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第九章 君のいない世界は 4

 今が夜で、窓の外の高さがはっきりとは判らないことも、拍車を掛けた。これならば、身が竦むほどの恐怖を覚える前に身を投げ出せると……そうしたローズマリーの様子が、本当にそのまま窓の外に転がり落ちて行きそうに見えたらしい。

 さすがに自分の所有する屋敷の敷地内で死なれては困ると考えたのか、慌ててザンピエール伯爵は後ろに後ずさると、ことさら宥めるような猫なで声を出して来る。

「ま、まあ落ち着きなされ。あなたのことを、私は決して悪いようには…」

「出て行って下さい」

「ミス・ノーク、いやローズマリー……」

「出て行って!!」

 気安く私の名を呼ばないでと、そんな風に呼んでも良いのは私自身を愛してくれている人だけだと、そんな感情を込めて叫んだローズマリーの強い声に一瞬ザンピエール伯爵は顎を引き、それから今は話にならないと結論を出したのか。

「………判りました、少し時間を差し上げましょう。ですが、ミス・ノーク。意地を張らずに賢くお考え下さい、たかだか男爵家の娘にしか過ぎないあなたが、伯爵夫人になれ…」

 最後まで言葉を言わせなかった。咄嗟に手を伸ばし、ベッドの傍近くのサイドボードに置かれていた花瓶を取り上げると、力任せに男に向かって投げつける。

 生けられていた花と水をまき散らしながら、甲高い音を立てて男の足元で割れたその花瓶に、実際に自身の身に届いてはいないと言うのに狼狽えたようにバタバタと足をばたつかせると、逃げるようにザンピエール伯爵は部屋の扉に取りすがった。

 部屋から立ち去る直前、苛立たしげな睨みを向けられたように思うけれど、それが一体どうだというのか。睨むだけで相手にダメージを与えることが出来るのなら、こっちがそうしてやりたいくらいだ。

 ガチャガチャと、また逃げ出さないように外から鍵が掛けられた音がする。その音を耳にしながら、とうとうローズマリーはその場にずるずると座り込んだ。

 本当に、悪い夢を見ているようだ。今、自分が泣き出さずにいることが嘘のようだった。

 僅かの間、自分の身が置かれた状況を信じたくなくて、ぼんやりと座り込んでいたけれど、すぐに唇を噛み締めると顔を上げる。とにかく、この場にいてはいけないと思った。自分の不幸を嘆くことに力を使い果たすよりも、とにかく逃げ出さなければ。

 このまま夜が明ければ、例え何もなかったとしても男の屋敷で一晩を明かした、と言う事実が成立してしまう。そうなれば、世間はローズマリーの身の無垢を信じてはくれないだろう。

 例え兄やレイドリックが信じてくれたとしても、身の潔白の証明をしようがない状況では到底言い逃れは出来ない。あのザンピエール伯爵のことだ、潔白を証言するよりも、さも何かあったように言いふらすに決まっている。最初からそれが目的なのだから。

 そうなれば一度社交界に広まった評判は、一生ついて回る。その前に、逃げなければ。

 だけど、どうやって?

 部屋の扉は鍵が掛かっている。念のため開かないかどうかを確かめて見たが、やっぱりびくともしなかった。それに例え鍵が開いていたとしても、廊下から外に出るまでに誰の目にも触れずに逃げ出せるとは、さすがに思えない。途中で見つかれば、それこそ問答無用で押さえ込まれるだろう。

 だとするなら、やはり窓から外に逃げるしかない。

 部屋の扉近くの棚には、先程ザンピエール伯爵が持参してきたランプが、ぽつりと置き去りになっていた。ローズマリーに追い立てられるようにして部屋を出て行ったために、持って行くのを忘れたらしい。

 そのランプを手にして窓の外に翳してみる。雨と風が吹く中で、たった一つのランプではさほど周囲の様子が確認出来たわけではないけれど、灯りが無いよりはマシだ。

 少なくとも鬱蒼と茂る木々が目前に迫っていることからして、自分がいる部屋は建物の正面側ではなく裏手になるのだろうと言うことと、周辺に人がいる様子はなさそうだ、という程度のことは判った。

 恐らく高さのある部屋ならば、扉さえ施錠してしまえば非力な娘を一人閉じ込めることは容易いと考えたのだろう。確かに多くの令嬢はそうだろうが、逃げ出さなければならないと、必死になった人間がどんな行動を取るかまでは想像していないらしい。

 再び身体とランプを室内に戻し、ローズマリーがしたことはベッドに掛かっているシーツやベッドカバーを引き剥がすことだ。

 それらの大きな布を、先程伯爵の足元に叩き付けて割った花瓶の破片で傷を入れて、縦に引き裂いていく。簡単に引き裂くと言っても研磨されていない陶器の破片と、傷一つ無い上等なリネンに切れ目を入れることは、決して容易いことではない。

 布が裂けるよりも下手をすればローズマリーの手の肌の方が傷つくし、裂くにしても力がいる。未だ薬の影響が完全に抜けきらず、力を入れにくい女の細腕では相当な重労働だ。しかも、本当の重労働はこの後待っているのだ。

 でもそれを理由に地団駄を踏んでいるわけには行かなかった。またいつザンピエール伯爵が部屋に戻ってくるか判らないし、今度は先程のように追い返すことも出来ないだろう。

 部屋の外から人の足音が聞こえて来ないか、窓の外から人の声が聞こえてこないか、過剰なほどに神経を張り巡らせながら、切り裂いた布の端を結び合わせて即席のロープを作った。

 それを重たいベッドの支柱に片側をくくりつけて、残りを窓の外に出す。オーソドックスな手段だが、他に方法を考えている暇も、その方法も思い付かない今はとにかく行動に出るしかない。

 幾度かロープの強度を確かめる。今のこの両手で、自分の体重が支えられるかどうか不安だが、とにかく行くしかない。大人しくじっとしていれば、いずれ手籠めにされて人生が台無しだと思えば、がむしゃらな勇気も出て来る。

 元々ローズマリーは、ただなよなよと泣くだけのか弱い性格ではないのだ。

 ここ最近悩みの方が立て続けに目の前に降りて来て、気が沈むことが多く大人しくなりがちだっただけで、子供の頃は兄やレイドリックと少々やんちゃな遊びもしていたし、一般的な令嬢よりは活発な方である。

 とは言えど、もちろん窓の外に飛び出して、リベリングの真似事などは初めての経験だけれど。

 やはり、暗くて一番下まで見えないのが幸いだった。もしも見えていれば、どんなに勇気づけたとしても手足が震えて、こんな真似は出来なかったかも知れない。

 出来ればランプも持って行きたかったが、さすがに油をこぼさずに一緒に持って出る自信は無かったし、灯りはあれば便利だが逆に目立って人目に付くかも知れないと考え直して、部屋に残した。

 窓の外に垂らした白いロープは、風に煽られて右に左にとハタハタと揺れる。それを精一杯両手で掴み、慎重に窓の枠に足をかけて、少しずつ身を乗り出した。

 ドキドキと嫌な鼓動と汗が全身を周り、震えはひっきりなしに身体を襲う。油断するとそれだけで手が滑って、そのまま本当に外に落下してしまいそうだ。頭では簡単に想像してみても、実際にやってみると腕に掛かる負荷も想像を超える。

 両手でロープを握り、両足で壁を踏むことが出来ていたのは最初だけで、すぐに煽られた風で壁から両足が離れて、身体が左右に振り子のように揺れた。こうなるともう腕力だけで降りていくことなど不可能だ。

 どんなに固く手に握り締めていても、体重に耐えきれずずるずると握り締めた手の平から、滑らかな布のロープが逃げて摩擦と傷みが走る。

 途中途中で作った結び目が、その度に手に当たり、何とか一気にずり落ちるのを防いでくれるけれど、その分擦れて熱を持った手の平の肌をその結び目が抉っていく痛みにも、耐えなければならない。

 喉の奥から零れそうになる悲鳴を必死に噛み殺して、殆ど落ちるよりはまだマシと言う有様で地上に辿り着く。手の平からロープの端がすっぽ抜けていくのと、どんと腰が地面に落ちるのとはほぼ同時だった。

 打ち付けた腰も痛かったが、それ以上に痛いのは両手だ。普段手入れするばかりで手荒な真似をすることのない柔な肌は、いとも簡単にすり切れて傷を作る。両手が強張るように痛み、ぬるりとした感触が雨で濡れたせいなのか、それとも血なのかは判らないし、見たくなかった。

 もし視線を落とした自分の両手が雨ではない別のもので濡れていると知ったら、それだけで動けなくなってしまいそうだ。部屋から外に出ることが出来たとしても、まだ逃げ切れた訳ではない。

 今度はこの暗がりの中、見つからずに帰らなくてはならないのだ。

 両手の痛みと涙を必死に堪えて、ゆっくりと歩き出した。あまり良く見えない足元が不安定で恐ろしく、何度も躓いては転びそうになるのを踏みとどまって、とにかく厩舎を探す。ここが何処かも判らない状況では、歩いて逃げるよりも、馬が必要だ。

 とはいえローズマリーの馬術の経験など、以前何度かレイドリックの愛馬に彼の手を借りて乗せて貰って、口で少し教えて貰っただけの知識しかない。それでも、その知識だけを頼りに、馬に乗らなければ逃げられない。

 とにかく馬を手に入れて、ここから出来るだけ遠くに離れて、誰かに助けを求めなければ。それ以上のことを求めるのはさすがに無謀すぎる。今だって充分に無謀な真似をしているのだ…今は逃げることだけを考えなければならない。

 伯爵の持ち物であるだろうと言うことと、暗くても三階以上の高さがある建物ならば、それなりの大きさの屋敷だろう。こういった屋敷は大概、裏手に厩舎と馬を備えている。多分、ここからそれほど遠くはないはずだ。

 自分の屋敷の見取り図と重ね合わせ、恐らくこちらだろうと思う方へと歩いて行く。何度も風の音や、煽られて揺れる木々の葉の音、自分が蹴った石が転がっていく音にまで、いちいちびくつき、鼓動を跳ね上がらせながら歩き続けると、やがてそれらしき建物に辿り着いた。

 これまで、雨と風のせいと、建物の裏手側を歩いて来たこともあり、人の姿は見えなかった。けれど厩舎まで来ると、そうは行かない。

 正面の扉には小さな傘つきランプを壁に掛け、雨よけの少し張り出した屋根の下に馬屋番なのか、男が一人座っている。厩舎の裏手は無人だったが、裏口の扉にはしっかりと閂と蝶番で施錠されていて、ローズマリーには開けられそうにない。

 さてどうするか。もたもたとしている暇は無いのに、立ち止まってしまった今の現状に少なからず焦りを抱いた時、不意に男が立ち上がるとランプを手に歩き出した。外から誰かがやって来たらしい。

 深く外套をかぶった男が馬の手綱を引いてこちらへと歩いてくると、厩舎の男と何事かを話す。恐らく馬の手入れと世話を頼んだのだろう、預けた男はそのまま立ち去って行き、馬を任された男がやれやれとばかりに厩舎の入り口へと向かって扉を開けると、その中へと姿を消した。

 恐らく預かった馬を小屋に入れる場所と準備の確保に行ったのだろう。馬は外で鞍を付けたまま、大人しく手綱が引かれるのを待っている。

 直後、ローズマリーは精一杯の速度で走った。幸いにして鬱陶しい雨と風の音が、ローズマリーの足音を隠し、馬に辿り着いても中からまだ人が出て来る様子は見えない。

 雨に濡れて毛を黒光りさせる馬は、以前見知っていたレイドリックのヒンティとは違い、近付くとその身体の大きさと雰囲気で怯えを抱いたが、躊躇ったのは一瞬だけで、すぐに手綱を掴むと鐙に足をかけ、力いっぱい自分の身体を馬上へと押し上げた。

 殆ど縋り付くような恰好で焦りのあまり勢いよく飛び上がったお陰か、何とかその背に跨ることが出来た物の、突然飛びつかれ、手綱を握る人間の慣れない様子に馬が驚いたのか、小さないななきを上げる。

 タイミングが悪いことに、厩舎から男が戻ってきたのも、その時だった。

 雨の中、男がこちらを指差して何かを叫んだ声と姿が、彼の持つランプの明かりで見えた。けれども彼が何を言ったのかを確認するよりも、力いっぱい馬の腹を蹴る方が早い。

 突然乱暴に腹に蹴りを入れられて、再び驚いたのか、あるいは怒ったのか、急に後ろ立ちするように伸び上がると一気に走り出す。

 馬を操るどころでははなかった。振り落とされないよう、手の痛みも忘れて必死に手綱と馬のたてがみを握る。暴れるように走り出した馬は、真っ直ぐにこれまでやって来た道を逆に辿って、真っ暗な木々の間を一気に駆け抜けて行った。

 恐らく男はすぐに、伯爵の元へ自分が逃げ出した報告をするだろう。彼らが準備を整えて追って来る間に、出来るだけ遠くへ逃げなければならない。けれど、今自分がどこへ向かっているのかも判らず、振り落とされないようにしがみつくことだけで精一杯だ。

 悲鳴を上げている暇も、恐怖に震えている暇も無かった。

 空から降り続く雨が、馬上で露わになっているローズマリーの全身を、これまで以上にぐっしょりと濡らしていく。

 水分を含んで重たくなっていく髪やドレスも大きな負担だったが、それ以上に両手の尋常ではない痛みと、あちこちから水滴が滴り落ちるほど濡れたせいで、体温と共に奪われていく体力の方が問題だった。

 それでなくても窓から地上へと降りたり、足元もろくに見えない暗がりの中を歩いたり、馬を奪ったり。馬に乗ったら乗ったで、上下左右に揺さぶられる震動と、速度でどんなに必死にしがみつこうとしても、身体の無理が利かなくなってくる。

 そもそも、まだ浚われたときの薬の影響も抜けきっていない状態での無理による限界は、散々張り詰めていた糸がプツリと切れるように、突然訪れた。

 どれくらい走った後だろうか。あっと思った時にはもう遅く、ちょっとした段差を乗り越えた瞬間にバランスを崩したローズマリーの身体が傾いだ。咄嗟に立て直そうとしても、両手に力が入らない。

 ぐらりと傾いた身体は見る間に馬上から振り落とされ、直後には全身に息も止まりそうになる程の強い衝撃が訪れて、ごろごろと身体が地上を転がって行く。自分の身体がバラバラになったのかと思う程の痛みと衝撃の後に止まった身体からは、もう感覚らしい感覚など感じられなかった。

 そのまま、ふっと気が遠くなる。上手く呼吸が出来ない。

 意識を失う間際、ひょっとして自分は死ぬのかなと、酷く冷静に考えている自分がいた。もしそうだったら、最後にもう一度あの人に会いたい。そしてもう一度、ちゃんと自分の気持ちを伝えたかった。

 本当に自分は馬鹿だ。どうして自分はこうなのだろう、もっと上手にできる手段があったかもしれないのに、ただ真っ直ぐにぶつかっていくことしか出来ないなんて。

 自分がもう少し大人だったら。もう少し、色々な経験があったら。そうしたら、結果はもっと違うものになっていただろうか?

 話を聞くと、約束したのに。大人しく、彼からの連絡を待つと約束したのに、なのにどうして………

 こめかみを伝っていく流れが、雨なのか自分の涙なのかも判らない。

 濡れて泥だらけになった草を絨毯にして、華奢な身体を放り出したまま意識を無くしたローズマリーを、ただ雨が無情に叩き続けていた。

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