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第八章 秘めたる想い 3

 少しの間を置いてローズマリーがホールに戻った時には、レイドリックは既に会場から辞してしまったのか、姿はもう見えなかった。

 本来なら先に帰ることなどせず、ローズマリーを屋敷まで送ってくれるところだろうが、今夜は自分はルイーザと共に会場へ来ている。

 だからだろうと判っていても、置いて行かれることは少しだけ寂しい。けれど多分、今の自分達がそう長いこと一緒にいても気詰まりになるだけだ。

 ルイーザは、先程自分達を見送ったときの悲しげな様子を微塵も見せずに、相変わらず積極的に他の貴族達と言葉を交わしている。あの様子では、まだ暫くは掛かるだろうと、一人ホールから庭へと降りた。さすがに彼らの中に混ざるような気分には、今はなれない。

 辿ったのは以前の王宮での舞踏会の夜と同じような道筋だ。

 違うのは、今夜は庭園のベンチにもちらほらと人の姿が見えることだろうか。そのベンチのすぐ近くに建てられている、女神像はこの国に伝わる伝説の中の、女神の一人だ。

 右腕には幼子を抱き、左手には乙女を意味する百合の花を握っている。いつでも無垢な乙女のように貞淑な妻であり、慈愛深い母であることを象徴するその姿は、多くの娘達が母親に手本にすべき存在として名を上げられる。

 美しく優しく、愛情深いだけではなく、実は少しだけ嫉妬深い女性の守り神。

 その女神像の台座に手を掛けて身を寄せて、見上げた夜空に浮かぶ月は細く弓を描いている。これから徐々にその形を太くして、やがて満月になるだろう。

 その月を見つめながら、静かに深い息を付いた。これまでに、泣くだけ泣いたし、自分なりに気持ちも落ち着けて、今すべき目的も定まっているのだから、きっと大丈夫だと思いたかったけれどやはり彼の姿を見ると心が激しく波立った。

 あんな風に抱き締められれば尚更だ。

 レイドリックの前では必死に涙を零すことだけは堪えたけれど、今、気持ちが少しだけ緩んだとたんに再び潤んだ視界はみるみる歪んで、何も見えなくなりそうだ。俯くと涙がこぼれ落ちて止まらなくなりそうだったから、必死に空を見上げ続けた。何度も瞬きを繰り返して、涙の雫を散らす。

 恋をすると、時々訳もなく涙が出ると聞いたことがあった。それは物語の中のヒロインであったり、昨年一足先に結婚していった友人からの話であったけれど、聞いた時には本当だろうかと疑問に思ったことを思い出す。

 それくらい、あの頃の自分には縁遠い感情だったのだ。けれど今の自分はどうだろう。

 ただ恋をしただけで、ただ人を愛しただけで心は水面に浮かぶ木の葉のように、様々に揺り動かされて自分でもどうすることも出来ない。まるで自分と言う人間が、違う人間にでもすり替わってしまったかのような感覚だ。

 出来るだけ理性的であろうと努力しているけれど、それでも時々どうにもならない波のように、言葉では説明出来ない感情が押し寄せて、天国にいるような気分にも、地獄にいるような気分にもさせられる。

 人の心のもっとも純粋で柔らかな部分で育む感情だから、ちょっとしたことでもとても傷つきやすくて壊れやすい。

 レイドリックも昔、そんな風に恋をしていたのだろうか。そして今彼は、どんな気持ちを抱いているのだろう。

 そのまま空を見上げてどれ程の時間が過ぎた頃か。

「…ミス・ノーク」

 声を掛けられ、振り返った先に立っている人物の姿を認めた時、思わず自分の顔を隠してしまった。すぐに目元を擦って表情を改めて見たものの、不自然な仕草は既に相手に伝わってしまっているだろう。

 その証拠に声を掛けて来た人物……ボリスが、ほんの少し怪訝そうに眉を寄せている。無理もない、彼にしてみればただ、声を掛けただけで特別何かをしたわけではないのだから。

 けれど彼も、すぐに事情を察してくれたようだ。灯りはあっても夜の月の下では、ローズマリーの目が赤くなっていることなど彼には判らないだろうに、ふっと口元に苦笑混じりの笑みを浮かべてくる。

 何かを心得ているようなその表情に、どうやら事情を知られているらしいと察して今度はじわりと頬に熱が広がる感覚を覚えた。

「……恥ずかしいわ、さっきのレイドリックとの様子をご覧になられたのでしょう? ボリス様には先日から、情けないところばかりお見せしてしまっていますね」

 ローズマリーの指摘を否定することなく、先程のレイドリックとのやりとりも、今の自分の物憂げな様子も全て見ていましたと言外に肯定するように、彼は微笑み続ける。

 そのままローズマリーの傍らまで歩み寄って来た。

「レイドリックはあなたのこととなると、ひどく不器用になりますね」

「…そうでしょうか」

「ええ。普段の彼ならばもっと上手くやります。あなたの前でこのようなことを言うのは、適切では無いかも知れませんが」

 確かに例え婚約破棄していると噂されていても、元が付こうとも婚約者であったローズマリーに対して、他の女性にならもっと上手くやる、などと告げる言葉は相応しくはない。けれどそうした言い分も彼らの親しさを思えば許容範囲の発言になる。

「いえ、良いんです。本当のことなのでしょうから」

「でも不器用になると言うことは、それだけレイドリックがあなたを大切に思っている証拠でもあると思いますよ。どうでも良いと思えばいくらでも適当なことが言えても、そうでなければどうしても、言葉を選びます」

 そうだろうか。……そうであると、今は信じたい。

「お気遣い頂きありがとうございます、でも私は、大丈夫ですから」

「余計なことを、申し訳ありません」

「いいえ。こちらこそご心配をおかけして申し訳ありません。……ボリス様は、お優しいですね」

 気遣ってくれた感謝にと、ぎこちないながらも精一杯笑顔を作って返す。

 そのローズマリーの笑顔にボリスは一瞬だけ、何か眩しいものでも見たかのように瞳を細めた。同時に彼の仕草がどこか罰の悪そうなものに見えたのは、ローズマリーの気のせいだろうか。でもそんな印象も、すぐに心の中から消えてしまう。

 話すと約束してくれたレイドリックの言葉で抱いた希望を、大切にしたい。今のローズマリーにとっては、宝物のような約束だから。

 そのままボリスと話し続けるような話題もなく、ローズマリーは失礼にならない程度に礼儀を保ち、会釈をしながら彼の傍から離れて再び会場へと戻ろうと背を向けた。その背に掛かったのは、再びボリスの声だ。

 低く、呟くように彼は言った。

「…レイドリックは、あなたが大切ですよ。間違いなく」

 ローズマリーは一体、この時何と答えれば良かっただろう。頷けば良かったのか、それとも首を横に振れば良かったのか…どちらも出来なくて、戸惑うように振り返れば、ボリスはまたにっこりと微笑んで、それきり彼の方から離れて行った。

 残されたローズマリーは、その場に立ち尽くしながら去って行く彼の背を見送る。

 彼は、見習いから従騎士時代までをレイドリックと共に過ごしたと言っていた。その期間はローズマリーとレイドリックが幼い時を過ごした、彼が見習いとして実家を離れるまでの六年間より長い。

 その長い共に過ごした時間で、ボリスはレイドリックとどんな言葉を交わし、どんな顔を見て来たのだろう。その中にはローズマリーの知らない顔もあっただろうか。

 いくら考えても答えを得ることの出来ない問いを、心の中で繰り返す。そうすることで少しでも、空いてしまった様々な隙間を埋めようとでもするかのように、何度も何度も。

 自分の知らない、レイドリックの時間。それを知っている彼に、誤魔化しようのない嫉妬を抱く自分の愚かしさに、軽く自己嫌悪した。

 溜め息を付いて、自分もまた戻る為に止まってしまった足を動かそうとした時、不意に背中に突き刺さるような視線を感じたような気がして、ハッと振り返る。

 とたん、自分の感じた視線がただの気のせいではなかったことを証明するかのように、また別の人物と真正面から目が合った。

 友人ではない。かといって知人でもない。

 けれど相手が誰だか判るのは、以前に一度見かけ、そして強く記憶に残っていた為だ。決して良い記憶ではなかった。

 いつかのパーティでレイドリックと自分を、まるで憎悪するように見つめていた貴族の一人…ザンピエール伯爵だったからだ。

 あの時レイドリックは自分に、彼を相手にするなと、茶化すようにそう言っていた。でもその声音が意外と本気だったことを、ローズマリーは知っている。

 その時の言葉を思い出して、失礼にならない程度に頭を下げて慌てて彼の前から逃げるように身を翻したけれど、視線はいつまでもいつまでも後ろから絡みつくように追いかけて来る気がした。

 会場に戻って、再び多くの人々の中に紛れて……ようやく振り切れた時に初めて、自分の肌という肌が総毛立つように泡立っていることに気付いた。

 特別何かをされたわけではない、ただ視線を向けられていただけだ。恐れることなどないと自分の心を落ち着かせるように、何度も言い聞かせても、どうしてか背筋を這うような怖気はなかなか消えてくれずに、ローズマリーの肌をより一層白く青ざめさせるのだった。




 もう間もなく社交シーズンが終わる。

 四月から八月末までと定められている社交シーズンが終わると、夏の名残がまだ残る内に貴族達の姿が、一人二人と王都から各領地へと戻って行く時期だ。

 秋から冬、そして春にかけての期間は多くの領地を持つ貴族達にとっては収穫の時期でもあり、決算の時期でもあり、そして次のシーズンまでの準備期間でもある。

 その間は出来るだけ多くの者達と交流を持つことが良しとされている貴族達の社交の中でも、特に親しい人々との交流に限られ、毎週のように夜会だパーティだと華やかな舞台を繰り広げることもない。

 世話になっているハッシュラーザ家でも、家長である侯爵本人は引き続き政務のために王都に残るものの、妻や娘、子供達の領地への移動準備の為に屋敷の至る所で、使用人達が忙しく動き回る姿が目立ち始めた。

 恐らくローズマリーの、ノーク男爵家でも同じような光景が繰り広げられているだろう。

 その男爵家の兄からは、数日に一度の割合で短い手紙が届く。

 殆どはローズマリーの様子を案じる文面だが、中には折角そちらで世話になっているのならば、もう少し淑女らしい身の振る舞い方を教わってこいと言う兄らしい少し意地悪な内容や、社交界で耳にしたのだろう、ルイーザと行動を共にしていることを問う内容も含まれる。

 でもその中に、レイドリックの名が記されることはただの一度もない。

 兄なりに気を使ってくれているのか、それとももうローズマリーに語って聞かせる名ではないと考えているのか…恐らく前者だろうとは思うのだが、あの兄の場合はこちらが驚く程きっぱりとした割り切りの良さを持っているので、後者の可能性もある。

 どちらにせよ兄が出さない名をローズマリーもあえて出す必要がなかったので、兄妹のやりとりの中から自然と、彼の名は消えていた。

 かと言って、記憶の中から全て消えてしまったというわけでは、もちろんない。むしろローズマリーの頭の中からは、毎日、一時でも消えることがないほど彼の存在は、深く心に根付いている。

 彼と交わした約束の言葉も。

 兄の手紙と時間を同じくしてルイーザから届いた手紙には、社交界に広がっていたレイドリックの噂話は、今はもう随分と下火になりつつあるとのことだ。同じ話は、エリザベスからも耳にしていた。

 広まる時にも火が燃え広がる程凄まじい勢いだったけれど、ルイーザとローズマリーの言動によって投げかけられた疑問が人々の間に広がるのも早かったらしい。

 もちろん未だにあれこれという者もしつこく残ってはいるけれど、むしろ今では多くの人が噂の悪質さに目を向けて、誰があんな噂を流したのかと問う声が上がっていると言う。恐らくその当人は今頃、内心穏やかではないだろうと、手紙の最後で彼女の優美な文字が締めくくっていた。

 とりあえず、今回の騒動は落ち着きつつあると考えても良さそうだ。とは言え、犯人の確定が出来る程の証拠も材料も存在しないことが気がかりではある。放っておけばまた、同じことが繰り返されるかも知れない。

 禍根は根元から断つのが基本だ。

 けれど…ローズマリーの頭の中に、レイドリックから受けた制止の言葉が蘇る。彼は言った、これ以上刺激するのは止せと。その言葉はもちろんローズマリーを、今回のことから手を引かせるための物だが、彼の言葉がただの過剰な脅かしとは思えない。

 追い詰められた人間が思わぬ行動を取らないとも限らない。その思わぬ行動というものがどう言ったものなのかは、ローズマリーには想像しきれないものの、彼が危険だと言った言葉が心の中で警鐘を鳴らす。

 だからという訳ではないが、ローズマリーもまたこれ以上の行動は良くないのではないかと感じている。ルイーザには、レイドリックからの制止を受けて間もなく、危険性を伝えては見た。

 レイドリックの名は伏せて、犯人の行動に制限を付けることは重要だが、あまりにも急激に追い立てるような真似は逆に危険ではないかと。

 けれど彼女自身は追求の手を緩めるつもりはないらしく、その他の知り合いの貴族達をもそれとなく煽りながら、今後も犯人を追い詰めていくつもりのようだ。

 恐らくルイーザも必死なのだろう。彼女なりに責任を感じていると言うのはきっと、嘘ではない。だからこその行動だと言うことは判る。

 彼女の考えに頷いたときにはローズマリーもとことんまで犯人を追い詰めなければと思っていたけれど、それはレイドリックが動いていないのなら、という前提にあった行為だ。彼自身が自ら、何らかの考えを持って行動していると知った今は、自分達の行動が逆に彼の邪魔になる可能性もある。

 ルイーザには、今後も繰り返しやり過ぎないよう注意を促し続けるしかない。

 とにかくも、一度落ち着きを見せ始めたのなら、自分もそろそろ一段落付けるべき時期だ。ハッシュラーザ家に世話になって既に一ヶ月近く、友人の家に滞在するにしては少々長すぎる期間だ。

 侯爵家の人々はエリザベスはもちろん、その母も弟達もローズマリーの滞在を歓迎して、迷惑がる素振りなど一切見せないけれど、だからこそ彼らの厚意に甘えていることが余計に申し訳なく思う。

 明日にはエリザベスにきちんと話して、お礼を言って、兄に屋敷に戻るからと迎えに来て貰おう。

 本音を言えば、エリザベスの薦めどおりに彼女の領地にも同行して、新しい物に触れると言う言葉にはとても心を動かされたけれど……今のローズマリーには、多分それは逃げにしかならないと、誰より自分自身で良く判っている。  

 それに今は、レイドリックとの約束が果たされる時を信じて待ちたい。

 そんな風に心を決めた、ローズマリーの元に一通の手紙が届いたのは、その日の午後、お茶の時間をとうに過ぎた頃だった。

 丁度その時はエリザベスも侯爵夫人も屋敷から外出しており、ローズマリーの元へ手紙を届けてくれたのは侯爵家執事だ。銀のトレイに乗せて差し出された手紙を受け取って、さっと顔色を変えたローズマリーの様子を、長く侯爵家に勤める執事の静かな瞳が見つめていた。

 封筒の裏には、これまで何度花束を侯爵家に届けさせても、一度も名乗らなかったレイドリックの名が記されていたからだ。

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