第五章 あなたを信じたい 2
レイドリックに誘われて、バルコニーへと出たローズマリーは、柱の影になる場所に身を寄せながら一人佇んでいた。と言うのもレイドリックが、ドリンクを取ってくるからと告げて、彼女の傍を離れたからだ。
既に彼と幾度かパーティに誘われ参加している為に、自分の顔は他の貴族達の間にもレイドリックの婚約者として広く知られている。その為か、一人になれば、あれやこれやと様々な人々から声を掛けられることも増えた。
まだ声を掛けて来る人が、ローズマリーの知っている人ならば良い。けれども今まで、極力社交界を避けて来たローズマリーに、こういった場でそう多くの知り合いがいるわけもなく、下手をすれば殆ど見覚えのない人々ばかり、と言うこともある。
丁度、今夜のように。
話し掛けられればもちろん、無難に受け答えはする。それでも、話し掛けてくる人全てが好意的とは限らないし、知らない人との会話は酷く気を使うので疲れてしまう。それが嫌で、レイドリックが傍から離れている時は、極力人目に触れないように目立たない場所に隠れる癖が付いた。
彼と将来本当に結婚して、子爵夫人となるのなら、これでは駄目だ。
本当ならもっと積極的に、自分から声を掛けて行くくらいでなければ、社交的な彼の妻としては相応しくないと判っていても、ついつい逃げたくなってしまう。
特に今は、他人にあれこれと気を使って、気の利いた会話が出来るだけの余裕がない。ローズマリーの頭の中は、レイドリックとルイーザのことでいっぱいになっている。
今はもう終わってしまった過去のことだ。気にしても仕方がないし、昔に恋人がいたことそのものを責めるつもりなど毛頭無い。嫉妬しないと言うと残念ながら嘘になってしまうが、責めても不毛な結果になることがはっきりとしている。
それよりもローズマリーが気になるのは、ルイーザとの過去がレイドリックが変わってしまった原因なのだろうかということの方だ。
いくら自分が考えても、本当のところはやっぱり、彼本人に確かめなければ判らないことだ。でもそれを、訊いてしまっても良い物かどうか、その判断が付かない。何も知らないフリをし続けた方が、彼の為になると言うこともある。
ローズマリーが過去の出来事に触れることで、彼の心の傷を抉るようなことになってしまうかもしれないと思うと、いくら幼馴染みであってもなかなか、無遠慮に訊くことは憚られる。
どうしたものか。一人では答えの出ない問題を、ぐるぐると考え続けていた時だった。
ふと、傍らに人の気配がした。レイドリックが戻って来たのかと、そちらへと顔を向けてみたが、視線の先に立っている人物は彼には似ても似つかない少女だ。
年頃は自分とそう変わらないだろう、一目で身分のある貴族家のご令嬢と判る少女で、笑えばさぞ可愛らしいだろうその顔に、今は険しい表情を浮かべて黙ってこちらを見つめている。
「……あの?」
誰だろう。彼女の名前に全く、心当たりがない……そこまで考えて、ハッと気がついた。以前、ラザフォード伯爵夫人、レノリアに招待されて出向いたガーデン・パーティで、レイドリックを取り囲みながらも、ローズマリーに厳しい眼差しを向けて来ていた令嬢の一人ではなかったかと。
その記憶はどうやら正しかったらしい。思わず顔を引きつらせてしまったことで、相手の令嬢もローズマリーが自分の心当たりに気付いたことを察したようだ。
ガーデン・パーティの時にも、笑顔を向けるのはレイドリックにばかりで、ローズマリーには笑顔の欠片さえなかったけれど、今はあの時に輪を掛けて、愛想と言うものがない。
自分が敵視されていることは疑いようもないけれど、何故彼女は黙ったまま、立ち去ることもせずにローズマリーの傍らで立ち尽くしているのだろう。
こちらから何か、話し掛けてみるべきだろうか? だとしても、一体何を話せば?
うっすらと嫌な汗が滲ませながら、とにかく何か言わなければとその言葉を捜し始めた時だった。
「…………あなたは狡いわ」
ぽつりと零れ落ちた令嬢の言葉が、ローズマリーの耳に届く。言葉も無く見つめる先で、令嬢のこちらを見る瞳に、じわりと涙が浮かび上がる様がはっきりと判る。その涙が、余計にローズマリーから言葉を奪った。
「あなたは狡い。幼馴染みだと言うだけで、あの方を手に入れられるなんて」
どんな嫌味や暴言をぶつけられるよりも、ぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。
「私が、どんなに頑張って見ても、その他大勢の一人にしかなれないのに」
「………」
涙で潤んだ瞳が、ローズマリーから逸らされて宙を彷徨う。こんなことを言っても仕方がない、と言うことはきっと、誰よりも言っている本人が判っているだろう。彼女だって多分、好きでこんな恨み言を、ローズマリーにぶつけているわけではない。
他に、気持ちのやり場がないのだ。
それだけこの令嬢が、レイドリックを想っていると言うことなのだろうと判る。彼女なりに、本当に好きなのだろう。嫌味を言うことも、こうして直接恨み言を向けるのも、みっともないことだと全て承知の上でそれでも言わずにはいられない程の気持ちを、ローズマリーは誰かに抱いたことがあるだろうか?
少なくとも今すぐには思い出せなかった。考えて見れば自分は、本気で誰かに恋をしたこともまだ無い。
そんなローズマリーに、一体何が言えるのだ。想い人が他の女性と結婚すると聞かされて傷ついているこの令嬢にも、過去に恋人を奪われ不本意な噂を流されて、やはり傷ついただろうレイドリックにも、相応しい言葉など何一つ言えない。
出来たことはただ、瞳を伏せて沈黙するだけだ。
なんだか、ローズマリーの方まで泣きたくなって来た。いっそ小さな子供のように、わあっと声を上げて泣けたら、どれだけすっきりするか知れない。
そうこうしているうちに、目の前の令嬢はいつの間にか、姿を消している。言いたいことを言って気が済んだのか、それとも反応のないローズマリーを相手に、より一層惨めな気分になったのか……多分後者だろうなと思っていた時に、今度こそ本当にレイドリックが戻って来た。
「ごめん、ちょっと知り合いに捕まって遅くなって……ローズ?」
「え…?」
「何かあった?」
「……どうして?」
「今にも、泣きそうな顔をしているよ」
両手に持っていた二つのグラスを片手に持ち直し、空いたレイドリックの片手の指先がローズマリーの目元を拭う。どうやら本当に、うっすらと涙ぐんでいたらしい。
慌ててハンカチで目元を押さえるローズマリーを、ひたと見つめながらレイドリックが問う。
「誰が君を泣かせたの? 教えてくれれば、それなりの報復はしてあげるよ?」
「…そう。じゃあ、自分で自分の頬を殴ってくれる?」
「俺なの!?」
直接的な意味では違うけれど、間接的な意味ではその通りだ。だけどレイドリックは、自分の何がローズマリーを泣かせたのか、その理由は判らないままだろう。ローズマリーも、詳しい事情を彼に伝えるつもりもない。
冗談よと笑って、彼の手からグラスの一つを受け取ると唇を付けた。口の中に広がるのは、爽やかな味わいの果実水だ。
知らないうちに緊張かなにかで、乾いていた喉が潤されるにつれて、少しだけ気持ちが落ち着いていく。
それでも何かが胸につかえたような気持ちまでが晴れた訳ではない。はあ、と無意識のうちに零れ落ちた溜め息は、自分でも驚く程物憂げなものに聞こえ、それが余計にレイドリックの心配を誘うと判っていても、どうしようもなかった。
「ローズ」
本当に、どうしたのか。何があったのかと、彼が尋ねるより早く。その言葉を封じるように、逆にローズマリーが問う言葉を向ける。
「レイドリックは、誰かを本当に好きになったことはある?」
努めて明るく、世間話のような口調で尋ねたけれど、やっぱりローズマリーのこの問いは、彼の耳には不自然な話題に聞こえたらしい。
レイドリックは一瞬だけ驚いたように目を丸くして、それから苦笑混じりに口元を歪めた。
「……それは、今の君との会話に、相応しい話題とは思えないね」
一応は、過去の女性関係を躊躇いなく話すほど、無神経ではないらしい。そのことには安堵しながらも、ローズマリーは引き下がらなかった。
「でも、そう言えば私、あなたの女性関係の噂話は聞いていても、今現在恋人がいるかどうかは聞いていなかったわ。…………他に好きな人がいるのか、いないのかも…」
もちろん心に決めた女性が他にいるのなら、ローズマリーとこんなことにはなっていなかっただろう。それならそうと、彼ははっきり口にしたはずで…それが今、こうしたことになっているのだから、多分正式に付き合っている女性も、これと思う人もいないのだろうと思う。
けれどもしも…もしもレイドリックが他に気になる女性がいて、でもその女性とは結ばれることが出来ない状況なのだとしたら、どうだっただろう。
これは、ストレートにルイーザとの過去を訊く勇気は無い今の自分に出来る、精一杯の質問だ。
「別に本当のことを言ったからって、怒ったりなんてしないわよ。今のレイドリックの年齢を思えば、本気の恋の一つや二つしていたっておかしくないもの」
「さあ、どうかな。それよりも君の方はどうなの?」
「私?」
まさか自分が尋ね返されるとは思っていなかった。
純粋に驚いて目を丸くすれば、何故かレイドリックは少しばかり面白くなさそうな顔をして……言ってしまえば拗ねたような顔をして、自分の手のグラスに口を付けている。
自分に語れるほどの恋愛経験など無いことくらい、想像が付くだろうにと。そう思ったのだが。
「……アッシュギルは、君のお気に入りなんだろう?」
ガーデン・パーティでのことを、彼も覚えていたようだ。ああ、と心当たりに頷いて、それから思わず笑ってしまった。あまりにも、現実的ではないような気がしたからだ。
「アッシュギル様との間に、何かなんて起こりようがないわ。私が一方的に憧れていただけよ」
「過去形?」
「今でも素敵な人だとは思うわよ? でももう、あの方とどうにかなりたいなんて思ってないわ」
「もう、って言うことは、どうにかなりたいと思っていた時もあったわけだ?」
「………随分食い下がるわね、そんなに気になるの? 自分のことは何も言わないくせに」
うっ、と一瞬だけレイドリックが言葉を詰まらせる。けれどそれも、ほんの一瞬のことだ。すぐにどこか挑戦的なローズマリーの問いに、ふっと艶めいたな笑みを浮かべて、手にしていたグラスを近くのテーブルに置きながら、一歩、ローズマリーとの距離を詰めてくる。
普段と雰囲気の変わったその様子に、知らず知らずの内に足が後ろに下がった。けれどレイドリックは、ローズマリーが後ろに下がった以上の距離をさらに近付く。
「そりゃあ気になるよ? 君の言葉次第では、俺はアッシュギルに、決闘を申し込まなければならないかもしれないんだし」
「決闘って」
まさかそんな、と呟いている間に背がバルコニーの手すりにぶつかった。これ以上後ろへは下がれない、それなのにレイドリックはさらに足を前へと踏み出してくる。これではまるで彼の決闘相手は自分になったかのようだ。
常に前へ前へ攻め出て相手を追い込む、御前試合での彼の戦い方を思い出す。
思わずバルコニーから身を乗り出すように背を仰け反らせたローズマリーは、身体のバランスを崩すよりも先に背に回ったレイドリックの腕に支えられて、ぐいと手前に引き寄せられて、はっと息を飲んだ。




