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第六章 壊れる時 4

 今まで何度も聞こうとして、でも結局聞けないまま口を閉ざしてきた疑問がある。もはやローズマリーにはそれを堪えることは出来なかった。

 例え聞くことによって、自分達の間で保たれていた何かが壊れるかも知れないと感じても……黙ってはいられなかった。

「……レイドリック。あなたと、ルイーザ様の間には何があったの?」

「………っ」

「恋人同士だったのでしょう、六年前まで。…六年前の、エミリアお姉様の婚約披露パーティで、あなたは一人で泣いていたわ。それは、何故?」

「……ローズ」

「教えて、レイドリック。何があったの? そして今、二人で何の話をしていたの?」

 ここでようやく、顔を上げてレイドリックの瞳を見つめた。

 視線の先で、彼はこれまでに見たこともないほど苦しげな顔をして、青いサファイアの瞳を揺らめかせている。その瞳が、ローズマリーが口にした言葉が正しいことを示しているように思えた。

 恋人同士であったことも。二人の間に何かがあったことも。六年前の夜、一人で泣いていた原因がルイーザに関係があると言うことも。

 そして………今もまだ、彼があの夜の悲しみを、吹っ切れていないことも………

「…今、あなたの心にいるのは、誰なの? 私? 他の誰か? それとも……」

 その後の言葉は、口に出来なかった。

 ローズマリーの頭の中に浮かぶのは、先程涙を流しながら、レイドリックの胸に飛び込んだ美しい人の姿だ。

 唇をわななかせるローズマリーの様子に、レイドリックは何を思っただろうか。

 不意に彼の中で何かが切り替わったように、視線を上げ、改めて瞳を合わせてくる彼のその眼差しに、これまでと違う何かを見てとってローズマリーの心に小さな怯えが走る。

 怒らせた?

 無理に聞こうとしたから?

 だとしても、彼のその表情の変化にローズマリーはすぐに反応することが出来ない。なぜならレイドリックが恐いと思ったことなど、これまでの付き合いの中で一度も無かったからだ。

 自分が何を言っても、何度困らせたり手間を掛けさせたりしても、我が儘を言って振り回しても彼は最終的にはいつも笑って、仕方ないなと甘やかしてくれた。

 よほど目に余ることをした時には叱られたり怒らせたりしたこともあったけれど、どんなに怒っても彼は決して、ローズマリーが怯えるほど叱りつけることはしなかったし、何がいけなかったのか、何が駄目なのかを納得するまで根気よく説明してくれていた。

 それは今になっても変わらないはずだった。結局レイドリックはローズマリーに甘く、優しく……ここ三ヶ月の間は、常に自分を優先してくれていたはずだ。例えそれが、交わした約束のせいだとしてもだ。

 でも今のレイドリックは、少しだけ恐い。無遠慮に自分の心に踏み込もうとするローズマリーに対しての怒りか、あるいはもはやどうにもならない何かに対する、行き場のない怒りなのか、見たことのない嗜虐的な瞳で自分を見つめていた。

「どうして今、そんなことを聞くの? 俺たちは上手くやれていたはずだ、そしてこれから先もきっと同じように出来るはずだよ。今更俺の過去を暴いて、その先に何があるの?」

 瞳だけでなく声も冷たい。こんな声も、聞いたことがない、いつも彼の声には甘さが含まれていて……その度に心を擽られる感覚がしていたのに。

 怯えて、後ろに下がろうとしても、腕を掴む彼の手に阻まれて出来なかった。

 恐い。かといって、もう自分が口にした言葉を撤回は出来ない。せめて視線をそらせようとしても、頭の後ろに回ったレイドリックの手の平が、ローズマリーの首ごと固定して、上向かせて来る。

 そのまま口づけられてもおかしくない姿勢で、唇に触れる彼の呼気が、やけに冷たく感じられた。

「ねえ、ローズ。俺は君が可愛いよ。大切にしたいと思っている」

 甘い言葉のはずなのに、もう、全くそう聞こえない。今、目の前にいる人は誰だろうと思った。本当に、自分の知っている幼馴染みの、レイドリック・エイベリーなのかと。

 それくらいに、彼が知らない人のように思える。でもきっと、今目の前にいるレイドリックも、本当の彼なのだろう。ローズマリーが知らなかっただけだ。

 優しい、ごく一部分の彼の顔だけを見て、全てを知った気になっていただけで……そんな自分の愚かさが、酷く悲しい。そしてそれ以上に、自分の前でもう一つの顔を隠しきれない程に追い詰められた、レイドリックが憐れに思える。

 きっと彼は、こんな一面を自分には見せたくなかっただろうからと。だけどもう限界なのだ、色々なものが。何も見ないふり、知らないふりが出来る段階を越えてしまっていると、彼はまだ気付いていないのだろうか。

「この三ヶ月、俺は君にとって可能な限り、誠実な恋人だったはずだ。今後も俺はそうしていくつもりだ、それでは駄目なの? 君の問いに答えない、俺のことは信じられない?」

 感じる彼の苛立ちの中で、僅かばかり縋られているような気がした。知らないままでいて欲しい、これ以上踏み込まないで欲しい、自分を暴こうとしないで欲しい…そんな風に。

 確かに彼の望む通りにすれば、ローズマリーは見た目は穏やかに過ごして行けるのかも知れない。自分に甘い夫を手に入れて、優しく受け入れてくれる家族に囲まれて、他者からはこれ以上望めないほど幸せな人生を歩むことが出来るのかも知れない。

 だけどその心はどうだろう。

 本当に見たいものから目を塞がれ、本当に知りたいことから耳を塞がれ、言いたいことから口を塞がれて、当たり障り無く生きて行く人生の、何が幸せなのだろう。

 そんな夫婦生活は、ローズマリーだけでなく、レイドリックにとっても不幸でしかない。

 ようやくローズマリーは気がついた。これまで自分が見てきた、六年前のあの夜から変わってしまったと感じていたレイドリックは、彼の仮面だ。

 傷ついた心や感じる痛みを誤魔化すために、意図的に作り上げた、他者を騙すための仮面。何でも無い、傷ついてもいない、自分は平気なのだと偽るための。

 彼はまだ、六年前のあの夜から、一歩も前に進めていないのだと。

 今自分の目の前にいる人が、二十二歳の彼ではなく、十六歳の温室で泣いていた少年の頃の彼の姿に見える。自分の心の落ち着き場所を見失って、感情の吐き出し場所がなくて途方に暮れている。

 どんなに身体や知識が大人に成長しても、彼の心の一部分は今もまだあの頃のまま。

 それがどうしようもなく悲しくて、寂しくて、そして辛かった。どうして自分も、そして彼も……こんなに不器用な人間なのだろう。きっともっと、他に色々……こうなってしまう以前に出来たことはあったはずなのに。

 今更どうしようもない。カードを先に切ってしまったのはローズマリーの方だ。ガラガラと何かが壊れていくような錯覚を覚えながら、唇を震わせると必死に声を押し出した。

「……信じられないのは私ではないわ。あなたの方でしょう」

 囁くように呟いたローズマリーの言葉に、彼の瞳が見開かれる。

「あなたは私を信じていない。だから、何も教えてはくれないのね。そして大丈夫だ、気にするなと微笑みながら、優しく私をあなたの世界から締め出すのよ」

 はっと、レイドリックが息を飲む気配が伝わってきた。いつの間にか緩んでいた彼の手を振り解き、胸を押して、身を離す。

 その拍子に、とうとう堪えきれずに涙が零れた。ぼろっと一気に溢れて、頬を濡らす涙の雫を拭いもしないローズマリーを見つめる今のレイドリックには、いつもの飄々とした様子も、先程の嗜虐的な様子も、感じられない。

「あなたと、ルイーザ様の間に起こったことは、私には判らない。あなたがどれだけ傷ついたのかも、私には想像することしか出来ない、あなたは何も私に話してくれないもの。判る訳が無いじゃない」

 後から後から涙がこぼれ落ちる。嗚咽で上手く言葉も喋れなくなりそうだ。それを必死に堪えて、ローズマリーは訴えた。

「あなたは、臆病だわ。過去を過去とするために向き合うこともせず、目を背けて何でも無いと逃げ続ける。自分の心の弱さを私に見せて、また傷つけられることを恐れているのね。だけど、私は、ローズマリーという全く別の人間よ、ルイーザ様じゃない…!」

「ローズ」

「私はずっと、あの夜から変わってしまったあなたが悲しかった。でも今は、そんな風に変わらざるをえなかったあなたを、可哀想だと思うわ」

 そうしなければならなかった彼を憐れだと思う。自分を無理に変えると言うことは、心の何かを無理矢理ねじ伏せると言うことと同じ意味だと思うから。彼は自分の心の痛みと悲しみをねじ伏せる為に、変化せざるをえなかったのだと思うから。

「でも、レイドリック。あなたは気付いている? ………あなたがルイーザ様のことで傷ついたのと同じように、私だって………自分の心が届かないと知った時には、傷つくのよ。それとも……私だったら、傷付けてもいいと思ったの?」

 努力をしようと約束をした、馬車の中でレイドリックは呟いた。もしかしたら、ローズマリーだったら、と。それはそう言うことだろうか。

「…そうじゃない、ローズ」

「だったら何なの。私が間違っているのなら、お願いだからちゃんと違うと教えてよ…!」

「…っ……」

 最後とばかりに悲痛な声で懇願する。だけどレイドリックはやっぱり、答えてはくれないのだ。

 この三ヶ月、これまでにないほど密に二人の時を過ごして、自分の気持ちを故意に引き寄せて、結婚を囁いて……なのに、彼の心は自分に向いていないなんて現実は、悲劇にすらならない。

 ずっと一緒にいて、なのに信じて貰えない関係のどこに、幸せな未来があるというのだろう。嗚咽が漏れた。それと共に、溢れそうな感情も。

「………あなたが好きよ、レイドリック」

 今まで見た、どんな時よりも彼が驚いた様が判った。

 口に出せば、その思いは砂に染みこむ水のように、ローズマリーの心に事実として広がって行く。

 そう、彼が好きだ。小さな頃には兄のように。六年前からは少し遠くなってしまった幼馴染みを。そして今は、一人の男性として、共にいられたらと願う程に彼が好きだ。

「……でも、私は私を信じてくれない人とは一緒にはいられない。…あなたを好きだと思うから、あなたの心に手が届かないことが、余計に辛くなるの。自分が力になれないと思い知る度に、あなたが気にするなと笑う度に、私は息が止まりそうになるの」

 だから。

「………あなたにはあなたが信じられる人が必要よ。でもそれは………私じゃないのね」

「ローズ…!」

 何かを言おうとして、けれど何も言葉を発しない彼を前に、固く目を閉じる。瞼を閉じると再び、堪っていた涙が溢れ出て頬を伝い落ちる感覚に、深い絶望を感じた。

 ここまで言ってもあなたはやっぱり何も答えてはくれないのね、と。彼の心の傷の深さを思い知る。同時に自分が必要とされていないと言うことにも。

 出来ることなら彼を支えられたらと思ったけれど……彼がそれを望んでいないのならば、ローズマリーにこれ以上出来ることは何もない。

「…………さようなら、レイドリック。あなたは小さな頃から、私の大好きな騎士様だったわ」

 それきり彼に背を向けて、歩き出した。もう後ろから、レイドリックが追って来る気配は無い。

 何かとても大切な目標を、失ってしまったような気がした。

 これから先、どうしたらいいのだろうとぼんやり考える。ひとまずは屋敷に帰って……それから、一足先に領地に戻ろうか。でも領地に戻れば戻ったで、至る所にレイドリックとの思い出が残っている場所は辛すぎるかも知れない。

 少し家から離れようか。

 彼の思い出が無い場所で、彼のことを考えなくても良い場所で落ち着いた時間を過ごし、それからまたこれから先の自分の人生を考えるのも、良いかも知れない。

 そんな風に考えながら一人、ホールの手前まで辿り着いた自分を待っている人がいると気付いたのは、涙で歪んだ視界でも美しく輝く友人の姿を認めた時だった。

 彼女の傍にエリオスと、そしてボリスの姿を認めたとき、ローズマリーはこの美しい友人が既に、何もかもを察していることを知った。

「ローズ……」

 まるで自分の方が泣き出しそうに、こちらを見ているエリザベスの顔を見たとたん、一度は収まり掛けた涙が落ちる。とたんに普段の淑女然とした様を放り出して、駆け寄って来た友人の腕に抱きしめられた時、嗚咽が喉の奥から絞り出るように溢れた。

 その場で崩れ落ちるように蹲り、泣きじゃくるローズマリーを、両腕で抱き締めながら、エリザベスは何も聞かない。代わりに優しく背を撫でながら、慰めるように言う。

「しばらく、私の屋敷にいらっしゃいな。そして落ち着いたら、ゆっくりとこれから先のことを考えましょう?」

 今はもう、何も考えたくない。

 しばらくの間だけだ。少しだけ、心を休めたらまた、ちゃんと顔を上げるから。これから先、自分に何が出来るかを考えるから、だから今は休ませて欲しい。

 自分を抱き締める彼女からは、甘い良い香りがする。その香りに包まれながら、ローズマリーはただ、無言で頷いたのだった。

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