見つめて彼の言葉が続く。
「何も無理強いするつもりはない。ただ、そう言う選択肢もあると言うことだ。君が嫌でないのならば、考えておいて欲しい」
「……嫌、と言うわけではないけれど……」
それきり口を閉ざしてしまった。
何を言えば良いのか、咄嗟に判らなかったのだ。
エリオスは、冗談や戯れを口にすることは滅多にない。それもこういった内容の話題になれば尚更、彼の口から出る言葉は全て彼自身が本気で考えている言葉だ。
王位継承権すら持つ、公爵家の嫡子という立場上、彼の言葉はとても重い。彼が白いと言えば、黒いものでさえ白になってしまうことさえ多々あるくらいにだ。それを彼は良く知っているから、決して無責任な言葉は口にしない。
だからこそ、この言葉も嘘ではないのだろう。きっとエリザベスが首を縦に振れば、この言葉は実現するに違いない。
エリザベスが他の誰かを結婚相手に探すより、このエリオスとの結婚が一番現実味があるのは事実だ。社交界や周囲の人々も驚くことなく、ああやはりそうか、とむしろ納得するだろう。
身分的にも全く申し分ない。父であるハッシュラーザ侯爵も、相手を探せと言いながら、本音ではエリオスとの結婚を望んでいるだろうことは薄々感じていたし、本音では、自分でもそうなるのかもしれないとは思っていた。
だが、いくら頭の中で予想していたとはいえ、実際それが本人の口から語られれば、とたんに生々しい現実を目の前に突きつけられた気分になってしまう。
そもそも、これは正式な求婚なのだろうか。ただ話の流れで可能性を語っただけなのか。
それを今ここで、確かめる勇気は、どうしても出てこなかった。
結局、あまりにもエリザベスが戸惑った表情を見せたせいだろうか。エリオスが苦笑して、返答はエリザベスの心が定まった時で良い、と先延ばしにする言葉に救われて、その話題は終わった。
それから後は、いつもと変わりない時間を公爵家の兄妹と過ごしたけれど、表面上は普段どおりを装いながらも、心の中はやはり平然という訳には行かない。
露骨にホッとしてしまった自分の顔を見つめていたエリオスに、変化は見えなかったけれど……やはり、良い気分はしなかっただろうと思えば尚更に。
自分はどうしたら良いのだろう。そんな風に迷って、エリザベスが結局頼るように足を向けたのは、ローズマリーの元だった。
「ごめんなさい、ローズ」
やって来たと思ったら、開口一番にそんな謝罪を向けられて、ローズマリーの琥珀の瞳がぱちぱちと幾度も瞬きを繰り返す。
「突然どうしたの?」
「自分が以前、あなたにどれ程無責任なことを言ったのか、今になって実感したのよ。本当にごめんなさい。あんな偉そうなこと、自分のことでは無いからこそ言えたのだわ」
「無責任って……」
「……あなたが、レイドリック様との縁談に戸惑っていたときのことよ」
言われてようやく、ローズマリーも思い当たったようだ。縁談を聞かされた直後にエリザベスの元に逃げ込んだ時、そしてそれ以降もエリザベスはローズマリーに様々な助言を与えてくれた。
きっとその時の発言のことを言っているのだろうと。
でもそれらの言葉は、エリザベスの言う様に決して無責任なものではなかったとローズマリーは思っている。
「何を言っているの、リズ。あなたには感謝しているわ、謝って貰う理由なんてない」
「いいえ、それだけではないの。私、あなたに嫉妬してしまった」
胸の内の重い感情を、とつとつと語るように打ち明けるエリザベスの話を、ローズマリーは遮ることなく最後まで聞いてくれた。
幸せそうな二人の姿を見て感じたこと、良い感情も悪い感情も、その両方全て。そして今の自分の困惑や状況、突然感じるようになった、足元から這い寄ってくるような不安。
それらの全てを耳にすれば、さすがにローズマリーも呆れて自分のことを嫌いになってしまうかも知れない……そうした恐怖さえ抱きながら告白を終えたエリザベスだったが、自分を見つめるローズマリーは驚きはしても怒り出すようなことはしなかった。
それどころか彼女は、全てを聞いた上でそれでも笑った。嬉しそうに、どこかくすぐったそうに、そして慈しむように。
「……怒らないの?」
「怒ったりなんてしないわ。むしろ、嬉しいくらい」
何故だろう。自分の口にした事は、決してローズマリーにとって耳障りの良い言葉ではなかっただろうに。それなのに………
「あなたが、本心を口にしてくれたことが嬉しいの。だってリズは、普段だったらこんなこと、絶対口にしないでしょう?」
「……ローズ」
「ねえ、リズ。私だってきっと、あなたが結婚するときには、幸せになって欲しいと思うのと同じくらい、大切なお友達が奪われるような、自分が取り残されるようなそんな寂しい気持ちになるわ。誰が見ても完璧なレディのあなたに、嫉妬したことだって沢山ある。でもそれは、相手が特別だからよ」
ローズマリーの手が、エリザベスの手をきゅっと握り締める。そして彼女は言うのだ、相変わらず嬉しそうに笑いながら、これまでに見たどんな笑顔よりも大人びた綺麗な笑顔で。
「私の片想いではなく、あなたの特別になれたことがとても嬉しいわ」
もう言葉など出なかった。
いつの間にか、親友は自分が思っていたよりもずっと、大人の女性になっている。
ただ、無言でぎゅうと抱きついてくるエリザベスの身を、同じようにローズマリーも抱き返しながら、しばらくそのままお互いを抱き締め合った。
途中、屋敷を訪れたレイドリックが、抱き合う二人を見て何事かと驚いたように目を丸くしたけれど、即座に二人から揃って、
「取り込み中よ、後にして」
きっぱりと言い放たれて、すごすごと引き下がる姿に申し訳ないと思いつつも、今は譲るつもりにはなれない。
どうせもう少ししたら、彼は存分にローズマリーを独占出来るのだ、一日くらい我慢してもらっても罰は当たらないはずである。
その日、男爵家に泊まったエリザベスは、ローズマリーの部屋で枕を二つ並べながら、夜通し色々な話をした。
家族のこと、友人のこと、日常的なこと、ちょっとした噂話、そして結婚について。
「ねえ、ローズ。……あなたは、結婚することが不安にはならない?」
愛し愛され結婚するのであれば、不安など感じる必要も無いのだろうか。そう思ったけれど、エリザベスの瞳を見つめながらローズマリーは首を横に振る。
「本当のことを言うと、不安よ、今も。……これまでとは違う場所で、違う生活をするのですもの、不安にならないわけがないわ」
でも、と一度途切れて、言葉は続く。
「レイドリックは、そう言う私の気持ちにとても敏感なの。普段は軽くて調子の良いことを言っていても、私が不安を堪えきれなくなる時には、いつもちゃんと話を聞こうとしてくれるわ」
そしてきちんと話を聞いた上で言ってくれるのだ、大丈夫だと。根拠なんて何もないかも知れない。ただの気休めかもしれない、けれどローズマリーはレイドリックのその言葉を聞くと、とても安心する。
「レイドリックが傍にいてくれるなら、大丈夫だと思えるし、あの人の傍にいたいと思うわ。だから、不安になっても平気。………リズ、あなたにもそう思える人が出来るわよ」
「………そうかしら。そうだといいけれど」
「きっとそうよ。その時には教えてね、私に出来ることなら何だって協力するから」
「……ありがとう。あなたもレイドリック様に泣かされたら、私に言ってね。必ず仇を取ってあげる」
「ええ、頼りにしちゃうわ」
ベッドの中、小さく笑い声を上げた。きっとこんな風に夜を過ごすことが出来るのは、これが最初で最後だろう。けれど、ただ一度切りだとしても、こんな風に過ごすことが出来て良かった。
お互い少しだけ相手の潤んだ瞳に気付かぬフリをしながら、しっかりと手を繋ぎ合っていつしか、深い眠りに落ちていく。
眠って、目が覚めた翌朝はきっと、これまでとは違う気持ちになれるだろう。
それからまた、考えよう。これまでの自分のこと、そして………これから先のことを。
六月の晴れた空の下で、祝福の鐘が鳴っている。
風に乗って舞う純白の花びらの中、友人は誰よりも幸せな花嫁として笑っていた。
その友人の姿を見つめながら、エリザベスは今度こそ、嘘偽りのない純粋な気持ちで、心からの祝福を贈る。
どうか幸せに。
そして………自分も、きっと精一杯の幸せを見つけてみせると。




