第一章 望まぬ縁談 3
ローズマリーが乗り付けてきた馬車は先に帰し、現在はレイドリック自身が乗ってきた馬車の中で二人、向かい合わせに腰を降ろしながら、何とも重たい空気を漂わせていた。
相手が口を開くまで、絶対自分から何か言うものかと固く唇を閉ざしていると、その決意が相手に伝わったのか否か。
やれやれと言わんばかりに肩を竦め、意外とあっさりとレイドリックが、この重たい空気を破るかのように口を開く。
「ローズ。そんなに俺との結婚が嫌?」
意図的に、ほんの少し柔らかさを含めるだけで、とたんに甘さを帯びて聞こえる声が、いっそ天晴れな程だ。甘い声音と整った容姿、そこに物腰の柔らかさも加えれば、それはさぞ多くの女性の心を惹き寄せるだろう。
今だってそうだ。甘さの中に少しばかりの寂しさをちらつかされているような気になって、勝手に心臓の鼓動が跳ねそうになる。女性を上手く扱う常套手段だ。
最初に訪れた男爵家の屋敷では、その気ではないような口ぶりと態度をしておきながら、今は手段でも変えたのだろうか。君に拒絶されるのは悲しいよ、と言わんばかりの声音に、逆にローズマリーは身を固くする。
騙されるもんか。自分はこの幼馴染みのことを良く知っている。
こちらが絆された素振りを見せると、すかさずそこにつけ込んでくる、抜け目ない男なのだから。
「嫌なのは私よりも、あなたの方じゃない。おじ様に命令されたから、仕方なく頷いたんでしょう。私相手ではその気になれないと言ったのは、あなたの方じゃないの」
「まあ、それは否定しないけれど」
少しはしなさいよ、形だけでも。
心の中で突っ込みつつも、直ぐさまじろりと睨み上げたので、ローズマリーの心の声はいとも容易く彼に届いたらしい。とたんに何故か、彼はぷっと小さく吹き出してみせる。
何がおかしいのか。ローズマリーはほんの少しも、楽しくなどないのに。
この心の声も、やっぱり簡単に届いたらしいレイドリックは、ますますおかしそうに瞳を細めながらも、ごめんごめんと軽く片手を振りながら、小さく咳払いをした。
「ローズ相手に取り繕っても仕方がないから、はっきりと言うけど。確かに俺は、まだ結婚なんて考えていなかった。これまで何度か君の他にも縁談があったけれど、その気になれなかったんだ。誰が相手であってもね」
「ほら、やっぱり」
「でも、君がレディ・エリザベスのところに家出している間に、俺もちょっと考えてみたんだよ」
「何を?」
「例え今回また縁談が流れたとしても、こういった話はこの先も何度も続くだろう。それも、数が重なれば断るのはどんどん難しくなる。父も、いつまでも俺が独り身でいることは許さないだろうしね」
「それはそうでしょうね。あなたはエイベリー子爵家の唯一の男子だもの」
結婚して、出来るだけ早くに家の血を継ぐ子を成すと言う責任からは逃れられない。
彼と言葉を交わしながら、ローズマリーは頭の中にレイドリックの父である、現エイベリー子爵の顔を思い浮かべて見る。
元々は二年前に亡くなったローズマリーの父と、レイドリックの父が親しいことから始まった、家ぐるみでの付き合いだ。
息子の他、上に娘を持つエイベリー子爵は、少し年が離れて生まれた、ノーク家の末娘であるローズマリーを我が子のように可愛がってくれて、小さな時には何度も自分の家の子供にならないか、などと誘いかけてきては夫人に窘められていたほどだ。
父が亡くなった時には、誰よりも早く…それこそ親戚よりも早くに屋敷にやって来て、残された母や、まだ二十歳になったばかりだった兄を良く助けてくれた。
ローズマリーにも、自身も目を真っ赤にしながら強く抱き締めてくれて、
「大丈夫だ、何も心配しなくて良い。これからは私を父だと思いなさい」
と、そう言ってくれたことを今もはっきりと覚えている。まさか、本当に義父になるかもしれない未来が訪れるとは、あの時は思ってもいなかったけれど。
それからも、時々屋敷を訪れてはあれこれと気を配ってくれている、優しい大好きなおじ様だ。年に数える程しか顔を合わせなくなっていたレイドリックより、よっぽど身近な人に違いない。
レイドリックと、エイベリー子爵はあまり似ていない。大柄で逞しい体躯の子爵よりも、レイドリックは繊細な面差しの夫人に良く似ている。ただ、やはり親子であることを証明するように、朱金の髪とサファイアの瞳の色はそっくり同じだ。
それを見ていると、次第に罰の悪い気分になってきた。
ついレイドリック本人の素行や、言動、そしてローズマリーの心の中にあるわだかまりに気を取られ、嫌だ嫌だと騒いでしまったけれど、冷静に考えてみれば、これほど世話になって慈しんでくれているエイベリー子爵の希望である彼との結婚を拒絶するのは、とんでもない恩知らずな行為ではないかと思えてきたのだ。
続くレイドリックの言葉が、余計に罰の悪さを後押しする。
「多分もう随分前から、君と俺との結婚を考えていたんだろうと思う。父が今まで俺が縁談を断ることを黙認してくれていたのは、多分そのせいもあるだろう」
あり得ない話ではない。それどころか充分、考えられる話だ。
あまりにも身近な存在過ぎて、そんな考えがローズマリーには浮かばなかっただけで。
「父だけでなく、母も君のことは実の娘のように思っているしね」
多分こちらの兄と母も、同じ考えなのだろうと思えた。ローズマリーが嫁げば、エイベリー家とは文字通り家族も同然だ。
エイベリー家ならば、ローズマリーも嫁姑の確執で、肩身の狭い思いをして苦労をすることも少ないだろうし、少々お転婆で真っ直ぐ過ぎる性格も、子爵家の人間は主立った使用人に至るまで皆良く知っている。どこへ行くよりも伸びやかに、幸せに過ごしてくれるだろうと、そう考えてのことだろう。
幸いにして実家のノーク男爵家は、財産にも困ってはいない。娘に家の為と無理な結婚を背負わせる必要もないし、あの兄のことだ。家の繁栄は妹に頼らず、自分の手でと考えているに違いなかった。
「そんな……」
自分の幸せを第一に考えてくれることは、素直に有り難いと思う。本当に有り難い話だが………これでは、もう最初からローズマリーには、断る選択肢などないではないか。
母や兄はもちろん、エイベリー子爵もその夫人も、悲しませたくなど無い。これほど自分のことを考えて、迎え入れてくれようとする家も他にないだろう。
「もちろん、父も母も、君の意思を全く無視してでもとは言っていない。君が本当に嫌だと言うのなら、無理をして家に来て貰っても、返って不幸になるだけだ。俺も、無理強いをして君に、しおれた花のようにはなって貰いたくないよ」
例え断ったとしても、子爵夫妻がローズマリーやその家族を責めることもないだろうと、レイドリックは言った。
でも……やはり、そんなことになれば悲しませてしまう。
どうしたらいいの、と、先程までの刺々しい態度を一変させて、縋るように見上げた時。
「それでさ。一つ提案があるんだけど」
「提案?」
妙に明るい口調で、にっこりと微笑みながら彼は言う。
「一応、努力はしてみない?」
「努力って」
「お互いがお互いに、そう言う対象として見られるようになるための努力だよ」
そう言う対象として。つまりは、結婚相手として。
それは努力してなるものなのだろうか。彼を見上げる瞳が、つい胡乱げになってしまう。内心のローズマリーの疑いなど、簡単に気付いているくせに、ここでは綺麗に気付かなかったことにしたらしいレイドリックは、己の笑みを深めた。
「君は、母君やデュオン、そして俺の両親を悲しませたくない。俺も両親は悲しませたくないし、何より大のお気に入りである君を無碍に断ったりなんてしたら、それこそ今日明日にでも、どこかの令嬢を問答無用で妻に押し付けられるかもしれない。何しろ俺の素行には両親も、頭を痛めているからね」
「それは、自業自得って言うんじゃない?」
「まあ、それは横に置いておいて」
こほん。わざとらしい咳払いを一つ。
「一応、努力はしてみようよ。それでもどうしても、お互いに無理だと言うことになれば、俺の両親も、君の母君もデュオンも納得するんじゃないかと思うんだ。とりあえず、恋人からどう?」
「………」
「それに……もしかしたら俺も、ローズだったら……」
最後に呟いたその声は、小さすぎて最後まで聞き取れなかった。自分だったら、何だと言うのか。
えっ、と聞き返しても、レイドリックは誤魔化すように微笑んで、それきり口を閉ざしてしまう。残されたのは笑ってはいても、本心の見えない表情だ。彼がこういう顔をする時、何を訊いても決して教えては貰えない、と言うことをローズマリーは知っている。
一体、何だと言うのだろう。正直、お互いの家族がどうのと言うよりも、レイドリックの最後の呟きの方がよほど気になる。
この時二人の間に漂った沈黙は、否応なく過去のローズマリーの記憶を蘇らせた。そう、あの時も……これによく似た沈黙だった気がする。もっともあの時の方が、もっとずっと重苦しかったけれど。
蘇る記憶に、少年だった頃と今の彼とが重なって見えて、ちりっと胸の内側が焦げ付くような、痛むような不思議な感覚を覚えた。何だか、すぐ目の前にいるのに、レイドリックが遠い。
例え結婚の話が出ても、あの頃から自分達の関係や距離感は、全く変わっていないのだと思い知らされるようで……それが寂しいなんて、口が裂けても言えない。代わりにローズマリーが口にしたのは、彼に対する確認の言葉だった。
「…レイドリックは、それで良いの?」
「良いよ。俺だって別に、君が嫌いで嫌だと言っている訳じゃない。ローズのことは、可愛いと思うし、好きだよ」
でもその「好き」は、異性に向けての好きではない。だからこそ、こうもあっさりと口にすることが出来る。ローズマリーも同じだ。
「私だって、別に……レイドリックが嫌いな訳じゃないわ」
「うん、知っている」
「……そこはもう少し、謙虚になっても良いと思うの」
そう? と笑う幼馴染みに、今日何度目かの睨みを向けて、数秒後。仕方ないとばかりに肩の力を抜くと、深く馬車の座席に背を沈めた。
ここいらが妥協点だ。何でもかんでも、全てを嫌だと言ってもどうにもならないのだと、言うことが判らない程ローズマリーももう、幼い少女ではない……つもりだ。
いくら世間知らずなお嬢様であっても、その程度のことは判る。自分だって、いつまでも母や兄の世話になっているわけにもいかない。娘はいつか、家を出るもの。その予行練習だと思えばいい。
「………………判ったわ。努力はしてみる」
ただし、条件がある。
「努力している間は、素行は改めてちょうだい。あっちへフラフラ、こっちへフラフラしている人を結婚相手になんて、見られないわ」
「もちろん、その間は肝に銘じて、誠実な恋人をさせて貰うよ」
「それと、いつまでもだらだらとして、結局断れない状況になるのはごめんだわ。期限を決めさせて。……そうね、三ヶ月でどう?」
「三ヶ月か…」
これまでの付き合いの長さを考えると、随分と短い期間だと我ながら思う。生まれてから今までの間、ずっと兄か妹かという感情を抱いていた期間から、男女の特別な関係に切り替えるには同じだけの時間が掛かっても不思議はない。
でもそんなことを言っていたら、確実に自分はオールドミスだ。それに周りも、それほど長い時間を待ってはくれないに決まっている。
これほどまでに両家の間で本格的な話になっているのだから、誤魔化せてもせいぜい数ヶ月……それを思えば、妥当な期間ではないか。同じことをレイドリックも考えたのか。
「…うん、まあそれくらいが限度かな。判った、良いよ」
「それと最後に!」
「まだあるの?」
「あるわよ、大事なことだもの! いくらお互いに努力中だったとしても、相手の許可なしに変なことをするのは無しよ」
とたんに、レイドリックの顔に意地の悪い笑みが浮かんだ。そんな意地悪い顔をして見せても、彼の美貌が崩れることが無いのが小憎らしい。
「変なこと、ね。それって具体的にどういうことか教えてくれる?」
「判ってるくせにわざとらしく訊かないでよ、馬鹿っ! 余計な心配だってことは自分でも判ってるわ、どうせ私相手じゃその気にはなれないでしょうし。でも万が一と言うこともあるから、念のためよ、念のため!」
これ以上意地の悪いことを言ってくると、ぶつわよ、とばかりに右手で握り拳を作って見せるローズマリーに、低く笑いながらも、はいはいと頷いてレイドリックは肩を竦めて見せる。
「判ったよ。もし君に、特別なキスがしたくなった時には、きちんと事前に断ってからにする」
でも、親愛と友愛の情を示すためのキスなら、いちいち断らなくても良いよねと、彼はローズマリーの握り拳を作った右手を取ると、引っ込める間もなくその手の甲に唇を落とした。
まるで最上級のレディに対するような、恭しい仕草で。
別に気にすることはない、これまでも、手や頬、額への挨拶のキス程度は何度もしてきた。意識する必要など無いと思いつつも、何故だかやけに顔に血が昇る。
恐らくは真っ赤に染まっただろう、ローズマリーの顔を見て、実に満足そうに微笑むレイドリックに悔しさを覚える。
どうやら彼の提案した「努力」とやらは、もう始まっているようだった。