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ミス・モーガンの憂鬱 1

 レイチェル・モーガンは、自分の目の前に座り、優雅にカップに口を付けている青年を見つめると、そっと知られない様に小さな溜め息をついた。

 漆黒の髪に琥珀の瞳、瞳を伏せた彼の睫毛は多分自分よりも長いのではないかと思うくらいで、通った鼻筋も、少し薄い唇も、思わずハッとするほど綺麗に整っている。

 一見女性的な美しさに見えてもおかしくはないのに、それに反してシャープな顔の輪郭や、しなやかな身体の作りはどこからどう見ても男性のもので、彼の美貌を「女性のように」と表現することを不可能としていた。

 これまでのレイチェルの十八年の人生の中で、彼ほど見目麗しい青年を目にしたことはない。

 それは友人達も同様で、以前偶然街中で友人と共に買い物を楽しんでいた際にばったりと出会った時には、自分の隣で友人が淑女としての作法も忘れてぽかんとその顔を見上げていたことを思い出した。

 いつもは生意気でおませな自分の妹も、彼が屋敷に来るととたんに、普段の我が儘ぶりを忘れた根っからのレディのように、精一杯マナーを守って挨拶をする。

 そんな自分の姿を見て目の色を変える少女達の反応を、この青年は驚くことも謙遜することもなく、ごく自然に当たり前のように受け止めて上品に微笑み、優しい、けれどその実は社交辞令でしかない言葉を返すのだ。

 正直に言ってレイチェルは、この美貌の青年が苦手だった。自分でも何故なのか、その理由は良く判らないのだけれど……強いて言うなら、何を考えているのか判らない笑顔が苦手なのかもしれない。

 どこか冷酷な印象を与えてくるようで。

 相手の青年の名を、デュオン・ノークという。

 貿易商の父と最近、仕事で深い付き合いをしていると言う、若き男爵様だ。

 男爵と言えば貴族階級で言えば下級だが、レイチェルの家のような爵位のない人間から見れば、彼のような存在は憧れだ。

 今のところ父が仕事で成功しているために、レイチェルの実家であるモーガン家も下手な貴族よりは裕福な生活を送ることが出来ているが、それでも身分の差は埋めようがない。

 それでなくともこのノーク男爵は若いのに商才豊かな人物のようで、彼と仕事を共にするようになってから父の商談の場は確実に増えた。

 これまでは身分の差が壁となって、なかなか得ることが出来なかった貴族社会への人脈を、彼の仲介で得ることが出来たのだという。

 それ以上のことをレイチェルは知らない。父に聞いても、執事に聞いても詳しい仕事の話については教えて貰えないからだ。女のお前が、知る必要は無いと言う理由で。

 それがレイチェルには悔しかった。

 自分が男であれば、今頃は父の隣でその仕事を手伝い、国中を回っていたはずだ。商品の買い付けに他国に出ることもあるだろうし、沢山の見知らぬ出来事と出会い知識を深めることも出来ただろう。

 現にレイチェルの下の弟は、そうやって父の元で様々な経験を積んでいる。

 けれど自分は女であるというだけで、それらの可能性は全て潰されてしまう。

 父は昔ながらの、男は外で働くべし、女は内で家を守るべし、という考えの持ち主で、レイチェルが礼儀作法以上のことを学ぼうとすることも快く思っていない。

 本を手にしている姿を見ただけでも、それが娯楽やマナー以外の内容のものだと知ると、女の見るようなものではないと眉を顰めて取り上げられてしまう。

 父は日頃から、自分や妹に向かってこう言う。

 女の役目は、家を守り子供を産み育て、従順に夫に付き従うこと。その夫の恥にならない程度に己を飾り、礼儀を身に付け、いつも微笑んでいること…それだけだと。

 その考えは父だけではなく、母も同じようで、それはおかしいとレイチェルが何かを言おうとすればいつも、母親が娘を窘めてくる。

 そして決まって言うのだ、お父様の言うことが正しい、逆らってはなりませんと。

 お陰でレイチェルは自分が本当にやりたいことも、興味のある本を読むことも出来ない。

 今もそうだ、やりたくもないことを強引にやらされて、そこに自分の意思などない。

 どうやら両親は自分にこの若き美貌の男爵の心を、射止めることを期待しているらしい。

 彼との結婚が叶えば、このモーガン家は娘を貴族家に嫁がせることのできた家として箔がつき、同じ商人の間でも格上の存在として見なされるし、貴族社会にも今よりも堂々と乗り込んでいくことが出来るからと。

 それにもしレイチェルが彼の嫡子を産むことが出来れば、貴族家の中に家の血を混ぜることが出来る。身分意識の高い人間には、それは憧れと言って良いことだ。

 だから仕事の商談で話があると、わざわざ家まで足を運んできてくれたこの男爵との約束の時間に、わざと外出先での帰りに馬車の車輪が壊れたと言う理由で帰宅が遅れる旨を伝え、その間の時間を娘のレイチェルに相手をさせる、という見え透いた手段まで使ってくる。

 渋々ながら彼の元に向かう途中で母親に、そっと肩を撫でられて、くれぐれも上手くやりなさいと耳打ちされた言葉が重く、胸の内側にのし掛かっていた。

 一体自分の意思というものは、どこにあるのだろう。

 いけないと判っていても、ついついまた溜め息が零れおちそうになる……その時だった。

「浮かない様子ですね。何か気に掛かることがおありですか、ミス・モーガン?」

 しまった。溜め息を隠し切れていなかったか。

 思わずハッとして視線を上げれば、デュオンがこちらをまっすぐに見つめている。

 相変わらず微笑みを絶やさない綺麗な顔で、それだけで年頃の娘ならばぼうっとしてしまいそうだけれど、レイチェルは自分の心がますます強張る様を自覚した。

 そうだ、自分が彼を苦手な理由をもう一つ思いついた。

 この瞳だ。穏やかに見つめているように見えるのに、その実は彼の瞳に見つめられるとその心の内側まで見抜かれそうな気がする。それが嫌なのだ。

 彼には父の浅ましい望みも、自分が嫌々ながらに引き受けている役目も、全てお見通しだろう。

 それを知りながら自分が会話の相手をすることを断らないのは、大切な商談相手の娘のプライドを傷付けて面倒な事態になるのを避ける為に違いない。

 他の誰に言われるまでもなく、レイチェルは自分が彼の隣に立つに相応しい娘では無いことは自覚していた。

 特別美しいわけでも、機転が利くわけでもなく、彼の会話の相手が勤まるほど知識があるわけでもない。精々話すことが出来るのは身の回りの出来事か、天気の話くらいだ。

 世間で言う、女のつまらない話、だ。

 それで彼の心を射止めることが出来るわけが無いではないか。

「…いいえ、そのようなことは…」

 咄嗟に否定はしたけれど、自分の言葉を彼が信じていないのは明らかである。

 出来ることならいっそ、この場からもう立ち去ってしまいたい。けれどそんな真似をすれば、父は後で自分を酷く叱責するだろう。

 自分が叱責されるだけならばいいが、その後必ず父は、お前の教育が悪いと母をも叱るのだ。長い間父の顔色を伺いながら生きて来た母親は、そんな父に逆らうことが出来ない。

 商才には長け、立派に一家の主として家を支える父だが、多くの女性が夢に見るような暖かな愛情に溢れた家庭を作る才能には恵まれなかったらしい。

 もっともそんな愛情溢れる家庭を作ることの出来る男性など、これまでにお目に掛かったこともないけれど。そんな不確かなものより、男性が求めるのものは確かに目に見える財産だから。

 財さえあれば、美しい妻が手に入る。美しい妻が手に入れば、理想の家庭も作れると、多くの男性はそんな勘違いをしている。

 きっと目の前の、この青年もだ。

 そう思うと、何もかもがうんざりとしてくる。いっそ早い内に自分では相手にならないと、彼の方からきっぱり現実を父親に突きつけてくれれば良いのにと、そんな逆恨みに似た気持ちにさえなるくらいだ。

 身分違いの大それた夢など持つなと、父を戒めて欲しい。

 そんな風に思ったときだった。

「ミス・モーガン。あなたは将来の夢がありますか?」

「えっ…」

 唐突に尋ねられて、思わず目を丸くする。これまでに問われたことのない種類の質問に、咄嗟に意味を理解するのに時間が掛かって、何度か瞬きを繰り返すと、デュオンはその瞳の笑みを絶やさないまま、もう一度訊ねて来た。

「言い方を変えましょうか。今、あなたには何か望むことがありますか?」

 彼の意図が判らなかった。何故そんなことを聞くのだろうと。

 女性として、理想の回答は恐らく、立派な男性と結婚をして、立派な家庭を築くことです、と答えるべきなのは判る。でも多分、彼はそんな言葉は望んでいないだろう…と、そんな風に感じる。

 望む事はある。でもそれは、口にしてはならない事だ。

「どうしてそのようなことを、お尋ねになるのですか」

 質問に質問で返すのは行儀がよくないと判っていても、ついそう尋ねてしまうと、デュオンはレイチェルの非礼を責めることもせずに、実にあっさりと答えた。

「そうですね。あなたが今、こうして私の目の前にいても、あなた自身が未来の男爵夫人の座を望んでいるようには見えないからでしょうか?」

「なっ…!」

 実にストレートで、かつ無礼な返答だ。いくらお見通しだとしても、そういう言葉は、それこそ口にしてはならない。断るにしても受けるにしても、湾曲に避けるべきことで、それが礼儀であることをこの人が知らないはずはないのに。

 まるでお前では相手にはならないと言われたような気がした。

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