第五章 あなたを信じたい 3
目と鼻の先に、彼の礼服の胸元が見える。
耳元で息づかいを感じたとたん、全身に走った緊張の原因が、嫌悪でないことは誰よりも自分自身で良く判っていた。
「ちょっと、レイドリック……!」
いくら何でも近すぎると、彼の胸を片腕で押して腕を突っ張ろうとしても、びくともしない。どんと彼の胸を、抗議するように軽く打っても無駄だ。
どくどくと心臓が、まるで耳の後ろにでも出来たかのように脈打つ鼓動が頭に響き始める。もう片方の手に握ったグラスを、落とさないようにするのが精一杯だ。
「ねえ、ローズ。一つ、忠告をするよ」
背を抱き寄せていない方の手の指先が、ローズマリーの頬を撫でた。びくっと大げさな程に震える彼女の反応に、気付いていないはずがないのに、レイドリックの半ば強引な抱擁はローズマリーを解放してくれない。
「その気のない相手に、さっきのような熱心な視線は向けては駄目だ。男は単純だから、自分が特別に想われているのかとすぐ誤解してしまう」
それは、先程のダンスでの時のことだろうか。
あの時のレイドリックの、普段の彼らしからぬ反応はそう言うことだったのだろうか?
だとしても、彼があんな仕草を見せるのはおかしいと思う。他の誰でもない、相手はローズマリーなのに……あれではこちらの方こそが、意識されているように思えてしまうではないか。
触れられている頬とは逆の耳元に唇を寄せられて、くすりと彼が微かに笑う吐息が耳朶から直接、全身に伝わって来た。
「それとも少しは、俺という存在は、君の中でこれまでと違う特別なものになれたのかな」
同じことをローズマリーも、彼に訊きたい。けれど今、この自分の唇からは、何一つ言葉らしい言葉を発することが出来ない。
果実水で潤ったはずの喉も、いつの間にか再びからからに渇いていて、喉の奥で言葉が絡んで塞がってしまったかのようだった。
何故、どうしていつの間にこんなことになってしまったのだろうと、痺れそうになる頭で必死に考えた。自分の問いが悪かったのか、それともこれも、彼の誤魔化し方の一つなのだろうか、あるいはからかわれているのか。
からかっているのだとしたら、これは少しやり過ぎだ。笑って許せる範囲を超えてしまっている。
もしそうなら、冗談は止めて欲しいと、精一杯の意地を張ってキッと視線を上げたローズマリーは、そこでレイドリックの顔を見て完全に言葉を失ってしまった。
からかっているとは到底思えない瞳をした、彼の顔がそこにあった。男女のことなど殆ど知らない初なローズマリーでも判る、幼馴染みが初めて見せる「男」という性を強く感じさせる色めいた瞳だ。
普段幼馴染みである自分には、決して見せなかった彼の持つ知らない瞳に、小さな恐れと戸惑いと、自分では説明出来ない正体の知れない感情を抱いて、真っ直ぐにその瞳を見返すことが出来なくなる。
完全に、狼狽えてしまっていた。どうしたら良いのか判らない。
頬の肌の感触を楽しむように撫でていたレイドリックの指先が、耳朶に触れ、さらにその後ろの綺麗に髪を結い上げて露わになっているうなじに触れる。
これ以上は駄目、これ以上は無理。かちかちに固くなって首を竦めるローズマリーへの攻めは、まだ止まない。
「ローズ。……キスをしてもいい?」
「っ…!」
彼の言う、この場合のキスが、親愛や友愛による頬や額へのキスではないことは、この状況では嫌でも判った。そもそもそう言うキスなら、彼はお伺いを立てたりなどしない。
それをわざわざ尋ねると言うことは……最初に彼と交わした約束を思い出して、口から心臓が飛び出そうになる。
特別なキスの意味が、まだローズマリーには判らない。判らないまま頷くことは出来ないと思うのに、うっかりするとこの場の勢いに流されてしまいそうになる自分に、さらに動揺する。
「ローズ?」
答えを急くように繰り返し名を呼ぶレイドリックに、辛うじて声らしい声を出すことが出来たのは、もはや快挙と言っても良かった。
「……っ…だ、駄目…っ」
彼はどういうつもりなのだろう。自分達はまだ、そんな関係ではないはずだ。
それなのに……彼の考えていることが判らない。
同じくらい、これほど狼狽えてしまう自分の心も、ローズマリーはまだ考えたくない。例えば薄々、その原因に心当たりがあったとしても……それを直視する勇気がまだ無いのだ。
「駄目なの?」
「………っ」
「どうしても?」
固く目を閉じ、こくこく何度も頷く。必死に同じ動作を繰り返すローズマリーの反応に、さすがにレイドリックも無理矢理どうこうする意思はないらしく。
「ちぇ。まだ駄目か」
心底残念そうな声を出して、それでも最後の悪あがきとばかりに、ローズマリーの目尻の端に、ちゅっと軽い音を立てて口付けてから、これまでのことが嘘かと思うくらいに実にあっさりと身を引いた。
ご丁寧にローズマリーが、こぼしそうになっていたグラスを彼女の手から、ひょいと抜き取ってだ。
「じゃあ、続きはまた今度で」
艶めいた一切の雰囲気を綺麗に消し去って、何事もなかったかのようにいつもの顔でレイドリックがにっこり微笑む。でも今、彼のその姿は、ローズマリーには悪魔か何かにしか見えない。
今のはなんだ。そして、また今度って何なんだ。
自分がこれほど動揺しているというのに、相手がケロリとしている様が何だか無性に腹が立つ。
油断するとその場に座り込みそうになるのを、手すりに縋りついて必死に我が身を支えながら、今もまだ引かない全身の熱にわなわなと身を震わせて、せめてもと必死に睨み付けた。
が、それも腰砕けの真っ赤に肌を染めた状態では、百分の一も効果が無いだろう。
なんて男、なんて男、なんて男!
百回繰り返しても足りない、罵る言葉を噛み締めながら、それでもローズマリーは必死に自分の足で立っていた。
そんなローズマリーに、レイドリックが実に爽やかに笑う。その爽やかさが逆に胡散臭すぎて、間違いなく確信犯だと実感させられる。
「手をお貸ししましょうか、お姫様?」
「結構よ、このけだものっ!」
まともに歩けるようになったら、絶対、必ず、その足を力いっぱい踏みつけてやる。固く心に誓って、ローズマリーはようやく喉を通るようになった、悲鳴のような声で叫ぶのだった。
結局レイドリックへと向けた問いははぐらかされ、やはり何も聞き出すことが出来なかったとローズマリーが気付いたのは、屋敷に無事に送り届けられた後のことであった。
この夜の舞踏会でのレイドリックのルイーザへの対応は、当たり障りのない無難なものだった。少なくとも、すぐ傍で見ていたローズマリーはそう感じた。
レイドリックにしては、やはり少しばかり堅さが見える対応ではあったけれども、言うべきことは言い、決して相手に対して無礼にはならない常識的な範囲だったはずだ。けれどもこの夜を境に、社交界ではまことしやかな噂が流れ始める。
無責任に噂を流す人々にしてみれば、過去に色恋沙汰が噂された二人が顔を合わせて会話をした、ということだけで充分らしい。
流れている噂の内容はこうだ。
ボローワ伯爵夫人、ルイーザは嫁いでからも昔の恋人にご執心。レイドリック卿と共に夫が亡くなる時を今か今かと待ち構え、念願が叶った今になって二人はよりを戻そうとしている。ああ、なんてお気の毒なボローワ伯爵と、レイドリック卿のご婚約者でしょう。
と。
これを初めて耳にした時、予想していたとは言え余りにも馬鹿馬鹿しい噂の内容に、怒りを抱くよりも呆れる方が先だった。お陰でローズマリーは、あの夜以来どこへ行ってもあちらこちらから、同情と好奇心旺盛な視線を向けられてうんざりする。
しかもその殆どの人々が、これ見よがしにひそひそと内緒話をしておきながら、ローズマリーが視線を向けると、意味深にピタリとその会話を止めてしまうのだ。これではあなたの噂を面白おかしくしているところですよ、とご丁寧に教えてくれているようなものだ。
とんでもなく迷惑な話である。
レイドリックの婚約者として名と顔が知られる以前は、社交界と距離を置いていたこともあるが、さして目立たない男爵令嬢として噂の渦中に置かれることは無かった。
せいぜいが、兄デュオンの妹として、お愛想的に笑顔を振りまかれ、ダンスに誘われることがあった程度で、それも一度や二度の話である。
それが今はどうだろう。自分を知らない人間の方が少ないのではないか、と思えるくらいにローズマリーは、慣れない人々の視線や囁き声に、既にかなりのストレスを溜め込み、辟易している。
だからと言って、噂話に花を咲かせている人々に、いくら言葉で抗議したところで無駄なのは明らかだ。言えば言う程に、あること無いこと脚色を付け加えられて、さらに広がりを見せるのは判り切っていた。
人前では噂など全く気にしていないとばかりに顔を上げ、微笑みを浮かべ続ける努力をしているものの、内心は心穏やかでは到底いられない。
客観的に考えて、ルイーザ自身が新しい恋をする…それ自体は結構なことだ、未亡人で夫の喪も明けて、本来ならば何の障害もない。
元々資産家だったボローワ伯爵は、充分な財産を妻に残してもいる。
二人の間に残念ながら子供は誕生しなかったようだが、夫が残してくれた財産でルイーザのこの先の人生は、充分快適に過ごしていけるはずだ。恋人との新しい人生を歩むのにも、そうした財産は大いに役立ってくれるに違いない。
彼女が再婚するとなると、相手の身分により問題が出て来る可能性もあるけれど、未だ恋の段階であれば誰に責められる理由も無いはずだ。
けれどもその相手が、レイドリックとなると社交界での扱いは全く変わってくる。実際に見た者がいるそうだ。とある夜ルイーザとレイドリックが人目を憚って、互いを抱きしめ合っていたと。
そして意味深に顔を寄せ合い、何事かを囁き合っていたと。あれは間違いなく愛を囁き合う恋人同士の姿にしか、見えなかったと。
馬鹿馬鹿しい噂だ。
二人の姿を見た目撃者の言う日時にはレイドリックはノーク男爵家の、ごく内輪の晩餐の招待に応じて訪れ、ローズマリーの隣の席に座っていたのに。その時確かに自分の隣にいた人が、どうしたら同じ時刻に別の場所で、ルイーザと抱き合うことが出来ると言うのだ。
ローズマリーがどんなに否定しても、人々は自分を影で裏切っている恋人を庇う、可哀想な令嬢、という目でしか見て貰えないことが苛立たしくて仕方がない。
けれど、ローズマリーの心を一番波立たせるのは、周囲から聞こえて来る噂話よりもレイドリック本人の言動だ。
こうまで人々の間で噂が広まっていると言うのに、レイドリックはルイーザについての説明を、一切ローズマリーにしない。
本来ここまでのことになれば、過去のことだと断った上で、せめて簡単な説明をしてくれても良い物を、不快な思いをしているローズマリーを気遣ってはくれても、この件になると頑として口を開こうとしなくなる。
余計なことばかり饒舌になったり、からかったりしてくるくせに、肝心なことはのらりくらりとはぐらかし、綺麗に笑いながら、笑顔でその本心を隠すのだ。
彼に何か考えや、思うことがあるのだろうと思っても、頑ななその態度が逆に噂を肯定しているような気にさえなって来てしまう。
しかも口を閉ざすのはレイドリックだけでなく、兄のデュオンや、レイドリックの父親であるエイベリー子爵まで同じ。それが余計にローズマリーに疎外感を抱かせた。
どうしてレイドリックは、自分に何も教えてくれないのだろう。どうして、言い訳くらいしてくれないのだろうか。
彼にとっては言う程のことでも無いから?
それとも、彼にとって自分は、あえて説明をするまでもない程度の存在でしかないから?
だったら何故、あんな思わせぶりな態度を取るのか。
何一つ教えて貰えないのに、噂話の矢面に立たされる自分の立場で、一体どうしろと言うのだろう。不満と苛立ち、そして心配で表情を曇らせるローズマリーに、兄は言う。
「レイドリックを信じてやりなさい」
と、ただそれだけを。
ローズマリーだって、悪意の感じられる噂などこれっぽっちも信じていないし、鵜呑みにするつもりだって無い。どんなに飄々としていたとしても、彼は笑顔で自分を裏切るような無責任な真似をするような男ではないはずだ。
でも、あまりにも説明がなさ過ぎると、心が揺らいでしまう。
何故彼はそこまでして口を閉ざすのか、理由が判らないから尚更に。
もしかしたら自分は、レイドリックに信用されていないのだろうか……そんな考えが頭に浮かんで、打ち消すのには努力が必要だった。
そうしたローズマリーの内心の努力を嘲笑うように、噂は衰える気配を見せない。それどころかますます勢い付くばかりだ。
全てを話して欲しいとは言わないから、少しだけで良いから、自分を信じさせる努力をして欲しかった。
レイドリックが噂など全て嘘だと、そんなことはあり得ないと、過去のこともルイーザのことも事実とは違うのだと、そう言ってくれれば、ローズマリーは信じるのに。
例えそれこそがどんなに見え透いた嘘であっても、信じたいと思うのに、何一つ説明してくれないから、何を信じたらいいのか判らなくなる。
レイドリックを疑いたくない。幼馴染みだから、と言うだけでなく、ローズマリー個人の気持ちでそう思う。
あなたを信じたい。
だからどうかお願いだから、信じさせて。
ただ一途に願うローズマリーの願いは、まだ、彼の元には届かない。




