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第八章 秘めたる想い 2

 低く、身を寄せ合う二人にだけしか聞こえない囁きで彼は言った。

「ボローワ伯爵夫人と君は、何をしようとしているの」

「…何も。ルイーザ様とはただお会いする機会があって、お友達になっただけよ」

「ローズ。俺が君の嘘に、気付かないと本気で思っているわけじゃないだろう。それでも君はまだ、俺に嘘をつこうとするの?」

 彼の腕が、ローズマリーの腰を支える手に力を込める。有無を言わさないその力が、彼の自分に対する執着心の現れのように感じて身が強張りそうになった。嫌悪ではない…歓喜で、だ。

 そんな自分の浅ましさに自己嫌悪を抱く。

 喉が、カラカラに渇いて、唇がそのまま張り付き開かなくなりそうだ。きゅっと互いに取り合っている手に僅かに力を込められて、指先が震えそうになる。

 真っ直ぐに視線を合わせるとそれだけで、心の奥まで見透かされそうで、気持ち視線を逸らしながら小さく言い訳のように呟いた。

「……本当よ。あなたを騙そうなんて、していない」

「騙すつもりはなくても、隠すつもりではいるよね」

「………」

「君たちが共に行動を起こすようになって、俺を取り巻く噂がなりを顰め始めた。それまでは事実だと思われていた噂が、君たちの姿に揺らいでいる。一体何が正しいのだと、そちらの方が今の社交界でのもっぱらの噂だ」

 何をしようとしているのかと、そう聞きながらレイドリックは、こちらの思惑を既に殆ど正確に見抜いている。無理もない、周囲で自分を取り巻く雰囲気が変われば、誰だって敏感に気付くに決まっている。

 その原因がローズマリーとルイーザが行動を共にするようになってからだと知れば尚更だ。でも、レイドリックの口ぶりはそれだけではない。

「ローズ。頼むから、これ以上噂を攪乱するような真似は止めてくれ。相手を刺激しないで欲しい」

「……どうして? そうすることで、あなたの立場は助かるのではないの。それともあなたは、噂を野放しにしたまま自分の立場が危うくなっていく方が望みだったのかしら」

「………君に似合わない、意地の悪い言い方をしないで。多分君は俺が、噂を放置しているように見えたから、こんなことをしているんだよね」

 沈黙したまま答えなかった。その通りだったからだ。

 あなたを助けたかった、なんて言葉を堂々と口に出来る立場では無いのは承知の上で、それでも放っておけなかったから、ルイーザの誘いに乗ったのだ。

 レイドリックを見返すローズマリーの瞳に、泣き出しそうな怒りと、憤りと、そして切なさが込められていることを今、誰より嫌と言う程実感しているのは彼自身だろう。

「心配を掛けていることには謝罪する、君の耳に嫌な噂を聞かせてしまったことにも。だけど俺も、ただ黙って噂を野放しにしていたわけじゃない」

「……どういうこと? あなたは噂を流した犯人に心当たりがあるの?」

「…と言うことは君たちは、その噂の張本人をあぶり出そうとしているんだね」

「………」

 図星を突かれ、再び答えられずに沈黙すると、レイドリックは切なそうに瞳を細めて、一度だけ溜め息を洩らした。心なしか、手の平から伝わって来る彼の体温が少しだけ、高くなったような気がする。

「…あの噂を流した犯人は、俺も探している。表面上沈黙しているのは、表立って動けばその相手を警戒させて、追求することが難しくなるからだ」

 実際には水面下で、出来る限りのことをしていると。今回の噂に関して被害を被るのは自分一人ではなく、家族はもちろん、名前が挙がっているローズマリーやルイーザにも、影響が出ないとは言えない。

「…ではあなたは、きちんと噂をどうにかしようとする意思はあるのね」

「あるよ。………でも正直に言えば、本当は一瞬だけこのまま放っておいた方がいいのかもしれないとも思った」

 一瞬だけほっとしたのもつかの間、レイドリックの迷うような声に再び、ギクリと心が強張りそうになる。彼の真意を探るようにその瞳を見上げれば、レイドリックは一度視線を逸らし、けれどすぐにローズマリーの瞳へと戻して、己の胸の内を打ち明けた。

「………君の名誉が損なわれることなく、俺から解放することが出来ると思ったからだ」

 確かにあの噂ではローズマリーは被害者で、非難されるよりもむしろ同情を誘うポジションだ。例え次の出会いを探すにしても、全く影響がないとは言わないまでも、レイドリックとの別れは自分にとって最低限の傷で済む。

 それこそ以前彼が言っていたように、周りが納得するくらい醜聞を立てて、婚約を破棄する……と言う、あの例え話が現実になったようなものだ。そう言う意味では確かに丁度都合の良い状況ではあったのかもしれない。

 とは言っても、それを聞いて、どうして喜べるだろう。むしろより一層傷つくだけだ、だけどレイドリックの言葉はそれで終わりではなかった。

「でも、やっぱり俺は嫌なんだ、このまま君とのことを終わりにすることが」

「え……」

「君をあれほど泣かせて、傷付けておきながら自分勝手なことだと思う。でも、何度考えても、あの夜のまま君を諦めることは今の俺には出来ない」

 それはどうしてと。喉元までせり上がった言葉を必死に飲み込む。

 聞いてしまうことが恐いと思った。どうしてなのかは自分でも、良く判らない…色々なことが複雑に混ざり合った感情で、胸がいっぱいになる。

 そうした複雑な感情をそのまま顔に現してしまうローズマリーを、レイドリックも見つめている。その彼の瞳も、様々な感情で揺らぎながら苦しく喘いでいるように見えた。

「俺にもう一度、機会をくれないか。俺はまだあの夜の君の言葉を受け入れていない」

「………」

「例え受け入れたとしても、これから先、君に無関心になることは出来ないだろう」

「……それは、妹のような幼馴染みに対する、兄のような義務感から?」

「そう言う大義名分以前に、ただ君が大切だからだ」

 今度息を詰めるのはローズマリーの方だった。彼が、他のことでは迷っても、躊躇いなく自分が大切だと告げる言葉を耳にしたのは、子供の頃を除けばこれが始めてかも知れない。それが嬉しくて、必死に抑え続ける感情を掻き乱す。

「君はどうなの? もう俺には無関心なのかな」

「……そんなわけないわ」

 逆にそれが出来ないから、今こうしてここにいるのだ。どうでも良ければ今もまだ、ハッシュラーザ侯爵家の屋敷に籠もっている。いや、それ以前にあんなに泣いたりしない。

 小さくてもはっきりとしたローズマリーの返答に、幾分レイドリックはホッとしたように険しい表情を僅かに緩めると、言い聞かせるように言葉を続けた。

「なら、お願いだからこれ以上無茶な真似はしないで欲しい。追い詰められた相手が、万が一にも君に何かをしてこないとも限らない。そして、もう一度きちんと話をしよう」

 彼の言葉に素直に頷きたかった。もう一度やり直せるなら、そうしたいと強く思う。

 でも、その為にはどうしても外せないことがある。

「………その時あなたは、私に何を話してくれるの?」

 相手が話したくないと考えていることを、無理矢理聞き出すことが良いことだとはローズマリーも思わない。彼が自ら、話してくれる気になってくれなければ駄目だ。

 けれども例え今ここで、物分かりの良いフリを演じて見せたとしても、多分近い将来また同じような問題にぶつかるだろう。それも何度も何度もだ。その度に自分は見て見ぬフリが出来るだろうか。

 そもそも、そうすることは正しいのだろうかと思うと、ローズマリーには頷けない。その度ごとに自分の心は傷ついて、そしてやがて彼の心もどうしようもないほど傷付けて、遠くない将来に二人共にいられなくなる未来が見える気がする。

 それでは駄目なのだ、一緒にいたいと思うからこそ、今の問題から目を背けてはならないと思う。もしかしたらそれはローズマリーのただの思い込みで、我が儘でしかないのかも知れない。

 聞くことによって余計にレイドリックの心を傷付けて、終わりへ加速をつけるだけなのかもしれない。でも今のローズマリーには、彼から話を聞く以外に未来が見えない。

「レイドリック。あなたは私をどうしたいの? 私との未来を想像してみたことがある? だとしたら、どんな未来が欲しい?」

 レイドリックが相手だから、尚更そう思う。

「俺は……君に、俺の隣で笑っていて欲しいよ」

「私も同じよ。私も、あなたに笑っていて欲しい」

 全てを事細かに話せと言うのではない。彼の全てを知ろうだなんて、どんなに時間を掛けてもそんなことは無理だと判っている。ただ、ローズマリーは、二人で笑い合える未来が欲しい。辛い時には辛いと泣き、嬉しい時には嬉しいと笑い、互いを信頼し合える時が欲しい。

「だけど今のあなたの笑顔を見ていると、私はとても辛くなる。その笑顔が本心を隠す仮面のように見えて、素顔のあなたが今、どんな顔をしているのか判らなくて苦しい」

「…ローズ……」

「ねえ、私はどうしたらいいの? ……あなたは私に、どうして欲しい?」

 唇を閉ざし、沈黙したままレイドリックは答えなかった。恐らく答えられないのだろう、先日の夜と同じように。彼なりにきっと、ローズマリーが納得するような答えを頭の中で探しているのだろうが、その答えが見つけられないでいる。

 ああ、まだ駄目かと思った。また自分は、彼の心に手を触れられないのかと。それが今は酷く悲しくてやるせない。

 黙り込みながら瞳を伏せる彼の顔を見上げたまま、ローズマリーは曲の変わるタイミングで、静かに彼の胸を押した

 けれど以前のようにレイドリックはここであっさりと、ローズマリーの手を離したりはしない。逆にしっかりと握り締めて、ダンスの輪からするりと身を翻すと、バルコニーに向かって歩き出す。

 彼の手を振り解くことも出来ないまま、引っ張られるように後に続いたローズマリーは、その身体がダンスホールからバルコニーに出たと思ったところで、横合いから強く引き寄せられた。

 あっと思った時には、もう自分の身体はレイドリックの両腕の中にいた。上向かされた恰好のまま、自分の肩口に彼の顔が埋まっている。

 身動きすらままならない固い抱擁に、会場から聞こえて来る音楽が遠くなる。今まで幾度か近すぎる接近はあったけれど、こうもしっかりと抱き締められたのは初めてだ。視界の端で彼の朱金の髪が、普段よりも一層鮮やかに見えた。

「……レイドリック…?」

 ダンスホールはすぐそこなのに。すぐにも、多くの人の目に触れてしまうような場所なのに、彼のローズマリーを閉じ込める両腕は緩むどころか逆に強まる。胸の鼓動が激しく脈打ち、自然と視界が潤む理由は、息苦しさの為かそれとも込み上げて来る様々な感情のせいか、区別が付かない。

「……さっきも言ったとおり、俺は…君に傍にいて笑っていて欲しいよ」

 それは間違いない、偽りのない素直な心だ。

「……その為には俺は君に、話さなくてはならない沢山のことがあることは、判っている」

 耳のすぐ横で聞こえる声は、まるで熱に浮かされているようだ。

「そのせいで、君を苦しめていることも判っているつもりだ。…だけど、誓って君なら傷付けても良いと思っている訳じゃない」

 むしろ傷付けたくない。これ以上泣かせたくない、守りたいと思っていると。

 続けて囁かれて、今度こそはっきりと涙ぐんだ。彼の背に両手を回し、しがみつくように指先を震わせながら、ローズマリーも上擦った声を洩らす。

「…なら、なぜ、何も教えてくれないの…」

 今彼はどんな顔をしているだろう。それを確かめたくても、顔を覗き込むことも出来ない。

「……ごめん、もう少しだけ待って欲しい。情けないけど、俺はまだ君にどんな風に話していいのか、考えが纏まっていないんだ」

「レイドリック…」

「だけど、ちゃんと話すから。まだ、君が聞いてくれるなら……話せるよう、努力するから、もう少しだけ俺に時間をくれる?」

 微かに震えるローズマリーの背が、彼の手の平でそっとさすられる。

 ここでようやく、ゆっくりと顔を上げる彼の瞳を覗き込んで、「本当に?」と尋ねれば、レイドリックはまだいくらか迷いの見える様子ながらも、確かに頷いて、その唇をローズマリーの額に落とす。

「この噂話の騒動を片付けたら、連絡をする。約束するよ」

「約束…?」

「そう、約束。だから君はそれまで安全な場所で、危険なことはせずにいて欲しい。約束は必ず、守るから」

 思い出せる限りの記憶の中で、彼に約束を破られた経験はない。レイドリックは出来ない約束は決してしなかったし、一度約束をしたらいつも、守る努力はしてくれていた。

 だから信じて欲しいと、伝わって来る彼の気持ちに唇を引き締める。少しの間沈黙して、瞳を伏せ、少しの間躊躇いながらも頷くと、

「…ありがとう」

 と言葉と共にレイドリックの手が、ローズマリーの右手を救い上げて、その指先にも柔らかな温もりと共に口付けが落ちた。

 直後、彼はもう一度だけ名残惜しむようにローズマリーを抱き締めて、それから身を離すとこの場から立ち去って行く。自然と目が引き寄せられる、しゃんと伸びた姿勢の良い鍛えられたしなやかな後ろ姿を、今はただ、黙って見送った。

 そうしながら思う。自分はもう一度、あの人に触れることが出来るだろうかと。

 身体の温もりだけでなく、心の温もりまでも、伝え合うことが出来るだろうかと。

 どうすることが最善なのか、今のローズマリーには判らない。ただ、もう一度、彼を信じてみたい。愛し、愛される努力をしたい。

 自分のこの気持ちは愚かな感情なのかもしれない、でも仕方ないではないか。何を思っても、どんな痛みを覚えても、彼が好きなのだ。

 一度は別れを告げても、あのままで終われないのはレイドリックだけではなくローズマリーも同じだ。なら、もう一度……もう一度だけ、希望を持ちたい。

 それでも駄目だったら、今度こそきっぱりと諦めよう。でも、もしも本当に彼が約束を守ってくれたら……自分を受け入れてくれたら、その時には………

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