第九章 君のいない世界は 3
強引に沈められていた意識が、ふっと浮上してくるまでにどれ程の時間が掛かったのだろうか。眠りについた過程も最悪なら、目覚めもまた最悪だった。
やけに重たい瞼をやっとの思いで開いた直後は、自分が今どこにいるのかも、何をしていたのかも全く判らなかった。少しずつ意識が覚醒し始めても、やっぱり自分が今どこにいるのかは判らない。
目に映る光景は自分の知らない物ばかりで、何一つ見知ったものがない。男爵家の自分の部屋でもなければ、ハッシュラーザ家の客室でもない……もちろん、エイベリー子爵家とも違う。
既に外は真っ暗で、灯り一つ無い部屋の中では周囲の様子を念入りに確かめることも出来なかった。身体を動かそうとすれば鉛のように重たくて、腕どころか指一本動かそうとするだけで、ひどい倦怠感を覚える。
指を握ったり開いたりを何度か繰り返すことで、どうにか鈍った感覚が戻り始めたが、それでも足を動かせばよろめくし、頭を上げようとすれば酷い頭痛がする。
少し身体を動かすだけでも億劫な中、それでもローズマリーが身体を引き摺るようにして、ベッドから起き上がったのは、無理にでも動かなければ我が身が危ないと、無意識のうちに察していたからかもしれない。
やっとの思いで立ち上がって、部屋に唯一の窓に縋る。
すっかりと陽が落ちた闇に包まれた外の景色は、真っ暗な幕に飲み込まれたように周囲の様子がはっきりと見えない物の、自分の知っている場所では無いと言うことだけは判る。
見知らぬ部屋、見知らぬ風景。そして強引に奪われた意識と、意識を失う直前の記憶に、思う様に動かない身体。そのどれをとっても、自分が今尋常ではない状況に立たされていることを自覚させるには充分だ。
やっとレイドリックから話が聞けると、期待と恐れを抱きながら向かった自然公園の東屋で、彼の姿を待つローズマリーの元に現れたのは、それこそ見知らぬ男達だった。全てで三人。
無言でローズマリーの元へ近付いて来たと思ったら、こちらが身を躱す暇も与えずにまず口を塞ぎ、腕を捉え、そして身体の自由を拘束された。咄嗟に何をするのかと、男が口に押さえ付けてきた布の下で、声を上げようとしたのが不味かったのかも知れない。
思い切り呼吸を吸い込んだ拍子に、その布から何かひどく胸が悪くなるような刺激のある匂いがして、一気に頭を駆け巡り全身に回った。そうすると、もう自力では立っていることも出来なくなった。
ローズマリーからがっくりと力が抜け落ちると、男達は手際よく自分の身体を担ぎ上げ、乱暴に振り回された頭に酷い頭痛と目眩に気が遠くなった……それから先の記憶がない。
状況からして人浚いに遭ったのは間違いないだろう。レイドリックからと思った手紙も、多分自分をおびき寄せる為の餌だったに違いない。そこまでは判る。
けれど判らないのは、何故そうまでして自分が浚われなくてはならないのか、だ。ローズマリー自身には全く心当たりがないし、身代金目当てというのとも少し違う気がする。
普通に考えて、レイドリックの名が餌に使われたということは、恐らく彼の方の問題に巻き込まれたのではないだろうか。
だとしても、こんな手荒な真似をする理由が判らない。自分を浚って、一体何がしたいというのだろうか。
どちらにしても大人しく、ぐったりとしていられる場合ではないことだけは確かだ。気分は悪いし、訳が判らなくて頭は混乱しているし、理解出来ない状況と見知らぬ場所、そしてこれから自分はどうなるのかと思う不安と恐怖で叫び出したくなるけれど、とにかく今の自分の立場を確認しなければと、震える手でやっとの思いで目の前の窓を開けた。
とたん、びゅうと外から吹き込んで来る生暖かな強い風と、いつの間にか降り出していた雨、そしてその雨の匂いが室内に入り込んでくる。
窓から身を乗り出せば、暗がりではっきりとは見えなかった物の、自分がいる部屋が高い場所にあることに気がついた。恐らく建物の三階以上であることは間違いなさそうだ。この窓から外に出るのと、部屋の扉から外に出るのとでは、一体どちらが安全だろう。
いや、それ以前に部屋の扉に鍵が掛かっているかどうかを確かめていなかったと、重たい身体を引き摺るように身体を反転させて、扉に向かって歩き出そうとした時だ。
部屋の中程まで進んだところで、その目的地であった扉の向こうから、ガチャガチャと金属的な音が響く。直後ガチャリと耳に届いた音から、この部屋にはやはり鍵が掛かっていたことと、内側からは鍵らしき物が見当たらないことから外鍵であることを悟る。
部屋と言う物は、その中で過ごす人間のプライベートを守る為と、生活をしやすくするために存在するものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
この部屋は誰かを閉じ込めたり、外側から管理したりすることを目的としているように感じられて、否応なく嫌悪感が走る。
無意識のうちに身体を後ろに下げた時、開いた扉の向こうからは眩しいランプの明かりと、その明かりに照らされた一人の中年の男が現れた。
再び窓際まで下がったローズマリーの姿を目にして、直前まで厳めしい表情をしていた男がとたんに、満面に笑みを浮かべて寄越す。
「おお、これはもうお目覚めでしたか」
一見親しげに笑う男だが、その笑顔がまるで全身にまとわりつくような粘着質な印象と、いかにも大仰な仕草がローズマリーに好意を抱かせることはない。大体人をあんな強引な手段で浚っておいて、平然と現れる人間がまともな頭を持つ者だとも思えなかった。
どんなに笑顔を向けられても強張った表情を崩さないローズマリーの様子に、男は少しばかり残念そうに首を横に振ると、近くの棚にランプを置いて、こちらまで歩み寄ってこようとする。悲鳴のような声を押し出したのはその瞬間だった。
「近付かないで!」
背を開け放った窓の縁に押し当てて、真正面からローズマリーは相手を睨んだ。窓辺についた両手は勿論のこと、両足も、全身もガタガタと震え始めるのを必死に堪える。
「それ以上近付けば、ここから身を投げます」
始め男はローズマリーの言葉など、ただの虚勢だと再び足を前に踏み出そうとした。とたんにローズマリーが自分の背をぐっと窓の外に傾がせる。
腰の高さ程までしかないその窓は、あと少し身を乗り出せば、ローズマリー程度の娘の身ならば簡単に、外に転げ落とせるだろう。
「私がここで死ねば、兄やレイドリックはもちろん、ハッシュラーザ侯爵家、引いてはブラックフォード公爵家も動くでしょう。あなたにその覚悟はあるのですか」
ノーク男爵家やエイベリー子爵家などは大した脅威にならないと男が考えたとしても、ハッシュラーザは国でも名門の上級貴族であるし、ブラックフォードは王侯貴族だ。どんな人間であっても敵に回したくはない相手のはずである。
正直なところ、実際ローズマリーが命を落とすようなことになったとしても、エリザベスはともかくその父のハッシュラーザ侯爵や、幼馴染みのエリオスやその父親が動くかどうかは判らない。と言うよりも、可能性は低いだろうと思わせる。
だがこの場においてはそうした上位貴族の威を借りなければ、間違いなく自分の身が危ういと思わせた。
入って来た時には判らなかったが、男の顔をじっと見つめている内に、その顔に見覚えがあることに気がついたからだ。幾度かレイドリックと共に訪れた夜会や舞踏会で見かけた顔だ……その都度こちらを、否レイドリックを不快げに睨み付けていた男である。
少し前の舞踏会の時もそうだ。庭で一人でいたローズマリーに対して彼は、怖気が走るほど執拗な目で見つめて来ていた。もしかしたらあの時には、もうこんな卑劣な真似を考えついていたのだろうか。
普段は一度や二度顔を合わせた程度では、なかなか人の顔と名を一致させることは難しいが、あれだけ執拗な視線を向けられていれば、嫌でも記憶に残る。
名は一度だけレイドリックから聞いたことがある。確か……
「……あなたは、ザンピエール伯爵様ですね?」
思い出そうとすると、頭がずきりと酷く痛んだ。その痛みを堪えながら尋ねれば、男は一瞬驚いたように目を丸くして、それからまた例のまとわりつくような笑みを浮かべて、頷いて寄越す。
「私をご存じでしたか」
「……そのザンピエール伯爵様が、私に一体何の御用でしょうか。こんな手荒なご招待を受ける程、親しいお付き合いはなかったはずですが」
「これは失礼をお許し下さい、ミス・ノーク。確かにこれまでは特別なお付き合いはございませんでしたね。ですが私とあなたは、これから親しくなって行くのですよ」
「……どういうことでしょうか」
意味が判らない。いや、本当はじわりじわりと足元から迫り寄るような嫌な予感はしている。
多分きっとこの男は、碌なことは言わないだろうと。その言葉がローズマリーを不愉快どころか、更なる恐怖に叩き込む物だと判っていても、彼の口を黙らせる手段が今は存在しない。
沈黙するローズマリーに男は続けて言う。胸が悪くなるほど、最悪としか言いようのない台詞を。
「明日の朝、ノーク男爵の元に新書を送ります。妹君のローズマリー嬢を、私の妻に頂きたいと」
ぐっとせり上がってくる吐き気と目眩を堪えるのに、相当の努力が必要だった。
一体何を言っているのだろう、この人は。何処か頭がおかしいとしか思えない。そんな馬鹿な申し出が通ると、本気で思っているのだろうか。
「………兄が承諾するとは思えませんわ」
一般的に伯爵から、男爵家の娘への求婚は名誉なことではある。家の利益だけを考えるならばそれこそ、これ以上はない良縁だと躍り上がるくらいだ。むしろ娘がどう言おうとも、是非と差し出す家は少なくないに違いない。
しかしそれはあくまで利益だけを見た場合だ。そしてその伯爵が信用するに足りる人間であることが前提となる。
このザンピエール伯爵が信用出来る男かと言われると、ローズマリーは絶対に頷けないし、何より自分の幸せを願う兄が、例え相手が伯爵だろうとこのような真似をする男に妹を嫁がせるとは到底思えない。
が。ザンピエール伯爵はまた笑った。今度は粘着質な中に、生理的嫌悪を抱かせるいやらしさを含めて。
「承諾せざるを得ませんよ。一晩私の屋敷で過ごし、その純潔を散らされた後では、他にどこにもやれないでしょうからね」
と。
さあっと頭から血の気が引く思いがした。とても現実に起こっていることとは思えない、悪い夢としか言いようがない出来事をこの男は、実行しようとしているらしい。
そんな卑劣な真似をする男がこの世に存在することを、今の今までローズマリーは知ってはいても実感したことはなかった。
以前エリザベスが、女性を傷付けても良心の呵責を覚えない男は多くいる、と言っていたが、どうやら今目の前にいるこの男がそう言った、最低な部類の男のようだ。
何の為にそんなことを、と咄嗟に尋ね返しそうになって、寸前で口を閉ざす。聞かずとも何となく理解出来たからだ。
多分この男はレイドリックを傷付ける為だけに、こんな馬鹿げたことをしようとしているのだ。一時期広まった噂はどうであれ、婚約者として名が上がっているローズマリーが、横から強引に奪われたと知れば、確かにレイドリックは傷つく。
例え自分に向けてくれている好意が幼馴染み以上のものでなかったとしても、自分に関わったせいで望まぬ男に無理に奪われたとなれば、彼の罪悪感は苦しみの頂点に到達するのではないだろうか。
決してローズマリーは自分を過大評価しているつもりはないけれど、レイドリックがそれほど傷つくくらいには自分が大切にされている現実を自覚している。
傷つくのはレイドリックだけではない、兄も、エリザベスも、そして自分自身も、だ。
がくりと両手両足から力が抜けそうになった。全身を襲う震えは否応にも増し、その場に崩れ落ちそうになるところを辛うじて、窓辺に取りすがることで支える。
「随分と、ご気分が悪そうですな」
身体的にも、精神的にもそうなる原因を作った当人のくせに、ぬけぬけと言い放って一気に近付いて来ようとする男から逃れる為に、窓に無理矢理腰掛けた。
「近付かないで!」
こんなところでなし崩し的に無理矢理奪われるくらいなら、それこそ身を投げた方が遙かにマシだ。もしもここで穢されて、伯爵夫人になったとしても自分の未来に幸せなど一欠片も見出せない。
兄にも母にも、そしてレイドリックにも会えなくなる。
社交界では恥知らずな娘だの、可哀想な娘だのと蔑み哀れまれ、夫に一片の愛情を向けることも出来ずに人生を黒く塗りつぶされるだろう。それにザンピエール伯爵がいつまでも自分を伯爵夫人の立場においておくとも思えない。
レイドリックを傷付ける為だけに自分を妻とするならば、その目的を存分に果たした後は何の未練もなくあっさりと、古くなった衣服を脱ぎ捨てるように捨てるに決まっている。その時に自由の身になったとしても、何もかもが遅すぎる。
絶望の果てに死ぬしかない人生を歩むくらいなら、自分の誇りと身を守って今散った方が良いように、本気で思えた。




