第六章 壊れる時 2
「こんばんは、レディ・エリザベス。今夜もお綺麗ですね」
「ごきげんよう、レイドリック様。あなたの大切な人と一体どちらが綺麗かしら?」
出会い頭に何とも答えづらい問いをわざと投げかけたのは、ここ最近のローズマリーの悩みを知っているエリザベスなりの、レイドリックに対するささやかな仕返しだろう。
良識のある男性からすれば、なかなか機転を利かせるのに苦労する種類のものだ。相手の女性の機嫌を損ねる訳にも行かないし、かといってパートナーの機嫌を損ねる訳にも行かないし。
「二人を比べることなど出来ませんよ。花それぞれに美しさの種類が違いますから」
微笑んだまま表情を崩さないレイドリックだったが、見ているローズマリーの方が一瞬だけおろおろとした時、エリザベスの後ろに控えていたエリオスの、いささか呆れ気味な仲裁が入った。
「リジー。相手を困らせるようなことをわざと言うんじゃない。君の悪い癖だ」
リジーというのは、エリザベスのまた別の愛称の一つだ。どうやら彼はその愛称で、幼馴染みのことを呼んでいるらしい。
「だってレイドリック様ったら酷いんですもの。少しくらい意地悪をしても罰は当たらないと思うわ」
「気付かない内に何か失礼を?」
苦笑混じりに問うレイドリックに対するエリザベスの返答は、また意味深な物である。
チラとローズマリーを見て、それからレイドリックを見て。一体何を言い出すのかと、止めるに止められず、内心ヒヤリとするローズマリーの目前で、彼女はにっこりと微笑むと言った。
「ここ最近のローズは、会う度に話すことはレイドリック様のことばかりなのよ。ねえ、酷いでしょう? 仲が良いのは結構ですけれど、今からこれでは、結婚した後には私のことは忘れられてしまうのではないかしらと不安になってしまうわ」
「リズ…!」
「あなたたちがご結婚なさっても、時々はローズと会うことを許して下さいます? ローズは私のとても大切なお友達なのよ」
「それはもちろんです。ローズの交友関係を制限するつもりなどありませんよ、これからも親しくしてやって下さい。……ところでレディ・エリザベス。ローズは俺の、何をそんなに熱心に話しているんですか? そこのあたりを是非詳しくお伺いしたいですね」
「レイドリック…!」
ほほほ、と微笑むエリザベスに対して、あくまで上品な微笑みを絶やさないまま問う。二人のその会話が、実はローズマリーをからかう類のものであることは、聞けば誰でも判ることだ。
もちろんエリザベスとどんな会話をしているかなど、話せる訳がない。
可哀想なローズマリーは、すっかり狼狽え真っ赤になってしまって、身の置き所も無いような有様である。やはり、見かねて止めてくれたのは、エリオスだった。
「そこまでにしておきなさい、リジー。大切な友人を困らせるものじゃない。……失礼、ミス・ノーク。彼女は少しばかり、悪ふざけが過ぎるところがありますが許してやって下さい。レイドリック卿、君もあまり悪のりをするな」
「そうね、ごめんなさい、ローズ。もうからかったりしないから、怒らないでね」
「申し訳ありません、エリオス卿。つい、ローズの困った顔が可愛くて」
ぬけぬけと言い放つレイドリックの顔に、反省の色は全く見えない。エリオスのローズマリーを見やる瞳に、多大なる同情が含まれているように感じたのは気のせいだろうか。
その時、宮廷楽師達が演奏する曲が、軽やかなテンポのワルツ曲に変わる。
あら、と顔を上げたエリザベスが、
「私、この曲が好きなのよ。踊りましょうよ」
そう言って、なぜかローズマリーの腕を取るとダンスフロアに向かって歩き出した。ぽかんとしたのは、突然腕を引っ張られたローズマリーだけではない。
困惑した顔で振り返れば、先程の場所でレイドリックとエリオスの二人も、似たような顔をしてこちらを見ている。
「ちょ、ちょっとリズ…!」
ダンスをすることそのものがおかしい訳ではない、おかしいのはペアの組み方だ。通常ダンスは、男女ペアで踊るのが常識であって、当然ながらローズマリーとエリザベスはお互いに、華やかで美しいドレスに身を纏う少女達だ。
「大丈夫よ、私、男性パートも踊れるの」
「そう言うことじゃなくて」
けれどもエリザベスはお構いなしに、半ば強引にローズマリーの手をホールドすると、周囲が奇異な眼差しを向けて来ることも気にせずにステップを踏み始める。完全に体勢が整っていなかったローズマリーは、とたんに足元を乱れさせて転びそうになるのを、辛うじて堪え、どうにか姿勢を取り戻しながら、自分より少しだけ身長の高い彼女の顔を見上げた。
「もう、リズったら!」
「いいじゃない、折角の舞踏会ですもの。楽しみましょうよ」
くるくるとエリザベスが回る。その彼女に引っ張られて、ローズマリーも回る。
すれ違ったカップルが驚きの顔で振り返る視線を受けながら、とても楽しそうに笑っているエリザベスの顔を見ていると、次第にローズマリーも何だかおかしくなって笑ってしまった。
男性パートも踊れると言う彼女の言葉どおりに、エリザベスのステップは完璧だ。ダンスが下手な男性よりも、よほど軽やかで様になっている。
「ねえ、ローズ。あなたちゃんと自覚している?」
「何を?」
「あなたとレイドリック様とのことよ。少し見ないうちに、あなた達随分雰囲気が変わったのね。もうどこからどう見ても、恋人同士にしか見えないわよ? なんだか、妬けてしまうくらい」
この時ローズマリーは、自分がドキリとしたのか、ギクリとしたのか判らなかった。
「そんな……私達、何も変わっていないわ」
「本気でそう言っているの? あなた達は変わったわ。レイドリック様も、そしてあなたも。あなたたちが、ただの幼馴染みだなんて、もう誰も信じない」
断言されて、もはや返す言葉はなかった。
レイドリックの気持ちは、ローズマリーには良く判らない。彼がなんだかんだと言いながらもローズマリーに甘いのは以前からだ。今ほどに、思わせぶりな言動はさすがにしなかったけれど、だからと言ってそれだけで彼の気持ちは判断出来ない。
けれど、自分の心の変化は自分が一番実感している。
どんなに否定しても、気付かないフリをしても、自分の心が囚われるようにレイドリックへと向いていることは、もうどう頑張ってみても認めない訳には行かなかった。
「…でも、リズ。……私は……」
自分でも、何を言いかけたのか。
判らないまま戸惑うように零れ落ちた声が、完全な意味を成す言葉になる前に曲が変わる。
いつの間にか型破りのダンスを披露する少女達の、周囲の人々の眼差しが微笑ましげなものに変化していた中で、曲の境目にそれぞれの手を横合いから取ったのは、レイドリックとエリオスの二人だった。
「本来のパートナーを、お忘れではありませんか、お姫様方?」
「このままでは、私達の立つ瀬がないな」
あっと思う間もなくエリザベスと手が離れて、自然な動作で他のペアに紛れていく中で、エリオスに身を寄せながら笑うエリザベスの華やかな笑顔が見えた。
頑張って、と彼女の唇が動いたように見えたのは、きっと見間違いではないはずだ。
一体、何に頑張れと言われたのか。恐らく、全てのことに関してだろうと、友人の応援を背に顔を上げれば、真っ直ぐに自分を見下ろしているレイドリックの青い瞳とぶつかる。
その瞳に引き寄せられるように見つめ返し、それからハッとして慌てて視線を不自然に泳がせたのは、前回のパーティでの出来事を思い出したからだ。
「どうかした?」
「べ、別に、何も」
とは言いつつも、ローズマリーが視線を泳がせた理由にレイドリックが気付いていないわけはない。思わせぶりにじっと見つめてはいけないと、忠告だと言いながら行われた出来事はまだ、二人の記憶に新しい。
あからさまなローズマリーの反応に、低く偲び笑う声が聞こえてくる。悔しく思っても、今、彼の瞳を改めて見返すことは出来ない。
せめて不自然にならないようレイドリックの胸元の、エメラルドのタイピンを見つめながら、足元へのステップに意識を向けようとしたローズマリーの耳に、彼の声が落ちた。
てっきりからかわれるのかと身を固くしたが、彼が口にした言葉はそうではない。
「ローズ。そろそろ約束の三ヶ月が経つけれど、君の心は決まった?」
ある意味、からかわれる言葉の方が、良かったのかもしれないと本気で思う程、鼓動が大きく跳ねた。彼の言う心が決まったかという問いが、何を意味しているのかは嫌でも判る。
レイドリックと、このまま結婚するか、しないか。
つい先日も自問自答して答えの出せなかった問題だ。
初めて縁談を聞かされた時のように、問答無用で嫌だとはもう思わない。彼との未来が、全く想像出来ないわけでもないし、いっそのこと、このまま流されても良い気もする。
エイベリー子爵家での結婚生活は、他の誰の元へ行くよりものびのびと、生きていくことが出来るだろう。
小さな頃から慣れ親しんだ人々と、実家の次に思い出の多い屋敷ならば肩身の狭い思いをすることもないだろうし、義父母となるエイベリー子爵や子爵夫人も、義姉となるエミリアもこれ以上ないくらいにローズマリーを可愛がってくれている。
何より自分の心が、レイドリックに向いているのなら、この心のままに彼を愛しても良いのではないか……そんな気持ちになる。
けれど、どうしてもローズマリーは最後の最後で、うんと素直に頷けない何かがあった。心の中で何かが警鐘を鳴らすのだ。このままで良いのか、本当にそれで良いのかと。
「……あなたはどうなの」
答えあぐねて、狡いとは判っていても彼の問いに、問いで返してしまった。
でもこの問いも、おかしな類のものではないはずだ。ローズマリーがどう思おうとも、彼の心が自分にないのであれば、結婚など実現しない。
例え彼がローズマリーの心を汲んでくれたとしても、どちらかの心が一方通行の結婚生活は空しくて、やるせないものになるだろう。他の誰かならば諦めが付いても、レイドリックを相手にそれは嫌だ。
自分は多くを望みすぎるのだろうか。でもどうか、彼にも同じ気持ちであって欲しい…そう願いながらレイドリックの顔を見上げたローズマリーは、次の瞬間、小さな失望を抱かずにはいられなかった。
ローズマリーを見下ろすレイドリックの瞳は、全く、いつもの彼と変わりなく見えたからだ。
「俺は、君次第だと思っているよ」
「……どういうこと?」
「言葉どおりだよ。俺は、君が俺で良いと言ってくれるなら、このまま結婚しても良いと思っている」
心なしか、目の前の色彩が色褪せて見えたような気がした。
それならば、と彼の言葉に頷ければいいのに、先程感じた小さな失望が、心の中でじわじわとその大きさを増していくようで、何だか今自分がどんな顔をしているのかも判らない。
どうしてか、上手く呼吸が出来ないような気がした。
胸が息苦しくて、唇を開いて呼吸をしようとしてみても、内側に充分な空気が入ってこない。そのせいか、次第に頭がガンガンと響くような、酷い頭痛までしてくる。
このまま倒れてしまってもおかしくないくらいの痛みに、微かに喘ぎながら、ローズマリーは音楽が途切れた瞬間を狙って、自然とレイドリックから身を離した。
自分の手の中からふわりと抜け出て行ったローズマリーに初めて、彼の表情に小さな驚きと焦りのようなものが浮かんだように見えたけれど、それはローズマリーの願望のせいかもしれない。
「…返事は、もう少しだけ待って」
「ローズ?」
「………ごめんなさい、少し一人にさせてちょうだい」
それきり口を閉ざし、彼に背を向けた。後ろでもう一度レイドリックが名を呼ぶ声が聞こえたように思うけれど、ガンガンと痛む頭痛のせいで周囲の賑やかな音も、良く聞き取れない。
足を前に踏み出す度に、どこを歩いているのか判らない、ふわふわとした頼りない感覚と揺れる視界が気持ち悪くて、何度も倒れそうになるのを必死に堪え、やっとの思いで外の庭園へと抜け出た。
幸いにも舞踏会は今が最高の盛り上がりを見せており、外に出ている人の姿は少ない。庭園にしつらえてある、白い華奢なアーチ状のデザインを重ね合わせて作られたベンチも今は無人で、そのまま崩れ落ちるように腰を掛けた。
同時に零れ落ちた溜め息が、心を重く塞ぐ。そうしながら、どうして自分はこんなにショックを受けているのだろうかと思った。
レイドリックは自分と結婚しても良いと言ったのだ、やはり最初の頃に女として見ろと言われても困る、と言っていた時に比べれば随分な進歩だ。
少なくとも結婚しても構わないと思える程には、自分を妹のような幼馴染みではなく、一人の女性として見てくれていると言うことだ。そしてその程度の好意も、多分持ってくれているからこその言葉だと思う。
これまでに誰とも、結婚する気になれなかったと言っていた彼が、自分とはそうしても良いと考えてくれたのなら、それはとても喜ばしいことのはずだ。
それなのに、どうして喜べないどころか、こんなに悲しい気持ちになるのか。
答えはすぐに判った。むしろ、最初から判りきっていた。レイドリックが、ローズマリーの期待していたことを言ってくれなかったからだ。
結婚してもいいとは言っても、結婚したいとは言ってくれなかった。
君が俺で良いのならとは言っても、彼が自分が良いのだとは言ってくれなかった。
肯定的に見えて、裏を返せばローズマリーが嫌だと言えば、きっと彼は抗うことなく身を引くのだろうと思えたことが、悲しかった。
それが今のレイドリックの心を表しているように思えてならない。
多分彼は自分を好いてくれているだろう。でも、愛してくれてはいない。諦めようとすれば、諦められる程度の気持ちしかない。どうしても自分を欲しいと望んでくれるほど、想ってくれてはいない………
馬鹿だなと思う。自分は何を期待していたのか。どんな言葉を望んでいたのか。
愛される努力など、何もしていなかったくせに。
自分ではただ流されるだけで、何もしていなかったくせに、愛して欲しいだなんてただの自分の我が儘だ。
これまでの三ヶ月間、自分は何をしてきただろう。ただ戸惑いながら、彼に引っ張られて、エリザベスの助言に頼って、周囲の目を気にしていただけだ。私はこれだけのことをしたのだと、胸を張って言えるようなことなど、何もしていない。
それではレイドリックが自分に、好意以上の気持ちを持てなくても仕方ないではないか。




