ミス・モーガンの憂鬱 2
かっと頬を赤くして、顔を背ける。でもレイチェルがそうしたのは一瞬だけだった。
相手がそのような無礼な発言をしてくるのであれば、こちらも礼儀を守る必要は無いのではないかと、そう思ったから。
「確かに私は、あなたの花嫁になりたいと強く願っているわけではありません」
きっと視線を元に戻して、目の前の青年を睨む。すると、何故かデュオンはここで、どこか楽しげに瞳を細めて、口の端をつり上げた。
そうすることによってそれまで彼が浮かべていた、穏やかで優しい貴族青年、という印象から少しだけ粗野な男性の印象に変わる。たったそれだけのことで、自分の心がざわつくのを自覚した。
何故かは判らない…ただ、取り澄ました上品な様子よりは、今の彼の方が好ましいと思ったからなのかもしれない。
「自分が分不相応であることも自覚しています。でも……」
思わず口ごもったのは、それ以上口にすることを躊躇ったからだ。いくら一瞬カッとしたからとは言え、言って良いことと悪いことの区別くらいはつく。
けれど。
「構いませんよ。あなたの本心を、あなたの言葉で仰って下さい。あなたのお父上には、ここで聞いたお話は一切口外しないと約束します」
「……どうして、そんな……」
「あなたという人が知りたいからです。ミス・モーガン。お互いに相手のことを何も知らないと言うのに、結婚相手として見ろと言われても難しいでしょう?」
言われて理解した。どうやら父は、レイチェルが思うよりもよほどせっかちだったらしい。商売ではここぞと言う時を見極める目は優れているのに、この手のことには気が回らないのだろうか。
どう考えても彼に、娘との結婚を打診するには時期尚早だというものを……けれど、その父の打診をどうしてすぐに断らないのだろう。
彼ほどの青年であれば、他に女性など選び放題のはずだ。それともこうしてレイチェルと話すことによって、断る理由を探そうとしているのかもしれない。
そう思うと少しだけ気が楽になった。彼がそのつもりなら、その方が良い。
自分だってずるずると長い間、こんな荷の重い役目を負わされるのはごめんだ。
「………私は、結婚などしたくありません」
ぽつりと呟いた言葉はレイチェルの本心だった。
そう、結婚なんてしたくない。夫に支配され、言うなりになり、自分で望む事も出来ない。
毎日怯えながら父親の顔色を伺っている母のようになど、なりたくない。
「私はもっと、自由に生きたいのです。好きな本を好きなように読み、好きな場所に出掛け……もっと色々なものを目にしたいし、知りたいのです」
それが何かと問われると困る。
とにかくレイチェルは知らないことが多いので、自分が何を知りたいのかも、どんなものがあるのかも良く判らないからだ。
でも、知りたい。ここではない場所に出て、新しいものを見て、誰かに強制されるのではない自分の意思で生きたい。
「素晴らしいことだと思いますよ、ミス・モーガン。あなたは是非、そうすべきだ」
「…ありがとうございます。でも、無理だと言うことはちゃんと判っています」
「何故?」
「父が許しませんもの。父の中での女の幸せは、結婚をして、夫に従い、子を産み育て、家を立派に守る事だけなのですから」
それは幸せではなく、役目だ。
「結婚なんて……女にとっては、牢獄も同然ですのに」
ふっと、デュオンが笑う気配が伝わった。人が真面目に話しているのに、何をと少しだけムッとして視線を上げれば、想像に違わぬ様子で彼が笑っている様が目に映る。
「何がおかしいのでしょうか」
やはり小娘の戯言としか聞こえなかっただろうか。
そう思われても仕方ないと判っていても、面と向かって笑われるとやはり面白くない。
すると、彼は低く洩らした笑いを隠すこともせずに、小さく肩を竦めて見せた。
「いえ、失礼。随分と偏った結婚観念ですね」
「そうでしょうか。それが一般的だと思います」
「いいえ、もちろんあなたの言う牢獄のような結婚生活もありますが、そうでないものも数多く存在しますよ」
「………」
それはそうかもしれないけれど、レイチェルはそれしか知らない。
幸せな愛情溢れる家庭など、彼女にとっては本の物語の中での話だ。
いささかささくれた気持ちでそう考えていると、再びデュオンの声が耳を打つ。
「確かにあなたはもっと、この家だけではない、外の世界を多く知った方が良いでしょう。現に私の家は、あなたの言う牢獄のような家庭ではありませんし、私の妹もきっとそんな結婚生活にはならないはずですから」
「……妹さんがいらっしゃるのですか?」
それは知らなかった。というか、知ろうともしなかった。
「ええ、一人。お転婆で、跳ねっ返りで強情で、つい数ヶ月前まではあなたのように、結婚なんて絶対にしたくないと叫んでいた妹がいます」
言う言葉は散々だが、彼が妹に対して深い愛情を抱いていることは、彼女の話を口にしたとたんに、それまでの気取った表情の中に甘さが含まれたことで気付く。
なんだかとても意外な気がした。レイチェルの印象では、彼はもっと冷酷な人かと思っていたのかもしれない。
「その妹が、今では恋人との結婚を認めてくれないのであれば、家を出ると叫ぶ始末です。相手には散々泣かされ、苦労もさせられ、騒動に巻き込まれて怪我をしたこともあるというのに、それでもその相手が良いと言うのだから恋というものは恐ろしい」
「……あなたはその結婚に反対なのですか?」
「いいえ。元々はその男は幼馴染みでもあり、私にとっても親しい友人です。少々問題はあれども人柄はよく判っているし、結婚相手にと妹に打診したのは私です。妹をくれてやるなら、その男だと思っていました」
幼馴染みとの結婚。特別珍しい話ではないけれど、そう多く存在する話でもない。
「………ただ、最初は嫌がっていたくせに、その内自分達の力だけで問題を解決したような気になっている様子が面白くないし、その男の問題で妹に怪我をさせたことが腹立たしくて、相手の男への警告も込めてつい最近まで反対していましたけどね」
「まあ……」
それはそれでどうなのだろう。
自分で薦めておきながら、自分がのけ者にされたようで反対するというのは……少々子供じみているようにも感じる。
けれども多分、その成り行きは今デュオンが口にした簡単な説明では到底足りないようなことが沢山あったのだろう。少々問題があったと彼は言うが、その問題に目を瞑っても妹をやっても良いと思ったのなら、それだけの信頼関係がある相手と言うことだ。
「恐らく、二人は幸せになるでしょう。……そうであってくれれば良いと思っています」
「おめでとうございます、ご成婚の暁には当家からもささやかながらお祝いを寄せて頂きます」
「それはどうも。ですが、ミス・モーガン?」
「……はい」
「あなたにも、そうした結婚が待っている可能性は、充分にあると言うことです。もっと外にお出でなさい、世界を知りなさい。確かに世間は女性に対していささか支配的な一面もありますが、あなたの言う牢獄のような可能性ばかりが存在しているわけでもありません」
言葉が詰まった。何と答えれば良いのか判らない。
そんなことは、これまでに言われたことがなかった。
レイチェルの可能性という扉は、いつも閉ざされていて、どんなに開けたいと願ってもそれは開けてはいけないものだった。
でもこの人はその扉を開けて、外に出てこいと言う。
自分でも望んでいたことだけれど、いざ『開けろ』と人に言われると、急に心が怖じけ付く。なのに、それ以上に心が期待で膨らんでいくのを自覚してしまう。
「必要であれば、私の名を出しても構いません。あなたとの未来が、お父上の願いどおりになるかどうかは別にして、友人として協力出来ることは致しましょう」
「……どうして、そんなことをして下さるの?」
彼の意図が判らない。
これまで、父親に引き合わされて何度か顔を合わせ、言葉を交わした事はあれども、決してそれ以上ではなかったし、彼が自分に対して特別な感情を抱いていると言うこともないはずだ。
恐ろしく奉仕精神の強い人なのかと思ったが、そうではないだろう。
その証拠に自分を見る目には情熱など何も感じられない。ただ………目の前にいる人を、人として認めている………それだけだ。
「さあ、どうしてでしょう。強いて言うなら、全てを諦めているようで諦め切れていない、何かを望むようなあなたの瞳が、気になったからなのかもしれませんね」
「たったそれだけで?」
「ええ、それだけです。ふと目をやった道ばたで、子犬が不安そうな顔をして蹲っていたら、何となく見捨てられないでしょう? 雨が降っている日なら尚更ですね。見て見ぬフリをしたらまるで、自分が悪党にでもなってしまったかのような気分になってしまう」
「ひどい方、私は子犬と同じなのですか」
「失礼。ものの例えと言うことです、あなたは充分魅力的な女性ですよ」
少なくとも若い女性に対して言う言葉ではない。しかもとってつけたような社交辞令は、とても本気には受け止められない。
でも、それがなぜか嬉しいと思ってしまった。
「そのような真似をなされば、父を期待させて、あなたにとってはご面倒なことになるのではありませんか」
「勝手に期待させておけば良いのです。その間あなたは、望む自由を得られる。お父上が先走りそうになるときには、私がどうとでもしておきましょう。……手の掛かる妹の手が離れてしまったので、私も少々手持ちぶさたなのです」
子犬であったり、妹の代わりであったり。忙しい上に、やっぱり失礼極まりない。
そう思ったけれど、レイチェルから零れたのは苦笑だった。
どうやらこの人は自分が勝手に想像していた人とは、少し違うらしい。自ら面倒事を背負うなんて、どんな物好きだろうと思う。
「では、まず最初の一歩として、外に散歩に出ませんか。どうやらあなたのお父上はまだまだ、お戻りにはならない様子ですから」
「それは構いませんけれど……でも、本当に宜しいんですか? 私…あなたを利用させて頂いても、何もお返しできるものはありませんけれど」
「女性にそんなものは期待していませんので、ご安心を。ただ、そうですね、あなたが新しい事を知ったとき、感じたことがあれば、それをありのまま素直に教えて頂けると嬉しいですね」
「では、今感じたことを、率直にお話しても?」
「どうぞ」
差し出す彼の手の平に、自分の手の平を重ねる。
触れ合った手から伝わる温もりを、初めて暖かいと感じた。
「あなたって、とても変な方ですね」
数秒の間の後、ふわりと口元を綻ばせたその笑顔が、レイチェルにはどんな取り澄ました微笑よりも魅力的に見えた。
ノーク男爵、デュオン・ノークが、レイチェル・モーガンと身分の差を超え婚姻の儀を挙げるのは、二人が友人関係を経て心を通わせあう、これより二年あまり先の未来の話である。
彼の妹夫婦を始め、多くの人に祝福されたそれは、以前彼女が想像していたようなものとはほど遠い、幸福に満ち足りたものとなるのだった。




