第七章 心の行方 2
エリザベスの厚意に甘え、ハッシュラーザ侯爵家の世話になってからのローズマリーの生活は、十日ほどの間は自分がどんなふうに時を過ごしたのかも覚えていない日々が続いた。
いつ眠って、いつ起きたのか。いつ食事をして、何をしていたのかまるで判らない。
その間あれこれとエリザベスが気を使ってくれたことは、うっすらと記憶にあるものの、彼女がどんな話をしたのか、どんな表情をしていたのかも思い出せない有様だ。はっきりとローズマリーが覚えているのは、兄のデュオンがやって来た時のことと、ローズマリーの小さなブーケが届けられたことの二つだけ。
そのブーケは今、ローズマリーの部屋の窓辺に、ひっそりと飾られている。
届いたブーケはそれ一つだけではない。あれから毎日、何かしらの花が差し出し人不明のまま届けられてくる。
エリザベスはそうした毎日届くブーケに、部屋を花で埋め尽くすつもりかと少々呆れ顔だが、その花を毎日見つめるローズマリーの様子に、何かしら花に意味があるのだろうと察してくれたらしく何も言わない。
察してくれたのはエリザベスだけではない。日が経った順に、本来なら痛む前に花は処分してしまうところを、侯爵家のメイドが丁寧にドライフラワーにしてくれる。
本当は、ローズマリーも捨ててしまおうかと思った。ブーケごと、未だに引き摺る自分の気持ちも捨てて、きっぱりと彼のことなど忘れてしまおうかと。きっとその方が楽に生きられるだろうと。
でも、出来なかった。
ブーケを見ていると、自然とレイドリックの顔が頭に浮かび、彼と過ごした様々な思い出が蘇る。花を捨てることは、彼とのそうした思い出の全ても捨ててしまうことになるような気がして……そんなこと、出来るわけもないのに。
三ヶ月前のローズマリーは、レイドリックのことを思い出すときはいつも、記憶の中の彼は十六歳より以前の姿ばかりで、大人になった彼の姿で思い浮かべるときは殆どなかったと言っても良い。
それほど彼との接触が乏しくなっていた、という現実もあるが、ローズマリーの心の中のレイドリックは、十六で時を止めていたからだ。
けれど今、彼のことを思うと頭に浮かぶのは、全て今の彼の姿ばかりだ。
豊かに動く表情、ちょっとした仕草、甘さを含んだ声。拗ねていたり、からかってきたり、そして自分を突き放すような冷たさを帯びた、それでいて縋られているのではと思える声音は、今だって簡単にローズマリーの心を掻き乱す。
触れてくる手のひらの温もりも、額で受けた口付けも、いつも意地を張っていたけれど、内心ではいつだって心が揺れていた。兄のように思っていたはずの幼馴染みが、異性にしか見えなくて、困っていた。
それを考えないようにし、口にしないようにしていただけだ。
だってレイドリックはいとも容易く、自分に接してくるのに。甘い言葉もレディ扱いも、まるで息をするのと同じくらい簡単にこなしてしまうから、自分だけが意識しているようで悔しかった。
ドキドキして、でも知られたくなくて意地を張って、なのに気がつけば心は囚われている。もっと素直になって、すぐに彼に好意を伝えていたら、レイドリックの反応も違っただろうか?
少しは自分を信じて、本当の心を話してくれただろうか。
それとも自分が兄と同じように男に生まれていれば、また違っただろうか。兄は明らかにレイドリックの事情を知っているようだった……兄には知ることが出来て、自分には出来なかった理由はやっぱり性別の違いとしか思えない。
結局今だって何をしていても、何を考えても、何処にいたって彼のことが頭から離れない。
こんな風に誰かを好きだと自覚して、でもこの気持ちが相手に届かない、なんて経験は初めてのことだから、自分の心とどう折り合いを付ければいいのか、その妥協点が見つけられずにいる。
それでも微かに残るローズマリーの理性が、いつまでもこうしていても何もならない、と戒める声が聞こえてくるような気がする。
そんなローズマリーに、エリザベスが一つの提案をしてきたのは、昨日の夜のことだった。
もうあと一ヶ月余りで、社交シーズンが終わり、多くの貴族達は王都から離れて自分達の領地に戻ることになる。それはローズマリーの実家であるノーク男爵家でも、エリザベスのハッシュラーザ侯爵家でも同じことだ。
ただ国政に深く関わる、エリザベスの父ハッシュラーザ侯爵は年間を通じて王都に留まることが多く、領地に戻るのは主に妻と子供達だ。そのハッシュラーザ侯爵家の領地の城に、ローズマリーも一緒に来ないかと言う誘いだった。
そこで秋の間を過ごして、冬が始まる前に男爵家に戻ってはどうかと。
侯爵家の領地である、シリーンウォールは海岸沿いの都市で、王都とはまた違った賑やかで活気ある都だと聞いた。港を通じて異国の人々や物が流れ込み、これまで目にしたこともない物を多く見ることが出来るらしい。
海は蒼く、空も澄んでいる。小高い丘に建てられた城からは、都、港、そして海の全体が一望出来る、素晴らしい眺めなのだそうだ。
新しい物に触れ、違う文化に触れ、これまで知らなかった人と出会う経験はきっと、ローズマリーの心を癒してくれるだろうと。
正直に言えば友人とは言えど、さすがにそこまで世話になるのは余りに申し訳ない。けれどもエリザベスは既に、兄のデュオンにも許可を取っているようで、気にするなと笑う。答えは今すぐで無くてもいいから、考えておいてくれと。
誘いを受けて、ローズマリーの心は揺れていた。彼女の厚意に甘えてしまって良いだろうかと思う半面、本当にそれでいいのかと。エリザベスの誘いは甘く自分にとても優しい、ありがたいものだ。
でも自分はまだ、ここで何か、やらなければならないことがあるような気がする。ただそれが、何なのかが良く判らない。
何をすれば良いのだろう。何をしなければならないのだろうか。
………今の自分に、何が出来る?
そんなふうにローズマリーが考え始めたのは、十日以上が過ぎてから。そして……まるでそのタイミングを選んだように、耳に聞こえて来た噂は、これまでを茫洋と過ごしていた彼女に冷水を浴びせかけるようなものであったのだった。
「…何、それ…今の、どういうこと?」
少しでも気分転換をして、気持ちを変えなければと部屋を出て、サロンを通りがかったところで耳にしたことだった。
その場所にはエリザベスとエリオスの二人が向かい合わせに座っていて、どうやら二人は丁度レイドリックについての話をしているところだったらしい。
ハッシュラーザ侯爵家に入ってから、エリザベスがローズマリーの前で、レイドリックの名を出したことは数える程もない。多分彼女なりに、ローズマリーの気持ちを少しでも追い込まないようにと気を使って、あえて言わないようにしてくれていたのだろう。
その避けていた人物の名を、ここで彼女が口にしたのは、ローズマリーの耳から離れた場所であるという油断と、そしてエリオスから伝えられた、現在の社交界にまことしやかに流れる噂話に嫌悪を抱いたからだ。
そしてローズマリーが耳にしてしまったことが、その噂話の内容だったのである。
レイドリックが、婚約者であるローズマリーがいるにも関わらず、婚約者を裏切り手酷く捨てて、元の恋人であるルイーザとよりを戻したと。そしてゆくゆくは彼女と再婚し、ボローワ伯爵の残した財産をも手に入れようと画策している、と言う下世話極まりない話だ。
だがこれは多分、随分と柔らかく砕いた言い方なのだろうと言うことは、エリザベスに説明するエリオスの口調を聞いて何となく判った。恐らくは、実際に流れている噂はもっと聞くに耐えない、一方的にレイドリックの名誉を貶める内容になっているのに違いない。
「ローズ…!」
はっとエリザベスが気がついて振り返り、口を閉ざした時にはもう、ローズマリーは話の内容の殆どを聞いてしまった後だった。
エリザベスよりも早くに、恐らくは気配でローズマリーの存在に気付いただろうエリオスは途中で言葉を止めたが、それでも大方耳に入ってしまった後なのには変わりない。
「…今の話は、どういうことですか? そんな話が本当に、社交界で流れているの?」
にわかには信じたくなかった。大体どうしてそんな話になっているのだろうと思う。
自分達は確かに関係を終えるような出来事があったが、その話はあくまで当事者のみの話であって、表向きはまだ婚約解消や別れ話と言った話は一切していないと、兄の手紙で聞いている。
縁談を無かったことにするにしても、シーズンが終わってからのこととすると。そうすることで来年の春に訪れる新たなシーズンまでは、ある程度ほとぼりを冷ますことが出来るから、と言うのが兄の考えだと。
それなのに何故、今そんな噂が流れているのだろう。ただの偶然と思うには余りに時期が一致しすぎている。
もしかして王宮での舞踏会の夜の出来事を、他にも目撃している人物がいたのだろうか。あの時は他に誰もいないと思っていたけれど、レイドリックとルイーザのことで頭がいっぱいになっていて、きちんと人が他にいないかを確認したかと言われれば、首を縦に振ることは出来ない。
自分と同じように会場から抜け出て、偶然決定的な場面を目にした人物がいたとしても、おかしくはないだろう。あの夜は沢山の人々が王宮に訪れていた、絶対と言うことは多分ない。
けれどそれにしても、随分と一方的な言い掛かりのような内容だ。そこにはレイドリックに対する明確な悪意が感じられる。あえて彼の評判を落とし、その立場を追い詰めようとでもするかのような。
社交界での噂話は日常茶飯事だが、だからと言ってただの噂だからと放置しておくと大変なことになる。真実と偽りが混在する噂とはいえ、それも一つの情報として扱われることが多々あるからだ。
多くの人が噂は所詮噂、けれど火のないところに煙は立たない、という考え方をする。全てが事実と鵜呑みにはしないけれど、それに近い事実が含まれているのではないか、と。
じっと逸らさず、真っ直ぐに向けられたローズマリーの視線を受けて、エリオスは一瞬だけ気難しい顔をした後、自分がここで黙っていてもいずれは耳に入ることだからと、小さな溜め息と共に教えてくれた。
「現在、その噂によりレイドリック卿は社交界で微妙な立場に立たされている。噂は社交界のみに留まらず、彼の王宮騎士としての資質も問い質す声が上がっているそうだ」
「…そんな」
「王宮騎士は、国の全ての騎士達の中でも特に手本となるような存在でなければならない、と言うのは国王陛下が定めた王宮騎士の基本指針だ。そんな王宮騎士と言う立場である彼が、本来守らなければならない女性を犠牲にした醜聞を引き起こす行為が問題視されても、何ら不思議はない」
以前、レイドリックがもし自分達の結婚が駄目になったとしても、自分自身が醜聞を立ててローズマリーの名誉を守るから気にするな、と言ったことがある。
あの時には呆れ半分で聞き流しつつも、それで大丈夫なのだろうかと疑問に思った程度だったが、今改めて考えるとやはり、とても大丈夫とは言えないことだったのだろう。
「騎士団側としても、もちろんレイドリック卿本人に事情の確認は行われたが、彼自身が何を尋ねられても、殆ど何も答えないそうだ」
ただ唯一彼がはっきりと答えたことは、誰かに取り入ったり、貶めてまで自分の利益を追求しようとしたことはない、という言葉だけだと。
あの夜の場面を他の誰かに目撃されていた為に、噂になったということならばまだ、納得は出来なくても理解は出来る。
けれどいくら何でもこれは行き過ぎだ。まるであの出来事をこれ幸いと利用して、レイドリックを陥れようとしている者がいるかのようではないか。それともこんな風に思ってしまうのは、ローズマリーがやはりレイドリック側の人間だからだろうか?
そこまで考えてローズマリーは、今回の噂話とよく似た系統の話を以前にも耳にしたことを思い出した。それもまた、ルイーザ絡みの……六年前に彼女とレイドリックが別れた後に流れた話だ。
あの時にもレイドリックがボローワ伯爵からの買収に応じてルイーザを捨て、騎士の叙勲と王宮騎士の地位を手に入れたと言った、言い掛かりに近い噂があったと教えてくれたのはエリザベスだ。
あの時の話と今回の話は、内容は違ったとしても良く似ている。それこそ二つの噂を立てた人間が、同じ人物だと言われても、違和感が無い程に。
自分の知らないところで、誰かが意図的に話を煽っている?
たったそれだけで、決めつけてしまうのは危険な行為かもしれない。それでも一度頭に浮かんだ可能性を捨てることは出来なかった。
だとしたら誰が?
レイドリックに対して悪感情を抱く人間であることは間違いないだろうが、ローズマリーが知る限り彼の周囲で彼に対してあからさまな敵意を向けて来た人間の心当たりは少ない。
自分の知らない人物だろうか。その可能性もある。むしろ、そちらの可能性の方が高いだろう。だが、一番恐いのは自分が知っている人間で、そう言った内心の感情を全く感じさせずに表向きは親しく笑いかけ、裏ではこうした話を煽っている人間がいた場合だ。
獅子身中の虫と言うのは大げさかもしれないし、さすがに噂一つでこれまでの彼の功績を無視して騎士団側が本格的に動くとは考えにくいが、もしも実際に王宮騎士として相応しくないと処断されれば、レイドリックの騎士としての将来は閉ざされたも同然になる。
貴族としても挽回出来ないほどに大きな不名誉になり、エイベリー家にとっても取り返しの付かない痛手になる。
それが判っていて、もう自分には縁の無い人だからと目を背けられるほど、ローズマリーの心は割り切ることは出来ない。自分達の関係がどんな結果になったとしても、自分にとって彼が大切な人であることには変わりないのだから。
そんな状況になっているのに、どうしてレイドリックはそうまでして口を開こうとしないのか。これでは既に自分との縁談がどうのと言うレベルの問題ではない、彼自身の将来が掛かっている話だ。
言い掛かりの様な噂話など、事実ではない、本当はこういう事情だときちんと説明すれば、判ってくれる人はきっと、きちんと理解してくれるはずだ。けれどその説明もなければ、誰も理解することなど出来ない。
何をしているのだ、あの人は。
いても立ってもいられずに、その場から駆け出してレイドリックの元へ行こうとしたローズマリーだったが、走り出してすぐにその足を止めてしまった。
例え自分が血相を変えて彼の元に乗り込んだとしても、レイドリックはやっぱり何も言おうとしないばかりか、余計に頑なになってしまうかも知れないと言うことに気付いたからだ。
自分は彼から信頼して貰えていない。認めることは再び、あの舞踏会の夜を鮮明に思い出させて、息が止まりそうな痛みを生み出すけれど、それが現実だ。
レイドリックからは、何も聞き出せない。とするならば、他に事情を知っていそうな人物は誰だろうと考えて、ローズマリーの頭に浮かんだのは、ただ一人だった。
「ローズ…」
心配しながらエリザベスが傍らに近付いて、そっと声を掛けてくる。そのエリザベスに振り返って、彼女の瞳をひたと見つめながらローズマリーは訴えるように口を開いた。
「リズ、お願いがあるの。今からすぐに手紙を書くわ、その手紙を届けさせてくれないかしら」
「手紙? どなたへ?」
「………ボローワ伯爵夫人、ルイーザ様へよ」
エリザベスがハッと息を飲む気配が伝わった。それでも、どうしてと聞いてこない時点で、エリザベスもローズマリーの意図を理解したらしい。
過去と今の全てを含めて、レイドリックとのことをもう一人の当事者である彼女本人から聞こうとしていることを。恐らく彼女に直接尋ねることが出来る権利を持っているのは、ローズマリーだけだ。
結果はどうであれ、一度は世間にレイドリックの婚約者として名を知られたローズマリーである。そして過去のことだけであればともかく、今現在もローズマリーという存在があるにも関わらず、ルイーザはレイドリックとどういう理由からか、関わりを持とうとしていた。関係ないと、言わせるつもりは毛頭無い。
「……でも、ローズ。あなたはそれで、辛くはならないの?」
本音を言えば、ローズマリーだってルイーザからどんな話を聞かされるのかと思うと恐い。
レイドリックとルイーザが、噂どおりに今も変わらず互いに想い合っていて、いずれ結婚するなどと聞かされたとしたら、どれ程のショックを受けるのか、自分でも判らないくらいだ。そしてこれは、決してあり得ないことではないと思う。
「………恐いわ、とても。…でも、知らないままで、何もしないでいることの方が、多分、後で辛くなると思うの…」
これはある意味、一つのけじめだと思った。自分が前を向いて、次に進むための。
どんな形であれ、現実を知って受け入れなければ、多分ローズマリーはいつまでも立ち止まったまま、自分を哀れみながら時を過ごすことになりかねない。何の決着も付けず、目の前の問題から逃げて、時と共に例え心の痛みを一時的に忘れることが出来たとしても、多分きっとまた何かの折りに思い出しては立ち竦んでしまう気がする。
それならば今、自分に出来ることをしてけじめをつけたい。何より、やっぱりローズマリーは放っておけないのだ、レイドリックのことを。
臆病で、不器用で、自分のことを信じてもくれない酷い人だけど、知らない振りは出来ない。幸せを願う……なんて聖人君子のような考え方はまだ出来ないとしても、だからといって不幸になれば良いと思っているわけではない。
ちゃんと自分で納得して、その上で彼との問題に自分なりに決着を付けたい。その為にもきっと、ルイーザとは一度きちんと話をしなければならない。それはローズマリーの我が儘かも知れないけれど、それで良かった。
これは誰のためでもない、自分の為の行動なのだから。




