第十章 あなたに捧げる思い出の花 1
エイベリー子爵邸へと運び込まれたローズマリーは、それから三日ほど寝込むことになった。
極度の精神的身体的負担による疲労も勿論だが、雨風に容赦なく晒されて高熱を発し、まともに起き上がることも出来なかったのだ。
落馬の際の打撲や傷、そして窓から逃げ出すために負った両手の平の擦過傷の影響もあり、熱が下がらない。
そんな眠り続け朦朧とする意識の中で、何度も夢を見た。昔の夢、最近の夢、おかしな夢、悲しい夢、切ない夢、そして恋しい夢。夢に共通して出て来るのは、その多くがレイドリックの姿だ。
ローズマリーは夢の中でいつも、彼の姿を追い駆けている。彼を追いかけるなんて現実の世界だけでも充分なのに、心はまだまだ彼が足りないと言わんばかり。でも夢からふっと目が覚めると、つい先程まで目の前にいた彼の姿がない。
がっかりして涙を零して、また眠りにつく。そんなことを何度繰り返した頃だろうか、また傍に彼のいない現実を受け入れなければならないのかと、とろとろと目を開いたとき、ローズマリーの細く開いた瞳に良く見慣れた青年の姿があった。
目が覚めたと思ったのに、自分はまだ夢の中にいるのだろうかとぼんやり考えていると、霞む視界で彼の手が伸びて、ローズマリーの頭を優しく撫でる。
心地よい温もりと感覚にその手に頬を寄せれば、指先は汗で湿った額に張り付いた前髪をかき分けて、横たわるローズマリーの額に覆い被さるように姿勢を低くして口づけてくる。優しい口付けに喜びと切なさを同時に感じながら、重たい手を上げて彼が身を離すよりも先にその首裏に両腕を回した。
もう何処にも、行かないで欲しかった。自分を置いて知らない場所に行かないで。
吐息と共に、もしかしたらそんな言葉を声にしてしまったかもしれない。
直後息を飲む気配と、それから躊躇う様子が腕の中から伝わって来る。けれどそれは一瞬だけで、すぐに彼の両腕が抱きつくことによって僅かに浮いたローズマリーの背に回って、しっかりと抱き締め返してくれる。
その抱擁に心底安堵した。彼はここにいる、自分を置いてどこにも行かないと。
安堵したことで心の強ばりが解けたのか、もともと曖昧だった意識がまた夢の世界に引き摺り込まれて行く。逆らわずに素直に身を委ね、深く眠って再び目覚めた時、朝の陽射しが明るく部屋の中を照らし出している。
なのにそこには、誰もいなかった。自分だけしか。
あれは夢だったのか現実だったのか判らずにぼんやりしていると、枕元に小さな花がグラスに生けてある姿に気付く。
いつからここにあったのかは判らないけれど、恐らく温室で育てられたものだろう。季節を忘れたローズマリーが数本、爽やかな香りと共に存在している。
どうやら自分の眠りにつく前の記憶は、夢ではなかったらしい。いつになっても変わらない彼の贈り物に苦笑するのと同時に、その不器用さがひどく愛おしいもののように感じられてくるから不思議だ。
ローズマリーはしばらくの間、飽きることなくその花を見つめ続けて、現実の時を過ごすのだった。
子爵邸でのローズマリーの世話をしたのは、ノーク男爵家からわざわざ赴いてきた彼女の母親であり、またエイベリー子爵夫人であるレイドリックの母親でもあった。
四日目にして多少は起き上がれるようになったものの、まだ完全に熱は下がらず、傷や打撲の痛みも消えてはくれない。
医者には、もう数日は安静にしているようにと指示されて、相変わらずローズマリーはエイベリー子爵家の客室で時を過ごしている。
「ごめんなさいね、ローズ。あなたにはとても辛い思いをさせてしまったわ」
そう言ってローズマリーの傷つき、真っ白な包帯で包まれた両手をそっと握りながら涙ぐんだのは、レイドリックの母であるエイベリー子爵夫人だった。
自分の息子とローズマリーとの間にどんな問題があったのか、詳しいことを話したことはないが、彼女なりに色々と察するものがあるのだろう。
ちなみにレイドリックはローズマリーが運び込まれてからこの四日、絶対安静を理由に部屋への出入りを禁止されて、未だローズマリーの前に顔を見せることは出来ずにいると聞いている。
ではあれは、こっそりと監視役の目を盗んで、と言うことなのだろう。知られれば彼が怒られるのだろうと察し、口を噤んだもののもしかしたら、子爵夫人は薄々察しているのかもしれない。自分の息子のすることくらい、想像が付くだろうから。
その証拠に夫人は、ベッドサイドにあるローズマリーの花にチラリと視線を向けつつも、どこか苦笑混じりに口元を綻ばせただけで何も言わなかった。
エイベリー子爵夫人に頭を下げられると、居心地の悪い思いをするのはローズマリーの方だ。母と同じ……とまでは言わないものの、やはり子供の頃から実の娘のように可愛がってくれている女性である。
彼女の悲しそうな顔は見たくない。
「……いえ…レイドリックだけが悪いわけではありませんから」
自分にも、もう少しだけの勇気が足りなかったのだ。
嫌われてしまうかもと思うと恐くて、どうしてもあと一歩彼の心に踏み込むことが出来なかった。もっと早くもう少し勇気を出して、拗れる前に腹を割って話が出来る状況に持ち込めれば、きっとこんな風にはならなかった。
けれどそれも、後になってから思うことである。あの時は、その都度その都度、出来ることを精一杯考えていたつもりである。それを後悔するのは止めようと思う。
「…ありがとう、本当に優しい子ね。あなたは昔から、いつもそうだったわ」
「えっ?」
「一見我が儘を言っているように見えても、あなたはちゃんと相手の心を考えて思いやってくれたわ。……レイドリックのことも、本当はもっと早くあれこれと、聞き出したかったでしょうに、ずっと我慢してくれていたのね」
「………」
「ねえ、ローズ。私達があなたをレイドリックの妻にと望んだのは、決して小さな頃から可愛がってきたお嬢さんだから、という理由だけではないわ。あなただったら、あることが原因で臆病になってしまったあの子の心を、救ってくれるのではないかと思ったからなのよ」
あること、と言葉を曖昧に濁してももう、ローズマリーはそれがルイーザとの出来事であると知っている。
「親の勝手な願いだと判っているわ、あなたは無理にその期待に応えなくてもいい。……でも、もしまだあの子の話を聞いてくれるつもりがあるなら、もう一度だけ機会を与えてあげてくれないかしら。……本当に、臆病で面倒な息子でごめんなさいね」
ふわりと額に触れた、柔らかな手の平の温もりが心地よかった。その後うとうととして眠りにつき、再び目覚めれば今度傍にいたのは、ローズマリーの母親で、母はただ娘の顔を見てそっと微笑む。
こんな風に母が傍にいてくれることは、ある程度の年齢になってからはあまりなかったことだ。小さな子供に戻ったようで、でもやっぱり額を撫でてくれる母の手の温もりが心地よくて、うっとりと目を閉じながらローズマリーは呟くように母に問う。
「……お母様、私……どうしたらいいのかしら?」
するとくすくすと笑う、小さな声が聞こえてきた。そうっと目を開けると、声の通りに笑う母の笑顔が傍にある。
「デュオンは今回のことで、レイドリックに相当頭に来ているらしいけれど。私は、あなたが好きなようにすれば良いと思っているわ。…それに答えはもう、あなたの心の中で出ているのではない? レイドリックが好きなのでしょう?」
「お母様」
「例え泣いても、多少の苦労をしても、女はやっぱり好きな人の傍で生きるのが一番の幸せよ。もちろん、二人で乗り越えられる範囲でのことだけど。そうやって心を鍛えて、みんな少しずつ大人になり、親になるの。………ローズマリー、あなたももう、心身共に巣立って良い頃だわ」
親の手を離れてしまうのは少し寂しいけれど。これから先、あなたの手を取って共に生きてくれるのは、私でもデュオンでもないものね、と呟きながらローズマリーの髪を何度も撫でてくれる。
「きっと、お父様もそう仰ったと思うわよ」
母の言う通りだと思った。もう、兄や母の庇護の翼の下で蹲っているような子供ではない。素直な気持ちで心を満たせば、何よりも望む自分の願いが見えてくる。
それにもう様々な出来ない理由を付けたり、意地を張るのは少し止めにしよう。
「……もう少し体調が良くなったら、もう一度レイドリックと話してみるわ」
「ええ、それがいいわね。相手の方もその時を待っているようよ。…でも今は、もう少しだけお休みなさい、ローズ」
額に母の優しい口付けが降りて来る。それを瞳を閉じて受けながら、ローズマリーは自分が雨の中、気を失う直前に感じた口付けを思い出した。
雨に濡れて冷たい、けれど心に焼き付くような初めてのキス。
母のものとも、兄のものとも違うそれは、よもすると朦朧とした意識が見せた夢なのではないかと思う程だ。
けれどあれを夢にはしたくない。あれを夢だとしてしまうと、その前に耳にした、切ないほど真摯に聞こえた告白も全てが夢が見せた幻になってしまうようで、それが嫌だ。
告白も口付けも、全て真実のものだと信じたかった。
そして確かに抱き締めてくれた腕も。
だからもう一度、彼と話がしたい。それから決めるのでも、きっと遅くない。
これから先どうするのか、そしてどうなるのかを。
うとうとと、眠りについては目覚めて、目覚めては眠りについてを幾度か繰り返している内に、夜が訪れ朝が来て、また夜が静かにやって来た。
ようやくレイドリックがローズマリーに会うことを許されたのは、ベッドの上で安静にしていることに、ローズマリーが苦痛を覚え始めた頃である。
大分回復したとは言えまだ少しだけ微熱が残っているし、ベッドの上で過ごさなければならない状況には変わりないけれど、短時間だけならとローズマリーの母が会うことを許してくれたらしい。
意識が朦朧としていた助けられた時のことを除けば、レイドリックまともに顔を合わせるのは、前回の舞踏会の夜以来だ。
話をすると決めたものの、一体どんな話を、どんな風に切り出せば良いのかと、らしくもなく少し緊張していたけれど、ローズマリーのその緊張も部屋に入って来たレイドリックの顔を見るなり驚きで吹き飛んでしまう。
「どうしたの、その顔…!」
彼の顔の、左頬のあたりに無惨な痣が浮かんでいたからだ。既に治りかけているし、手当はされているものの、それでも貼り付けた布の端から痛々しい紫色の痣が周囲の皮膚を黄色っぽく変化させている様が見える。
明らかに誰かに殴られたのだと判るその痣を、酷く罰が悪そうにレイドリックは己の手で隠しながら、
「……うん、いや、まあちょっと…」
と、歯切れ悪く答える…と言うよりは呟いて視線を泳がせる。そうした彼の様子に、何となく察するものがあった。
ローズマリーの頭に浮かんだのは、自分の兄の顔だ。
「……お兄様ね?」
ずばりと切り込む問いに、降参のポーズで両手を挙げて、彼がはあっと大きな溜め息を付く。
「それだけではないけどね。俺の父もデュオンとはとても良く気が合うらしい」
と言うことは、兄とエイベリー子爵の二人からそれぞれに拳を貰った、と言う訳だ。
道理で痛々しいはずだ、既に数日の時間が流れているはずなのに、未だに鮮明な痕を残しているところを見ると、何の手加減も容赦もせずに拳を振り下ろしたのだろう。
ローズマリーとの縁談のドタバタ話だけではなく、レイドリックに絡んだ怨恨問題でローズマリーまで巻き込まれ、あわやと言う状況になった挙げ句に、高熱を出して寝込み妹が傷だらけだと知ればあの兄が、どれ程逆上したか想像するのも恐ろしい。
エイベリー子爵にしてもそうだ。ローズマリーの父が亡くなってからは、名実共に彼が父代わりでもあった。最近ではその役目も兄に出しゃばらないようにと、幾分控えめになっていたが心の中ではきっと、変わらない気持ちを持ってくれているのだろう。
だからこそ自分の息子の不甲斐なさに、手が出たのだろうと思う。
同時にそんな風に怒ってくれるだけ、大切に思って貰えていると言う証でもあるけれども。喜んで良いのか、二人を窘めるべきなのか、それともレイドリックを哀れむべきなのかは少し判断が付かなかった。
「これでも大分マシにはなったんだよ。少なくとも腫れは引いたし」
「一体どれだけ腫れたのよ?」
「……とりあえず、君には見られたくないくらいには?」
どうやら、相当なものだったらしい。
それでもレイドリックであれば、避けようと思えば充分避けられたはずだ。それを律儀に受けたのは、彼なりにそうされても仕方がないと受け入れるだけの理由があったからなのだろう。
彼は、自分とのことも今度はきちんと言葉を交わす行為を受け入れてくれるだろうか。こうして面会が許可されるまで辛抱強く待っていてくれたのなら、その意志があるのだと思いたい。
「……レイドリック。私は、あなたともう一度きちんと話がしたいわ」
「うん。俺も約束通り全てを話すと約束するよ。でも話はきっと長くなってしまうだろうから、もう少しだけ君が元気になってから、ゆっくり話そう。俺はもう逃げないから」
先延ばしにするための言い逃れではなく、真実ローズマリーの身を案じての言葉だと判った。だからローズマリーも素直に頷くことが出来る。




