第七章 心の行方 3
ローズマリーの突然の訪問は、事前に先触れの手紙を出していた為にすぐにボローワ家の執事により客間へと通された。メイドが運んで来たお茶菓子に手を付けることもせず、女主人が現れる短い時間を黙して待つ。
財産家として知られていたボローワ伯爵家は、てっきり相当な贅を凝らした屋敷だろうと想像していたが、実際に足を運んでみればその屋敷の佇まいは、以前訪れたラザフォード伯爵家よりも、こじんまりとした印象だ。
屋敷の敷地内も、室内も上品でどちらかというと控えめな印象だったが、置いてある家具やインテリアなどは、良く見れば高価な品で出来ていることが判る。至る所に花が飾られ、大きく取られた窓から差し込む陽射しが明るく室内を照らしている様が女性的である。
この屋敷の主人が女性であると言うことを強く感じさせる空間は、多分何事もなく、客人として招かれたならば居心地の良い場所だろう。もちろん今の自分が本当の意味では、招かれざる客であることは充分承知しているため、ローズマリーにとっては必ずしもそうではないけれど。
やがていくらもしないうちに、屋敷の女主人が姿を見せた。いつ見ても、どこか少し憂いを帯びた印象を感じさせる彼女はやはり美しく、ローズマリーの顔を見ると品良く、微笑んで寄越した。
「ようこそ、ローズマリー様」
「突然の訪問にも関わらず、快くお受け頂きありがとうございます」
「いいえ、何となくあなたがいらっしゃることは予想していましたの。……レイドリック様のことですわね?」
確信めいたルイーザの言葉を否定する理由は、ローズマリーにはない。もとより自らルイーザの元に訪れる理由も、レイドリック以外ではありえないということは、二人共が理解している。
社交界での噂は、ルイーザももうとっくに耳にしているはずだ。レイドリックと別れた夜からハッシュラーザ侯爵家に引き籠もっていたローズマリーとは違い、彼女はその間もあちらこちらに顔を出しているはずである。
そうでなかったとしても、噂話は様々なルートで耳に入ってくる。それを証明するように、微笑んではいても、どこかローズマリーの本心を探るようなルイーザの瞳は、彼女が決してたおやかで善良なだけの女性ではないことを感じさせた。
それならば、それで良い。むしろ人畜無害な女性を演じられるより、話が早い。ひたとルイーザの瞳を真っ直ぐに見返して、ローズマリーは静かに己の口を開いた。自分でも不思議に思う程、ルイーザを前に心が薙いでいると自覚しながら。
「まわりくどいお話は苦手ですので、単刀直入に伺います。あなたとレイドリックは、どのようなご関係でしょうか」
早急なローズマリーの問いは、本来貴族社会では嫌われる類のものだ。
どのような時であっても優雅に、上品に振る舞うことが良しとされている社交界では、まず始めに天気や世間話など、当たり障りのないところから話を初めて、本題に入るまでにも遠回しに婉曲させながら、確信に近付いて行く会話が推奨されている。
とはいえ、そんな会話など時間の無駄でしかないことは、誰もが承知している。特に今のローズマリーには、そうした無駄な習慣に基づいて時間を浪費出来る気分ではない。不躾だろうと何だろうと構わなかった。
そんなローズマリーの内心は、ルイーザも良く承知しているらしい。とはいえ彼女の方は、すぐにローズマリーの欲しい答えを与えてくれるつもりはないようだけれど。
にっこりと微笑みながら、まるでからかうような言葉を口にして寄越す。
「あら、レイドリック様からはお聞きになっていらっしゃいませんの?」
婚約者なのだから、それくらいのことはもう聞いていて当たり前だろう。
言外にそう聞こえたのは、恐らくローズマリーの気のせいではない。今のルイーザが見せる表情は、レイドリックの前で見せていた、しおらしい姿とは全く別物だ。
まるでこちらを挑発しているようにすら感じられる彼女の眼差しや言動は、例えローズマリーで無くても不快に感じる人間は多いだろう。
半面、どこか彼女のそうした仕草はわざと作っているような印象もある。何を考えているのか、何を狙っているのか……それまでは判らないけれどローズマリーがルイーザに会うことで、何か足がかりを手に入れようとしているのと同じように、ルイーザも何かを求めているように思えた。
「……レイドリックは昔の女性のことを、今の婚約者にあれこれと口にするほど、無神経な人ではありません。ルイーザ様はご存じではありません?」
仮にも昔恋人同士だったと言うのなら、これくらいのことは知っているだろう。
お返しとばかりにこちらも言外に含めて、微笑んで返す。
今、この場に他に第三者がいたら、恐らく無言でそっと立ち去りたくなるほど、お互いに微笑んでいても冷ややかな空気が流れていることだろう。
元々こういった空気は得手な方ではない。もとよりこうした腹の底を探り合うようなやりとりが苦手だからこそ、社交界に距離を置いていたくらいである。
ローズマリーよりも長い時間、恐らくはそう言った社交界に身を置いていただろうルイーザに、口で敵う自信などどこにもない。
それでも今は引き下がれない。どんなに旗色が悪くとも、彼女から必要なことを聞き出すまでは食い下がるしかないのだ。
ローズマリーの反撃に一瞬だけルイーザは、おや、と言わんばかりに眉を寄せて見せた。けれどもそれは本当に一瞬だけで、すぐに始めと変わらない穏やかな微笑が戻ってくる。
「ローズマリー様はどのようにお考えかしら? 私とレイドリック様と…今も特別な関係にあるとお思い?」
今も、とさりげなく含められた一言に、否応なく胸の奥がずきりと傷む。そう表現すると言うことは、昔はやはり特別な関係だったと言うことだ。過去のことは過去のこと、変えられない事実であり、過去があるからこそ今がある。
あるがままに受け入れるしかないと判っていても、ローズマリーの「女」の部分が、強い嫉妬で悲鳴を上げる。その声を必死に心の底に押しやって、首を横に振った。
「…いいえ、昔は昔、今は今だと思っています。少なくとも今のレイドリックは、あなたとの間に距離を置いている…それを疑ったことはありません」
内心はどうであれ、ルイーザの前では意地でも虚勢を張るしかなかった。
本当は疑った、何度も何度も。でもその度に、何か事情があるのだろうと自分に言い聞かせてここまで来た…こんな風になる前に、もっと早くレイドリックとはきちんと話をすべきだったのかも知れない。
どんなに彼が自分を裏切ることはないと心の中で繰り返しても、もしかしたらと思う感情を抑えきることは難しい。彼が自分を信じさせてくれたら。自分が彼を信じられたら…そう思っても、人の心とはそう簡単には強くなれない。
レイドリックとの間に揺るぎない絆が出来ていれば、また話は違ったのだろうが、その点において恐らく自分達は、長い幼馴染みとしての付き合いだから、お互いのことを良く知っているから、という思い込みで努力を怠ってしまっていたのだろう。
そのツケの結果が、今こうした形で現れている気がする。
「なら何故、あなたは今、レイドリック様の隣にいないの?」
「…っ」
容赦なく一番痛いところを突かれて、それをあなたが言うのかと、思わず反射的に言い返しそうになる言葉を、ぐっと飲み込んだ。
けれども、ローズマリーの飲み込んだ言葉は声にせずともルイーザには届いたのだろう。無理もない、一瞬睨むように険しくなってしまった眼差しを真正面から受ければ、誰だって予想はつく。
それでなくてもルイーザは、ローズマリーの目から見た自分の立ち位置というものを、心得ているように頷くと、ゆっくりと赤く色づくその唇を開いた。
「あなたにとって私は、随分と酷い、恥知らずな女に思えるのでしょうね」
ローズマリーは頷きもせず否定もしない。堅く口を閉ざして沈黙している。その沈黙が返答だと言わんばかりな様子に、ルイーザは微笑みに僅かばかりの苦みを含めて続けた。
「でも真実はあなたが考えているよりもっと、脆くて残酷なものかもしれないわよ」
「…それはどういう意味でしょうか」
挑むように見つめ返せば、ローズマリーの視線を受け流すように瞳を伏せて、ルイーザはそうねと呟きながら、己の細い人差し指を口元に押し当てた。
ただそれだけの仕草なのに、やけに目を引くのは何故なのかはローズマリーには判らない。はっきりしていることは、自分には彼女の様な真似は、例え仕草一つであろうと出来ないだろう、と言うことだけだ。
「例えば、あなたは私が未練がましくレイドリック様を追っているように見えるかもしれない。でも本当はレイドリック様の方がそうしているのだとしたら?」
「意味が判らないわ」
「レイドリック様の方から、私とよりを戻そうとしているかもしれない、と言うことよ」
少し前に比べて、ルイーザの口調が随分と挑戦的に変わった印象がする。そしてその印象は間違っていないだろう。
彼女のローズマリーを見る瞳は、まるでこちらに勝負を挑んでいるかのように挑発的で、頼りなげな印象などもう、どこにも見えなかった。今自分の目の前にいるのは、したたかな貴族の生き方を身につけた女性だ。それがローズマリーの神経を逆なでする。
だが今は苛立ちを覚えるよりも、彼女が口にした言葉で一瞬頭の中が真っ白になった。ルイーザの言葉の意味が、本気ですぐには理解できない。
今、この人はなんと言ったのだろう。
言葉を吟味するように考え込んで、それでようやく少しずつ、染み込んで行くように彼女の言葉の意味が頭に広がっていく。
レイドリックからルイーザに?
仮とは言え、自分という存在があるのに?
ローズマリーには結婚を意識させる態度を振る舞いながら、その裏でルイーザをも受け入れようとしていたと、彼女はそう言いたいのか。
「あり得ないわ」
意味を飲み込んだとたん、そんな言葉が出た。
本当にあり得ないと思った。そこには何の疑う気持ちも存在しないと自信を持って、言い切ることが出来るくらいに。
「レイドリックは確かに、飄々としていて女性との付き合いも多い人だわ。あなたにまだ、割り切れない気持ちを持っているのも、何となく判ります。でもあなたと私と、二人を同時に相手にしようなんて、彼は絶対にしない」
「なぜそう思うの? レイドリック様も普通の男性となんら変わりはないわ、上手くやれると思うかもしれない」
「本気でそんなことを言っているのなら、今後一切レイドリックには近づかないで」
例え疎遠になっていた時期があったとしても、彼にローズマリーの知らない過去があったとしても、仮面をかぶっているのだとしても。
レイドリックはレイドリックだ、彼と言う人間が根こそぎ変わる訳ではない。
どんなに飄々としていても、浮き名を流していても、出来ることと出来ないことがある。
「彼がそんな真似が出来る人ではないと、私は知っています。もし本当にレイドリックがあなたとやり直したいと考えるなら、私との話はきっぱりと断るはずよ。間違っても二人を同時に相手にしようとはしない」
それだけは自信を持ってはっきりと言えた。
どうして彼が、きちんと自分に説明をしてくれなかったのかは今も判らないけれど、彼にローズマリーを裏切るつもりなどなかったはずだ。
ローズマリーがそうした不実な行為を嫌っていることを彼は良く知っているし、自分の欲望の為に最低限守らなくてはならない女性の尊厳を踏みにじるほど、他人の感情に鈍い人ではない。
二股をかけた状態で自分に何食わぬ顔をして結婚を囁くなど、考えられない。もしもルイーザの言うことが本当に事実だったら、ローズマリーはレイドリックという幼馴染みと過ごした全ての時を、別人のものとして忘れなくてはならないだろう。
大体、二股をかけられるような男なら、もっと上手くやるに決まっている。それこそローズマリーに、ルイーザの影を悟らせないように上手に。多少気が強く行動力があったとしても、所詮ローズマリーは大切に育てられた貴族家の世間知らずな娘だ。
レイドリックがその気になって騙そうと思えばいくらでも出来ただろうし、疑問を抱かせないくらいに耳障りの良い嘘をついて、ローズマリーの目を曇らせることも出来たはずである。けれどレイドリックはそれをしなかった。
言葉をはぐらかし誤魔化すことはしても、嘘をついてまでローズマリーを騙そうとはしていない。彼はただ、沈黙しただけだ。つまりはそうした真似が出来るほど、レイドリックは器用ではない。以前なら疑問を抱いていたエリザベスの言葉も、今なら頷ける。
器用なように見せかけて、レイドリックは不器用だ。それこそ、ローズマリーを上手く言いくるめて、黙らせることも出来ないくらいに。
そんな人に、どうしてルイーザの言う様な真似が出来ると言うのだ。
二人の間に沈黙が落ちた。
互いの呼吸する音さえ響きそうな沈黙の中、小さなため息とともに苦笑したのはルイーザの方だった。
「…そうね、ローズマリー様の仰るとおりよ」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、咄嗟に二の句が継げずにいるローズマリーに小さく肩を竦めて見せる。そしてさらに、彼女は続けて言った。
「レイドリック様は、何もしていないわ。私が一方的に彼にまとわりついていただけ」
いっそ、本当に彼から何か行動を起こしてくれていたら良かったのに、と。
「昔、私達がお付き合いをしていたことはご存じ?」
「……噂では聞いています」
「そう。世間で流れている噂が全て正しい訳ではないけれど、お付き合いをしていた過去は事実よ。まだあの頃はレイドリック様も従騎士で、私も社交界デビューしたばかりだった、私達はとても真剣にお付き合いをしていたわ。レイドリック様が無事騎士として叙勲なさったら、結婚しようと約束していたくらい」
頭を、後ろから殴られたかのような衝撃を覚えた。ギリギリと痛む胸は、刃物で抉られているかのような酷い痛みで、いっそ悲鳴を上げてしまえたら少しは楽になれるだろうか。これらの衝撃や傷みが、嫉妬という自分の負の感情から来ていることを否定出来ない。
六年前、まだ十六歳の少年だった頃のレイドリックが、結婚を意識するほど誰かを愛していたと言う過去は、出来ることなら生涯知らないままでいたかった事実だ。
未だ幼い子供の頃のままごとのような恋愛だ、とはローズマリーには到底思えなかった。今の自分が、当時のレイドリックとそう変わらない年齢だ。だから判ってしまう。
例え周りから見れば脆く、いつ壊れてもおかしくない程幼い愛情だったとしても、当時の彼は彼なりに真剣にルイーザを愛していたはずだと。
そうでなければ、結婚なんて言葉は出てこない。それ以前に今も、はっきりと判る程の傷を抱えたままでいる訳がない。好きだった、本気だったからこそ彼が受けた傷は深く、今も完全に癒えることが出来ないでいる証のように思える。
「でも私達は、昔どうにもならない事情から、とても酷い別れ方をしてしまった。そのことを私はずっと謝りたかったの」
それがどんな別れ方だったのかまでは、ルイーザも口にしない。ただ、今もまだその時の傷を抱えている様子のレイドリックを見れば、相当に酷い記憶なのは想像出来る。
ルイーザはこうも言った。
「本音を言えば、あわよくばと言う気持ちも、私にはあった。夫との結婚生活はそれなりに充実していたけれど、私の心の中にはいつも、消えない彼との記憶があった。だから……恥知らずと言われるでしょうけれど、夫の喪が明けた後で、レイドリック様がまだ私のことを少しでも想って下さっていたら…と」
だと言うのに、やっと喪が明けると思ったら、ルイーザの耳に聞こえてきたのは、関係を取り戻したいと願っていたレイドリックの婚約話だ。
六年前の少年の頃ならばともかく、今のレイドリックの年齢を考えれば全く不思議のない話なのに、心のどこかでルイーザは、レイドリックが自分を待っていてくれるものと、勝手に思い込んでいたらしい。
「身勝手な話だけれど、その話を聞いてとてもショックだった。初めは嘘だと思った、でもすぐに事実らしいと知って焦ってしまったの」
本当に勝手で、見苦しいわねと自嘲するように彼女は笑った。




