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第十章 あなたに捧げる思い出の花 2

 レイドリックの手が掛布の上に出ていた、ローズマリーの右手を包む。初日よりも包帯の範囲は小さくなったけれど、それでも手の平の中央にまだ残る、擦過傷を覆う白い包帯が痛ましく見えるのか、僅かに彼の瞳が細められる。

 馬に乗った時に手綱を握って出来た傷かと問われ、違うとローズマリーはあの夜のことを思い出しながら首を横に振った。

「閉じ込められた部屋から逃げ出すために、ベッドカバーやシーツでロープを作ったの。それで窓から外に出たのよ」

 でも、やっぱり物語のようには軽々と鮮やかには行かないわねと笑えば、感心半分呆れ半分にレイドリックが「いや、それだけ出来れば充分だよ」と苦笑し、そのまま右手を両手でやんわりと握り締めて、自分の額に押し当てた。

「君が無事で良かった。今はただそれだけだ。もう二度と、君にそんな危険な真似はさせないから」

 どうしてだろう。あれだけ判らないと不安に思っていたレイドリックの心が、今は何となく判るような気がする。

 どんなに近くにいても彼が遠く感じて、どう頑張って見ても彼には手が届かないのかも知れないと、悲しい思いをしてきたのに、今の彼はローズマリーに寄り添おうとしてくれている。

 彼までの彼と今の彼とでは、何かが少し変わったような気がした。きっとその変化は六年前のように、己の内側に閉じこもる類のものではない。かと言って、幼い頃の彼に戻ったわけでもない。

 どうしてだろうと不思議に感じて、でもすぐにそれもおかしなことではないと思えた。そもそもローズマリーが昔、昔と言っていたのは彼がまだ本当に少年だった頃の話だ。例え何も無かったとしても、人は年月の流れと共に少しずつ変化する。

 六年前の十代半ばだったレイドリックと、二十歳を超えた今の彼が違っているのは当たり前のことなのだと、そんなことに初めて思い当たると妙に納得してしまった。

 彼の変化を探しては、置いて行かれるような寂しさを感じていたけれど、多分きっとそんな風に考える必要は無いのだ。

 人はいつまでも同じ場所で足踏みはしていられない。多分それが大人になると言うことなのではないだろうか。

 ローズマリーの心ももう、六年前のただ泣くいて傷つくことしか出来なかった、幼い少女の頃とは違う。そして彼との縁談を耳にしたばかりの頃の、拒絶することで己の心を守ろうとした時の自分とも違う。

 今自分の心を見つめ直してみれば、込み上げて来る感情は実に明確で、多分これから先も泣くことがあったとしても、この心からは目を背けられないのだろうと思う。ならば意地を張り続けるより、ほんの少しでも素直になった方が良い。

 そうした気持ちのままに、ローズマリーは自分の手を包む彼の手を握り返す。

「……ザンピエール伯爵はどうしたの?」

 すると僅かにレイドリックの表情が陰る。でも彼はそこで言葉を止めることはしなかった。

「伯爵への返礼は、俺からきっちりとしておいた。君はもう、彼のことで心配したりしなくてもいい。………それと、ザンピエール伯爵に君のことをそそのかしたのは……ボリスだ。そして、俺を陥れる噂を流したのも」

「えっ」

 一瞬だけ、声を詰める。ローズマリーの頭に浮かんだのは、いつも品良く微笑んでいる、レイドリックの友人の姿だ。そんな彼がどうして、と、抱く疑問は大きい。

 けれど今、それを聞く気になれなかったのは、レイドリックの言うことが真実なら、多分誰よりも傷ついているのは彼だと思ったからだ。

 実際のところローズマリーは、レイドリックとボリスがどれ程深い友人関係だったのかは判らない。けれど皆が一緒にいる姿を見ると、少なくとも表面上だけの軽い付き合いでは無かったはずである。

 何をどう間違えてしまったのかは判らないけれど………彼の手を握る手に、少し力を込める。口先だけの慰めを口にするよりも、今はただ黙って彼の心に添いたかった。

「…もう少しだけ、眠るわ」

 まだ完全に体力も体調も戻っていない。熱っぽい吐息を吐き出して告げれば、うんとレイドリックは頷いた。

「それがいい」

「………もう少しだけ、手を繋いでいて?」

 甘えるような声音を彼に向けるのは、一体何年ぶりのことだろう。あまりにも久しぶりすぎて覚えていない。恐らくレイドリックの記憶にも、もう随分とご無沙汰のはずだ。

 その証拠のように、彼は驚いたように軽く目を見開き……でもすぐに、少し照れたように笑って頷いた。

「いいよ」

 レイドリックの重なっている方とは逆の指先が、ローズマリーの同じそれを優しく撫でる。

 手一つ取ってももう、昔と今とでは全く違う。大きさもそうだけれど、長い間剣を握り、身体を鍛えて来た人の手の平は、何度も傷付けては皮膚が破れ、治ってはまた同じことの繰り返しで、すっかりと固くなっている。

 その手はローズマリーが良く知っている幼い頃の彼のものとは違う。

 今のような手になるまでに、この人はどんな努力をして、何を考えて、何を経験してこれまでやって来たのだろう。何を犠牲にして何を手に入れたのだろう。今、それが無性に知りたいと思いながら、ローズマリーはゆっくりと目を閉じた。

 閉じた瞼の内側で、また夢を見た。

 まだ小さな少女だった頃の自分と、同じく少年だった頃の彼が、男爵家の屋敷のすぐ近くに存在する花畑で並んで座っている。春になると、一面色鮮やかな花が咲き乱れるその場所は、ローズマリーにとって一番のお気に入りの場所で、よくレイドリックの手を引いてはその場所に通っていた。

 夢の中で、おませな自分は彼の耳元に手で筒を作り、唇を寄せて内緒話に胸をときめかせている。


 おにいさまがやきもちやいちゃうから、ふたりだけのひみつよ。

 ローズはね、レイがすきよ。いちばんいちばん、だいすきなの。


 夢の中の出来事。でも、現実にあった過去の思い出。

 抱きつけば、嬉しそうに笑いながら抱き返してくれる少年の温もりが、不思議なほど鮮やかで、とても暖かかった。

 眠りながら自然と、口元に微笑みが浮かんでしまうくらいに。そんなローズマリーの寝顔を見つめながら、レイドリックもまた過去を懐かしむように、そして今を慈しむように微笑んだことを、彼女は知らない。




 それからしばらくして、再び目を醒ました時にはもうレイドリックの姿は部屋にはなかった。けれどもうそれを寂しいと思ったりはしない。呼べばすぐにも来てくれる、手を伸ばせば触れることも出来る、そう確信出来たからだ。

 その後、レイドリックの見舞いを皮切りに、来客が訪れることにも許可が出たのか、兄とエリザベスが入れ替わるように見舞いにやって来た。

 二人ともローズマリーの無事を心から喜んで、体調や怪我の具合を案じてくれる。それ自体は嬉しくて、有り難いことだ。二人の顔が見られてローズマリーも心底安堵した。

 しかし困ったのは、やはり二人ともがレイドリックに対しては並々ならぬ怒りを抱いているらしい、という部分だろうか。

 兄などは、もうあいつのことは忘れた方がお前の為かも知れないだとか、社交シーズンが終わったらではなく今すぐにでも婚約破棄を、世間に発表してやろうかと大真面目で言い放つのを宥めるのに苦労したし、エリザベスの評価もかなりガタ落ちしたらしい。

 ギリギリにならないと踏ん切りが付かないなんて、男性として情けなさ過ぎやしないか、などとレイドリックが耳にすればあまりの耳の痛さに、かなり凹みそうなことを言っていた。

 まあ、言われても仕方ない部分が多分にあるのだろうけれど。

 それでも外野があれこれ言ったところで、結局決めるのは当人達の責任だ。

 人生の中では何度か、重大な選択をしなければならない場面があるという。

 多分、今自分はその岐路に立っている。ここで選んだ選択を後悔しないよう、素直な偽りのない気持ちで考えたかった。

 その為にも外すことのできないレイドリックとの対話は、さらに三日ほどの日数が過ぎて、もうローズマリーが常にベッドの住人にならなくても良い程に回復した時に行われた。

 あらかじめ、全てを話すと約束してくれたとおりに、レイドリックはルイーザと交際していた過去を全て認め、またボローワ伯爵との縁談によって彼女との関係が終わったことも認めた。

 けれど別れに至った流れは噂で聞いていた、泣く泣く別れただとか、買収されただとか耳にしていたそのどちらの噂とも違う。

 確かにボローワ伯爵から買収のような話を持ち掛けられたことはあったが、それを受けたことはないし、お互いに自分の意思を無視されて無理矢理引き裂かれた訳でもない。

「彼女は自ら、自分でボローワ伯爵を選んだんだ。俺ではなくてね」

 もちろん実家から強く命じられた部分もあっただろうし、ボローワ伯爵が彼女の心を揺さぶったというのもあるだろう。でも最終的に選んだのはルイーザだ。

「……どうして? 本気で好きだったんでしょう、お互いに」

 尋ねるのには若干の勇気と、胸の痛みを堪える努力が必要だったが、もう今更言葉を誤魔化しても仕方がない。そう尋ねると、レイドリックはソファに腰を降ろしたまま幾分、前傾の姿勢で、両手を己の口元で祈るような形に組み合わせ、自身の唇に押し付ける。

 その瞳は今ではない、過ぎ去った過去を見るように宙を見つめていた。

「多分、価値観が違ったんだと思う」

「価値観?」

「そう。……あの頃の俺はね、ローズ。愛情って言うものは、とても純粋で、暖かく、優しくて尊い不変のものだと思っていたんだ」

 レイドリック自身が両親からも、周囲の親しい人からも愛されて育った子供だったから、彼にとっての愛の形とはそう言う物だと何の疑いもなく信じていたのだという。彼のそうした考えは、ローズマリーも大いに頷ける共通する認識だ。

「陳腐な言い方をすれば、それこそ愛さえあればどんな問題もきっと解決出来ると思っていた。ボローワ伯爵とのことも、彼女の実家のこともね。………子供だったんだ、俺は」

「……」

「でも現実は、当たり前だけど、愛だけが全てでは無い。以前に一度、彼女に言われたことがあるよ」

「なんて?」

「あなたの愛情は、綺麗過ぎて恐くなる…って」

 そう言われた時には意味が判らなかった。苦笑混じりに、どこか寂しそうに告げる彼女の表情を曇らせる理由が全く判らなくて、ただ戸惑ったことだけを覚えている。

 でも今は、何となく彼女の言いたかったことが理解出来る気がする。

「一途な愛情は、同時に他のことに盲目になる。あの時の俺は、多分、現実がちゃんと見えていなかったんだと思う」

 ただ少年らしい純粋さで、そして潔癖さで自分が正しいと思っていた。でも現実は違った。

「彼女が望んだのは、未来の約束をする一途な愛情ではなく、今を救ってくれる力だった」

 それも考えて見れば当たり前のことなのだ。

 今が苦しい人間に、どんなに未来の夢や約束を語って見せても現実のものとは思えない。苦しいのは今であって、助けて欲しいのも今だ。未来はきっと幸せになれるから、頑張ろうなどと言ったところで、今自分が乗っている船の船底の穴から目を背ければ、すぐに沈むだけだ。

 当時のレイドリックはそれに気付かなかった。でも例え気付いたとしても、あの時の自分にはルイーザの窮地を救うことは出来なかっただろう…いや、例え今であっても多分無理だ。

 ルイーザの実家の、チェルク男爵家の負債は、子爵家程度の資産では補えないほど巨額なものだ。息子からの援助の申し出にエイベリー子爵が頷かなかったのも、ローズマリーの父や兄が首を横に振ったのも、当たり前のことだ。

 他家を救う為に自分の家を潰すような行為なのだから。財産豊かな富豪であったボローワ伯爵だからこそ、被ることが出来たのである。

 年頃の美しい令嬢で、今が一番の花の見頃だというのに、ろくに新しいドレスやアクセサリーを身につけることも出来ず、数少ない、それも流行遅れのドレスやイミテーションのアクセサリーを使い回さなければならなかった当時のルイーザは、どんなに惨めな思いを噛み締めていただろうか。

 そう言ったことにはレイドリックはあまり頓着しない方だけれど、彼女がいつも苦労していたことも、そうしたルイーザの姿を影で嘲笑する者達が多くいたことも知っている。

 彼女を励ますために、今はまだ従騎士でも近いうちに必ず出世するから、もう少しだけ待って欲しいと繰り返し告げた言葉も、彼女にとっては待ちきれない、不安定な未来だったのだろう。

 結果ルイーザは、レイドリックの元から自ら去った。それは話し合いさえ持たれない、裏切りと言うしかない一方的な別れだった。

「…あなたとルイーザ様とは、どんな風に別れたの?」

 一瞬だけ、聞いて良いものかどうか迷った。けれど、聞かずにはいられないと躊躇いがちに視線を向ければ、レイドリックは一瞬だけ痛みを堪えるように瞳を細めてから、小さく苦笑する。

「…聞いても多分、面白くはないと思うよ? それでもいい?」

「いいわ。あなたが受けた、心の傷の深さを知りたいの」

 傲慢な望みかもしれないと思った。人一人の心はどんなに話を聞いても、心を添わせたとしても完全に知ることなど無理だ。レイドリックの心の痛みは彼にしか判らないし、その深さも正確に知ることなど出来ない。

 それでも何も知らないよりは、少しでも知りたい。もしかしたらこの問いは、彼の心の傷を再び開かせる問いなのかも知れないと思っても、傷に触れさせてくれるなら、少しでも癒したい。

 ひたむきな気持ちで問うローズマリーに、レイドリックは再び黙り込み、けれどすぐにその口を開いた。

「………元々、その頃の彼女は随分精神的に不安定になっていた。多分、実家からボローワ伯爵との結婚を強制されて、実家の窮状を呪いのように訴えられて心がすり減っていたんだろう。俺はそれに気付きながらも、具体的に彼女を救ってあげられる力は無く、実質的にはただ言葉だけの慰めしか口に出来なかった」

 当時のレイドリックには自由になる財産など、殆どないに等しかった。どんなに心を込めて励ましても、未来に希望を持たせようとしても、小鳥のさえずりと同じである。

「そうしている内に、彼女は俺の目を避けて一人で行動するようになり始めた。もちろん不思議に思ったし、理由も尋ねた。でもその度に彼女は笑って、大丈夫だから自分を信じてくれと言うばかりで」

 彼女の変化に心の何処かで気付きながらも、彼女の言葉を信じるしかなかった。

「そうしている内に、ある日俺の元にボローワ伯爵からの手紙が届いたんだ」

「どんな?」

「いつまでもお互い張り合っていても仕方がない。きちんと腹を割って現実をどうするかを決めようと」

 レイドリックに断る理由などなかった。むしろ、ルイーザの不安定になってしまった心を少しでも救えるかもしれないと、すぐにその提案に応じて、招待された日時にボローワ伯爵の邸宅を訪ねた。

「でも、ボローワ伯爵の屋敷で待っていたのは、彼だけではなかった」

「……ルイーザ様も一緒に?」

「そうだ。………だけど、到底まともな出迎え方じゃなかった。……ボローワ伯爵家の執事に案内されて、通された客間で…………二人はまるで長年の恋人のように抱き合っていたよ」

 瞬間、文字通りローズマリーの呼吸が止まる。

 話し合おうと言ってレイドリックを呼び出しておきながら、その彼が来る時間に二人は、到底レイドリックに見せるような物ではない残酷な男女の睦み合いを彼に見せ付けたのだ。それが意味するところは、わざわざ言葉に出さずとも判る。

「………酷いわ」

 愛する女性が目の前で、別の男の腕に抱かれている。それも偶然などではなく故意に、ただレイドリックに有無を言わせずに諦めさせる為だけに。

 確かにそうすれば、話は早いだろう。お前などお呼びではないのだと、言葉よりも雄弁に現実を突きつけることが出来る。でもそれを見せ付けられた側からすれば、まさしく地獄を見せられたような気分だ。

 その時の二人にとってはもう、レイドリックなど恋人でもなんでもなく、ただの二人共通の邪魔者にしか過ぎなかったのだと思い知らされて、平然と受け止められる人間などいるだろうか。

 プライドも、尊厳も、愛情も、希望も何もかもが踏みにじられたようなものだ。

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