第八章 秘めたる想い 1
賑わう劇場のエントランスロビーに足を踏み入れた瞬間、周囲の人々がざわりとざわつく声が確かに聞こえた。聞こえたのは声だけではない…空気が動いた音さえ、耳に届いたような気がして、瞬間ローズマリーの足が竦みそうになる。
そんなローズマリーとは違い、堂々とした振る舞いで足を運び続けるのは、共にここまでやってきたルイーザだ。楚々として微笑む彼女には周囲の変化など全く気付いていないように見えるけれど、そうではないことは判る。
この音や空気、そして雰囲気に気付かない者などいるものか。どんな鈍感な人間であっても、反応せざるを得ない。それも特別歓迎されているわけでもない、困惑と好奇心がこれでもかと盛り込まれたものであれば尚更に。
周囲の人々の雰囲気や視線を嫌と言う程感じ取りながらも、それでもこんな風に振る舞える点に関しては、さすがと感心する。きっと彼女はこれまでに何度も何度も、こうした視線に晒されて来たのだろう。
自分も怖じけ付いている場合ではない。それとなく深呼吸をして、ローズマリーも遅れぬように彼女の後に続いた。
こうして一人で歩いていると嫌でも思い知る。
昨年とは違い、今シーズンはレイドリックと共に様々な場所へ赴いた。その度に、今とは種類は違ったとしても、やはり様々な視線の前に晒されてきた。
それでも少なからず気圧されたとしても、それほど心の負担に感じることなく過ごすことが出来たのは、いつも隣にレイドリックがいてくれたからだ。
どんなに緊張しても、大丈夫だよと微笑まれる度に、時には軽くからかわれる度にローズマリーは嘘のようにホッとして、その場を楽しむことが出来ていた。
あの時は彼が隣いることが当たり前だったから、そんなことにも気付かず、素直に感謝することもせず、からかう彼を軽い男だと逆に睨んだりしたこともある。けれどレイドリックはそうしたローズマリーの反応を承知の上で、彼なりに周囲から自分を守ってくれていたのだと。
今、ローズマリーの隣にレイドリックはいない。怯えても微笑んでくれる笑顔も、宥めてくれる瞳も、冷たくなる指先を温めてくれる手もない。
それがどれ程心細い、頼りないものであるかを、今初めて実感している。
人々の視線の中、前に進む度にドレスの内側の足が震えた。少し油断すると、ぐらりと踵を揺らがせて、その場で転んでしまいそうだ。必死に足を踏みしめて、奥歯を噛み締める。今はとにかく歩くことだけに集中しよう。
そう思うのに、心の中でどうしても込み上がる想いは止められなかった。
どうしてあなたは今、傍にいないの。
答えなど判りきっている。そう言う答えを選択したのは自分自身だ。レイドリックは、自分の隣に居続ける選択をしてくれたのに、それだけでは満足出来なくて手を振り払ったのはローズマリーである。
ずっと、子供のままでいられれば良かったと思った。難しいことも面倒なことも何も考えず、ただ好きなものを好きと言い、気持ちの欲求のままに欲しいと縋り付き、笑い、泣くことが出来ればきっと、こんなに苦しくない。
差し出される手を躊躇わずに握り返せるほど無垢で、何も知らないままでいられれば、ひとまずの幸せを手に入れて笑っていられただろう。
でもローズマリーはもう、何も知らないままで笑っていられるほど幼い少女ではいられなかったし、ごく一部分だけの幸せで満足出来る程、純粋にもなれない。
あの人の、心も身体も何もかも、全部が欲しい。それが出来ないなら、何もいらない。
この問題が終わったら、エリザベスに良く礼を言って屋敷に帰ろう。彼女の厚意は本当に有り難いけれど、いつまでもその厚意に甘え続けていても良くない。辛かろうと何だろうと、今ローズマリーは生きているのだから、立ち直らなければならないのだ。
ルイーザと共に観劇のために劇場に向かう時にも、心配そうな瞳を向けていた彼女の顔を思い出して一瞬だけ目を閉じる。
多分、屋敷に帰ればまた、近いうちに兄が縁談を持ってくるだろう。レイドリック以上に良く知っている異性の知り合いなどローズマリーにはいないから、今度は顔も名前も知らない人かも知れない。
結婚なんてやっぱり考えられないけれど……次に縁談が来たら、今度はもう少し前向きに素直に相手を見つめようと思う。もしかしたら、愛せるかも知れない。
今がまだ辛いから、彼以上に愛せる人などいないと思い込んでしまいたくなるけれど、これから先のことなど誰にも判らない。ひょっとしたら、別の出会いが待っているかも知れないではないか。
もっとしっかりしなければ。いつまでも兄や母、優しい友人…そして幼馴染みに甘えてばかりはいられない。
自分は大丈夫、ちゃんと前に進める。自分の姿を見て、心配させたり罪悪感を抱かせたり、苦しめてしまうような存在にはなりたくない。
彼の心の傷になって、いつまでも残りたいなんて思ってはいけない。
大丈夫、私はちゃんと笑えるわ。
自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し、もう一度深く呼吸を繰り返すと、ルイーザの隣に追いついて、周囲で自分達を興味深く見つめる人々に向かって、ふわりと微笑み掛けた。同じように、ルイーザも自分の隣で笑っている。
目が合うと、とたんに罰が悪そうに目を反らす人々の姿を眺めながら、ローズマリーは微笑み続ける。己の内心を、精一杯その笑顔の下に隠しながら。
劇場での観劇を皮切りに、それからローズマリーはルイーザと共に、多くのパーティや夜会などの社交界に顔を出すようになった。噂の渦中にある二人が共にいる姿はそれだけで、周囲の人々の目を引き、そして彼らを混乱させる。
中には遠回しに関係を尋ねてくる者もいて、そうした者達には決まって二人揃ってにっこりと微笑み、こう言った。
「私達、お友達になりましたのよ」
と。
噂をまともに受け取るなら、ローズマリーとルイーザの二人はレイドリックを間に挟んで、決して相容れることはない立場のはずだ。
その二人が一緒にいるだけでも現在流れている噂に大きな疑問符を付けるのに、友達になった等と言われれば誰でも、どう受け止めれば良いのか判らなくなるだろう。
ルイーザがローズマリーに頼んだ協力とは、つまりこういうことである。噂そのものを消すことは出来ないが、噂の真実性に疑問符を付けることは出来る。現実に見えるものと聞こえて来る話に齟齬が生まれれば、誰だって自分の目で見たものの方を重く取る。
事実既に社交界では、レイドリックを追い詰めようとしていたあの噂が揺らいでいるらしい。たったそれだけで揺らぐ噂というのは、つまりその殆どが嘘で出来ている証明にもなる。
恐らく噂を流した当人は、こちらがこういった行動に出るとは考えていなかっただろう。
傷ついたローズマリーはしばらく社交界から遠のき、ルイーザは自分の立場を守る為沈黙するか、あるいはこれ幸いとさらにレイドリックに近付くかのどちらかだと。
まるで女には泣くことと、流されることしか出来ないと思われているようで、面白くはないが、あの時ローズマリーがエリオスの口から噂話を耳にしなければ、きっとその通りになっていた未来だ。
噂を流した人物の盲点だったのは、ローズマリーが見た目ほどには消極的な少女ではなかったと言うことと、レイドリックに対して決してマイナスの感情を抱いて別れた訳ではないと言うことだろう。
彼が微妙な立場に立たされていると聞かされて、当然の報いだと見捨てられるほど簡単なものではない。自分に出来ることがあるなら、放っておけないと自然に思うくらいの繋がりは今も、この心に存在する。
嫌いになったから別れるのではない。好きだからこそ傍にいるのが辛い別れもあるのだと、その人は知っているだろうか。
そうやって噂を攪乱し、ではあの悪質な噂は一体何だったのだと人々の目がレイドリックから、噂を口にした人間へと向けられるだろう。噂は必ず始めに口にした人間がいる……それを逆に辿っていく方法だ。
人一人を陥れようとした悪質な噂である。この場合、社交界だけでなく騎士団にまで噂を流れ込ませたことが、逆にその人物の心を焦らせるだろう。
出所不明な噂話など日常茶飯事の社交界とは違って、名誉を重んじる騎士団ではそうした騎士道精神に反するような行為を嫌う。実際、将軍であり騎士団でも大きな発言権を持つエリオスは噂を野放しにすることで悪しき前例を作ることを疎んじているし、既にエリザベスの強い望みもあってその噂の出所を重要視している。
彼が動くことも、噂を流した当人の想定には無かったに違いない。
それだけでも相当なプレッシャーになるはずだ。
実際にその当人に辿り着くことが出来なくても、噂をでっち上げたことで自分の立場が逆に危うくなるとその人に思わせるだけで良い。そうすればきっと当人は、今度は自分の立場を守る為、あるいはもっと明確な結果を出すために行動を起こす。
ローズマリーは今、それを待っている。噂が事実に反していると証明されれば、レイドリックの窮状は回復するはずだ。そうして初めてローズマリーは、自分自身もまた次に進めるようになる気がしていた。
そのレイドリック本人と顔を合わせたのは、そうしてルイーザと行動を共にして何度目の時だっただろうか。噂が流れ出してすぐは、トラブルを嫌った貴族達から招待状を差し止められていたようだが、今は彼の立場もいくらか回復しているらしい。
とある貴族が主催の舞踏会に参加するため、会場に入った時から既に彼の、自分に突き刺さるような視線には気付いていた。
既にローズマリーがルイーザと共に行動していると言う話は、彼の耳にも届いているだろう。そして意味もなく二人が共にいる訳がないと言うことも、察しているはずだ。
これがエリザベスと共にと言うことであればともかく、自分達が別れる一因となったルイーザと友情を温め合うなんて、それこそ何か理由が無い限りはあり得ないと。
ではその理由は何だ。それにもきっと彼はすぐに辿り着く。ローズマリーとルイーザの二人に共通しているものは唯一つ、自分自身しかない。そして三人を現在巻き込んで問題となっているのが、例の噂である。
恐らくレイドリックは黙ってローズマリーのすることを、このまま傍観したりはしないだろう。そう予想していた通りに、彼は来場客がある程度落ち着き、宮廷楽団が円舞曲を流し始めた頃を見計らって、こちらへと人の波をすり抜けながら歩み寄って来る。
その様子にローズマリーが気付き振り返るよりも早くに彼の手の平が肩を掴み、いささか強引に振り向かされた。とたん真正面で彼の姿が大写しになる。
彼と会わなくなった時間は一ヶ月にも満たないのに、まるで何年も会っていなかったような思いに、覚悟していたつもりなのに抑えた心が震えた。
少し見ない間に少し痩せただろうか。いつも浮かべていた微笑も今はなく、まるで別人かと思う程厳しい顔をしている。その顔はただ厳しいだけではない、何かを強く案じている様子が確かに見えた。
彼の厳しい表情は幼馴染みとして過ごした間にも、恋人として過ごした三ヶ月の間にも見たことのない種類のもので、だからこそ彼が自分を案じているのだと判る。それが今は嬉しくもあるし、同時にひどく切なくも感じた。
あんな出来事があったとしても、彼にとって自分は心配する程に心を傾けてくれる存在であると思えたから。そうやって、彼の心に少しでも自分の痕跡を見つけると、諦めようと思う心が鈍ってしまう。
「……君は」
何をしようとしているのか、と。
先に続く言葉を理解しながら、ローズマリーはあえてはぐらかすように微笑んで、彼の言葉を遮った。
「嫌だわ、レイドリック。折角の舞踏会なのにダンスにも誘ってくれないの?」
自分の笑顔は彼の目には、明らかに無理をして作った芝居がかったものに見えただろう。どんなに周囲の人間の目は誤魔化せても、彼には通用しない。案の定、レイドリックの瞳には厳しさの他、苛立ちに似たものも混じる。
「ローズ…!」
低く口調を強めた彼に、気持ち声音を落として囁いた。
「そんなに恐い顔をしないで。皆見ている」
とたんに彼が小さく息を詰めた。普段のレイドリックならば当たり前のように気を配る周囲の様子にも、今の彼は意識が向いていなかったらしい。それだけローズマリーに気を取られていたと言うことなのか。
しかし彼の様子に反して、自分達に集中する視線の数はもしかしたら、この場にいる全ての人から注がれているのではないかと思う程だ。
自分達の一挙手一投足全てに注目している人々の視線を前に、レイドリックは一瞬だけ煩わしそうに瞳を細め、それからローズマリーの目前に手を差し出して来た。
「……ダンスのお相手を、お願いしても?」
「ええ、喜んで」
彼の手を、取るか取らないかの内に、逆の腕がローズマリーの腰を浚う。まるで逃れることを許さないと言わんばかりの、いささか強引な力に思わず足元をよろめかせて、彼の胸に身を寄せた時、視界の端でこちらを見つめているルイーザの姿が見えた。
微笑んでいる彼女。けれどその微笑は、どこか悲しげだ。
一方レイドリックは、そうしたルイーザに目も向けていない。ローズマリーだけを見ている。前回の舞踏会の夜以前だったら、その様子に安堵し喜びを感じただろう。今だってもちろん、優越感に似た喜びはある。
けれども、ただ素直に喜んでいられる気分には、なれなかった。ルイーザの口に出さない彼女の心が、他人事とは思えない今のローズマリーの心にも重なるからだ。
多分今、レイドリックが他の女性と手を取り合っている姿を見せられたら、ルイーザのように形だけでも微笑むことすら出来ないだろう。想像するだけで俯きそうになるローズマリーの耳に、レイドリックの声が触れた。




