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第九章 君のいない世界は 6

 口付けながら抱き締め続ける腕の中で、溜め息のような吐息を漏らした後に彼女の身体の重みが僅かに増した。再び意識を失ったのだと気付いたが、今度は慌てることはせずに閉じた瞼にも唇を押し当ててから、顔を上げる。

 行儀よく見て見ぬ振りをして顔を背けている同行者の視線の先から、地を踏み鳴らすような騎馬の足音が聞こえて来ることに気付いたからだ。

「ローウェン、ローズを頼めるか?」

「判った」

 ローズマリーをローウェンに託して立ち上がる。しばらくもしないうちに雨の向こうから、五騎の騎馬が姿を見せた。その先頭にいる男の顔は、嫌と言う程に見覚えがある。

 社交界で顔を合わせる度に……いや、合わせていなくても、いつもいつも自分に絡み、声高に皮肉や当てこすりの言葉を口にしている男だ。これまでは陰口や悪口以外にこれと言った実害はなかったので放っておいたが、今度ばかりはそのつもりはない。

 一方ザンピエール伯爵の方はと言うと、こちらの存在を全く予期していなかったらしい。恐らく逃げ出したローズマリーの後を追ってきたのだろう。

 こちらがこうも早く動くとは思っていなかったのか、それとも自分の行動と計画は完璧だと思い込んでいたのか、どちらにしてもおめでたいことだ。

 その上たった一人の少女を連れ戻すためだけに、男が五人も後を追ってくるなど、仰々しいにも程がある。一体どんな手荒な連れ戻し方をしようとしていたのだろうか。

「こんばんは、ザンピエール卿。影でこそこそと、今夜は随分とお忙しそうでいらっしゃる」

「貴様…」

 何故ここに、と言葉にしない疑問が伝わって来るのを感じたが、あえて無視をした。いちいち律儀に相手の疑問に答える義理などない。

「俺の婚約者がお世話になったそうで。もっとも世話をしてくれと頼んだ覚えはありませんので、感謝をするつもりもありませんが」

 馬上での主人の困惑を察したのか、馬が二、三歩ほど後ろに下がる。

 ぐらりと揺れる馬上で顔を引きつらせている伯爵に、それはそれは特上の笑みで微笑みながら、腰に下げた剣を抜いた。

 今が昼間であれば、笑っていてもレイドリックの瞳が怒りで冷たく凍り付いていることが判ったかもしれないが、相手が気付こうと気付かなかろうとどうでも良いことだ。

 ザンピエール伯爵がはっきりと見て取ったのは、宵闇の中、レイドリックが抜きはなった刃にランプのオレンジ色の灯りが反射して、まるで血に染まっているような様だろう。

 明らかに相手の様子に狼狽が広がって行く。彼の悪行は数限りないが、恐らくこうしてまともに剣を向けられたことは、その悪行の数よりも遙かに少ないに違いない。

 今回の件だって自分達がこの場に駆けつけてこなければ、自分の思うがままに振る舞い、その上で伯爵という爵位が持つ権力を振りかざしてねじ伏せようとしていたはずだ。それが判ったからこそ、ローズマリーも必死で彼の元を逃げ出してきたのだろう。

 ザンピエール伯爵が傷付ける者が、自分一人であるならばレイドリックはいくらでも流していられた。彼が口にする悪口も嫌がらせも、いくらでも聞き流し、やり過ごす手段は身につけている。まともに相手にする方が馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。

 けれどその矛先が、自分の大切な人間にまで向くとなれば話は別だ。

 確かに爵位は相手の方が上だ。だが、ザンピエール伯爵は社交界でも政界でも、自分がどんな評価を下されているか知っているだろうか。権威に縋るしか取り柄のない、愚かな男が例えその地位を脅かされたとしても、救いの手を差し伸べる者など誰もいないと言うことを。

 今まではただ、面倒を嫌った為か、その張りぼての権威にすら歯が立たない身分の者達が泣き寝入りをするしか無かっただけだ。

「あなたにはそろそろ、これまでにも散々と掛けて頂いた迷惑に対するお礼を、今夜纏めてお返しさせて頂きましょう。一度、自分の行いがどれ程愚かなものであるか、身を持って知った方が良さそうですから」

 愚かな伯爵に、言質を取る発言をさせるのには全く苦労もしない。

「…っ……殺せ! 踏みつぶせ!」

 直後、伯爵の両脇から後ろに控えてきた男達が前に出る瞬間に、馬の一頭が激しいいななきを上げて暴れ始めた。咄嗟に両足を締め、手綱を引いて耐えようとした男だが、暴れる馬の勢いに負けて激しく落馬する。

 見れば馬の胸に深々とナイフが突き刺さっている。右手で握った剣とは逆の左手で、レイドリックが投げつけたナイフだ。

 男を振り落としてもなお苦痛で暴れる馬が、隣に立っていたザンピエール伯爵の馬に体当たりした。堪らず大きくよろけた馬から、今度はザンピエール伯爵本人が、悲鳴を上げる暇も無く転げ落ち、その身に纏う豪華な衣装を泥まみれにする。

 落馬した男が起き上がり、そんなザンピエール伯爵を庇うように剣を抜いて前に出て来るが、恐らく腕なり足なり、どこか身体の一部を痛めたのだろう。

 明らかに動きの悪い男を相手にレイドリックが手こずる要素など何一つ存在しない。力の限り振り下ろしてきた剣を受け、横になぎ払い、そして空いている胴に強かに拳を入れるだけで終わりだ。

 鳩尾を強く殴られて、男は喘ぐ暇も無く息を詰まらせてその身体を傾がせる。

 男が倒れる様を最後まで見届けることもしないまま、レイドリックの視線は苦痛の呻きを上げながら何とか、這い上がろうとしているザンピエール伯爵へと定められる。

 その間にも他の男達は次々とエリオスやケビンの手によって馬上から引き摺り落とされ、落ちて倒れたところを剣の腹や柄で殴られて、手際よく戦闘不能にさせられていた。

 それぞれが腕に多少の覚えがある男達のようだったが、正規の騎士としての訓練を受けた者達に比べれば、ごろつきと変わりない。

 まして厳しい訓練が嫌で、騎士叙勲を受ける前に逃げ出した過去を持つザンピエール伯爵には、非力な女性をねじ伏せる力はあっても、レイドリック一人すらまともに相手に出来る実力はない。

 這々の体で、やっとの思いで泥まみれの地面から立ち上がり、共の男達の安否を確認もせずに走って逃げ出そうとするザンピエール伯爵を逃すつもりは、もちろんレイドリックには無かった。

 身軽さにおいてはレイドリックは騎士団の中でもトップを競う。

 その素早さで接近したかと思うと、問答無用で一閃した剣の先は、驚いて振り返ったザンピエール伯爵の目前をひらめいた。

 傷を受けたわけではないが、目の前で横切った早い剣筋に驚いて伯爵の両足がバタバタと暴れるように後ろに逃げを打つ。

 それでも何とか腰に下げた剣を抜いたのは彼の意地と褒めるべきかも知れないが、すっかりと逃げ腰になっているようでは、剣は自分の身を守る武器ではなく、逆に我が身を傷付ける危険なおもちゃになりかねない。

 レイドリックがそれでも相手が剣を構え、身構えるまで待ったのは、相手に慈悲を与えたのではなく単なる礼儀だ。剣も手にせず、無防備のまま逃げる相手を追い詰めて切り倒したとなれば、それは騎士の名誉ではなく不名誉になるからだ。

「き、貴様、こんな真似をしてただで済むと思うなよ…!」

「へえ? 一体何をしてくれると言うのです? それはあなたの鼻をそぎ落とされてもする価値のある行為ですか?」

「ひっ……!」

「腕一本、足一本でも落とした方が懲りますか。それとも命を?」

 どちらにせよ今は、その構えた剣がただの飾りではないことを証明して貰いたい。

 咄嗟にザンピエール伯爵の視線が周囲を見回した。きっと自分を救ってくれる、供の男達の存在を探したのだろうか、その頼みの男達は既に地面に伏したまま動かない。代わりに立っているのは自分の敵となる者ばかりだ。

 恐らく伯爵は生まれて初めて、自分の命の危険を感じたのではないだろうか。たかが小娘一人を手籠めにする簡単な計画のはずだったのに、気がつけば我が身を滅ぼすような状況になっていることを嫌と言うほど悟らされて、一気に血の気が下がったに違いない。

 逃げることも、助けを求めることも出来ないと知って、次に出た行動は滅茶苦茶に手にした剣を振り回す行為だ。

 もちろんその剣先が、レイドリックまで届く事はない。二度三度と振り回してもその全てを簡単に弾かれて、逆に弾かれた衝撃が手首から肘まで響き、まともに剣を握っていられなくなってくるのはすぐだ。

 四度目で、ことさら強くレイドリックがザンピエール伯爵の剣を上へと跳ね上げる。その拍子に伯爵の手から剣がすっぽ抜け、伯爵がぎょっと宙で孤を描く剣の軌道を確かめている間にレイドリックの剣の腹がザンピエール伯爵の右側面を襲う。

 避けることも出来ずにまともに入った剣は、伯爵を両断することはなかったものの、そのまま鍛えることとはほど遠いほど緩んだ身体を横倒しに、再び泥の中に沈めた。

 間を置かずに、ぎゃ、と無様な悲鳴を上げて、もんどり打って倒れ込む伯爵の長すぎる外套の裾を踏みつけて、剣を鼻先一センチの距離で地面に突き立てた。

 憐れなザンピエール伯爵は、顔を上げることも、立ち上がることも出来ずにイモリのように地面に張り付く恰好になる。こちらがその気になれば、それこそ命を取ることさえ容易い状況の中で、顔を恐怖に引きつらせながらそれでも、ザンピエール伯爵の口は健在のようだ。

「わ、私を殺せば、身を滅ぼすのは貴様の方だぞ! 貴様だけじゃない、その家族も全員だ!」

「嫌だな、まだそんな世迷い言を言う元気があるんですね。叩けばいくらでも埃が出る身であることは、ご自身で承知しているでしょうに。あなたの見せかけだけの権威など、恐くありませんよ」

 それにだ。

「先程なんと言いましたっけ? 俺たちを殺せ、踏みつぶせでしたか。俺だけでなく他に誰がいたのかあなたは確認してもちろん叫んだんですよね?」

 レイドリックやケビン、ローウェンなどの伯爵より下位の身分の人間なら、何とか手を回してもみ消すことは出来たかも知れない。だがこの場にいるのは、彼らだけではない。

 無言のまま、伯爵の視界に入る位置に歩み寄って来たエリオスの姿を見たとき、それこそ悶絶するように表情を強張らせる。

「ブラックフォード公爵家嫡男、エリオス卿の殺害未遂はどれ程の罪が問われるでしょうね」

 ブラックフォード家は王族の血も引く、王侯貴族だ。現国王の妹姫を母に持つ彼は、現在の王族に万が一のことがあれば王座に座る可能性もある人物である。

 そんな身分の者に楯突けば、それこそ伯爵ごときの力ではどうにもならない。

 だが。

 レイドリックの瞳がすうっと細められる。どんなに鈍い者でも察しない訳には行かないほど、凍るように切れる殺意を向けられて、さすがにザンピエール伯爵もその呼吸さえ止めるように口を閉ざした。

 目前に突き立てた剣の鋼色の刃が、その存在を大きく主張するようにさらに深く、地面へと食い込んでいく。その剣の柄を握り締めながら、レイドリックは倒れたまま起き上がることの出来ないザンピエール伯爵を見つめて告げた。

「もし今後、ほんの僅かでもローズマリーの名誉を穢す言動をしたり、俺の身内に関わるような言動をして見ろ。公爵家の威光を借りずとも、俺が必ずお前を殺しに行く。どこへ逃げても、どんな謀略を企ててもだ。それを忘れるな」

「…っ……」

 直後無理矢理起こされた上半身の鳩尾に、容赦ない拳を入れられて、ザンピエール伯爵は潰れたカエルのような声を洩らして意識を飛ばした。

 いずれ程なく男達と共に意識を取り戻して、自分の屋敷に逃げ帰るだろう。

「捕らえなくて良いのか」

「構いません。どうせこれ以上何かをしでかす度胸もない小物ですから。それに捕らえれば、その理由が必要になる」

 その理由を追及される方がこちらには面倒なことになりかねない。まさか、自分の婚約者が浚われたために云々、などと言うことを馬鹿正直に言えばローズマリーの名誉を穢すだけである。

 下手に威張り散らす者ほど、内面は臆病だ。もちろんプライドを傷付けられて一度や二度はよからぬことを企てるかも知れないが、その度にこちらの顔を思い出しては結局怖じけ付いて、何も出来ないだろう。

 そもそもザンピエール伯爵が何かを口走ったところで、口走った内容に事実がなければまともに相手にする者もない。いたところで纏めて社交界で失笑を買うだけのことだ。

 下手に捕らえればその後始末の方が苦労する。

 いずれ彼のような男は、レイドリックが手を下さなくとも何か重大な失態を犯して、自ら身を滅ぼす未来がやってくるだろう。その時にこちらは、今回の礼とばかりに、失脚への道をお膳立てしてやれば良いことだ。

 そんなことよりも今は、とにかく早くローズマリーを安全な場所で休ませてやりたい。

 ローウェンから彼女の身を抱き取り、もう一度彼女の身に異変がないことを確かめる。

 身体の至る所に打撲の痕と擦り傷が見られたし、両手の平は何をどうしたのか擦れていたり、皮が捲れて痛々しい有様だったが、見た目には大きな傷はない。ただ、長く雨に濡れたせいで体が冷えてしまっている。

 一刻も早く着替えと暖かな場所が必要だ。ここから一番近いのはレイドリックの実家であるエイベリー子爵家の屋敷である。

 皆の手を借りて馬上に引き上げる間も、ぐったりとしたローズマリーに意識はない。自分に身をもたれかけさせながら、身じろぎ一つしない彼女の様子を見ていると、足元から忍び寄る恐怖と不安で心が強張りそうになる。

 それを辛うじて止めていられるのは、意識がないながらも彼女がしっかりと呼吸しているからだ。

 雨と泥で濡れた彼女の白を通り越して青ざめた頬を撫で、少しでも雨が当たらないよう懐に抱えながら手綱を握った。

 心なしか心配そうに頭を振る愛馬は、主人の指示どおり早足で走り出すのだった。

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