第五章 あなたを信じたい 1
がやがやと賑わう夜会で、行き交う人々をぼんやりと見つめていたローズマリーは、不意に自分の顔に寄せられた、長い指先に驚いて目を丸くした。
何、と視線を上げれば、ローズマリーの顔を幾分心配そうに覗き込む、レイドリックの顔が見える。
「どうしたの、元気がないみたいだけど。気分でも悪い?」
どうやらローズマリーの体調を心配して、自分の手で熱を測ろうとしたらしい。わざわざ、履いていた手袋を脱いでまで。
思わず俯くと、今度こそ頬に、そして額に彼の手の平が押し当てられてくる。感じる体温は、むしろ彼の方が高いくらいだ。その体温と、自分よりも大きく固い手の平の感覚が心地よいと思う自分に、にわかに狼狽えて、慌てて首を横に振る。
「大丈夫よ、何でも無いわ」
「そうは見えないけど?」
「……本当だもの」
素手の方の彼の手を握り締め、自分の視界に入らない高さにまで降ろす。それきり、きゅっと唇を引き結ぶと、レイドリックも今、ローズマリーから何かを聞き出すことは難しいと察したらしく、意外にあっさりと自分の手を引くと手袋をはめ直した。
こういうところはやはり幼馴染みだ。お互いに相手の様子で、口を開くつもりがあるのかないのかが、すぐに判ってしまう。だからそう言う時には無理に追求はしない。
便利だけれど、少しばかりもどかしい。時には無理だと思っても、強く訊いてきて欲しい時もあるのにと、今初めて考えた。
そんな風に考えてしまう自分に、また溜め息が出そうになる。
追求する代わりにレイドリックが起こした行動は、そんなローズマリーの手を、今度は彼の方から取って、会場の中央へ軽く引く仕草だ。目を向けた先では、何組もの男女が互いに手に手を取り合い、優雅なダンスに興じている。
彼の意図がどういった物であるのかは明白だ。
「身体の具合が大丈夫なら、少し踊ろうか。身体を動かせば、気が晴れることもあるよ」
身体的な問題でないなら、ローズマリーの元気の無い様子は、何か悩み事があるせいではと、彼は考えたらしい。そしてそれは間違ってはいなかった。
とはいえ、ローズマリーの悩みの主は、目の前の自分自身であることまでは判っていない様子だけれど。
「足をぺちゃんこにしたくないから、私のダンスの相手は嫌だって言っていたのは、どこのどなただったかしら?」
「うん、そのどこかの誰かさんは実に賢明だと思うよ。俺も、二ヶ月くらい前までならそう思っていたかな」
二ヶ月前。
丁度二人の間に縁談が持ち上がり、そして一応の努力はすると約束したあの時だ。あれからもう二ヶ月……いや、まだ二ヶ月と言うべきだろうか。時の流れが速いのか、遅いのかはその時々で変わる。
彼との約束した期限まで、残り一ヶ月余りだ。あと一ヶ月先には、自分はどんな結論を出しているだろう。
「あら、たった二ヶ月で随分、劇的な心境の変化ね」
彼も。そして、自分も。
内心で込めた意味にレイドリックは気付いたのか気付いていないのか、多くの女性が目を奪われる、愛嬌のある笑みを向けて寄越す。悔しいことに今は、ローズマリー自身も多くの女性の中の一人だった。
自分の魅力を良く知っている人間は、こういう時狡いと思う。ちょっとした言葉や仕草で、相手の抵抗する意思を奪ってしまうことが出来るのだから。
レイドリックに手を引かれる形で、中央へと進み出ると、周囲の人々から結構な数の視線が注がれるのを自覚した。今に始まったことではないが、やはりどこへ行ってもレイドリックは、その名も顔も良く知られている。
そして、今は自分との縁談も。
「相変わらず有名人ね。沢山の人があなたを見ているわよ。中には、とても友好的とは言い難い方の視線もあるようだけれど」
ちらと見やった先では、この舞踏会の会場に入ってからずっと、まるで睨むようにこちらを不機嫌そうに見つめている貴族の姿がある。誰が見ても彼が、レイドリックを良く思っていないことが判る程に露骨な視線だ。
当の本人はと言うと、全く気にしていないように小さく肩を竦めて見せる程度だったが。
「ああ、ザンピエール伯爵か。あの人はいつもああだから気にしなくて良い。ただ、君は迂闊に近付いて相手にしては駄目だよ、下手に絡まれたら大変だ」
「一体嫌われるような何をしたの?」
「別に何も? 向こうが一方的に因縁を付けてくるだけ。それよりも、他の皆が見ているのは君の方だと思うよ、可愛い俺のお姫様?」
「……っ……もう! 相変わらず恥ずかし気もなくぺらぺらと、口から先に生まれて来たような人ね…! どうしてそんなになっちゃったのかしら、昔はそうじゃなかったのに…!」
「そう怒らないで、ローズ。笑って。見られているよ」
くすくすと笑いながら、戯けた仕草で空いている方の片手の人差し指を、自分の唇の前で立ててみせる。怒るのも、沢山の人に見られるのも誰のせいだと、彼の腕に手を掛けるフリを装いながら、ぎゅうっと抓った。
それなりに力を込めた報復だが、お利口にもレイドリックは、反応は顔に出さない。にこにこと微笑んだまま、ほんの僅か、ローズマリーに判る程度に口の端を引きつらせた程度で。
でもローズマリーにはその程度の反応でも充分だった。満足そうににっこりと笑顔を作れば、彼もまたにっこり微笑んで……心なしかお互い取り合う手にひっそり力が籠もったのは、多分気のせいだろう、きっと。
ここにエリザベスがいたら、きっと二人の間に無言で散った火花が見えた、と証言するとしてもだ。
レイドリックとのダンスは、考えて見れば小さな頃以来のことだ。まだあの頃はダンスのステップも何も知らなくて、ただ滅茶苦茶に足を踏み出す度にレイドリックの足を踏んづけた。
その度に眺めていた兄は笑い、レイドリックは痛みに顔を顰めつつも許してくれていた。多分きっと、小さな子供の体重であっても、固い靴底で何度も踏みつけられれば、相当に痛かっただろうに、ローズマリーが飽きるまでずっと相手をしてくれていたことを思い出す。
今はあの時のようにはならない。
ローズマリーはあれからちゃんと、ダンスをマスターしたし、何より彼のリードは流れるように優雅で、自然と必要な場所に足が出る。今のレイドリックなら例え、ローズマリーが全くダンスを知らなかったとしても、それなりに周囲に見えるように導いてくれるだろう。
昔はただ、ローズマリーにされるがまま、足を踏みつけられるがままだったはずなのに、一体いつの間にこんなに上手になったのか……幼馴染みとは言えど、知らないことばかりだ。
目が合うと、彼は微笑む。微笑みの向こうに何があるのかが知りたくて、そのサファイアの瞳をじっと見つめる。
すると、逸らさないローズマリーの視線に何を感じたのか、レイドリックが僅かに戸惑うように瞳を揺らがせた。心なしか彼の目元が、うっすらと赤く染まって見える気がする。
何故、と疑問を抱いたところで音楽が終わり、そしてそれを待っていたかのように第三者の声が二人の間に割り込んできた。
「レイドリック様」
その声が耳に届いた時、ローズマリーの鼓動はどれくらい高く跳ねただろうか。まるで素手で、心臓を握り締められたかのような痛みを覚え、全身が強張る。
ぎこちない仕草で振り返った先にいるのは、ローズマリーが一瞬にして想像した通り、ルイーザだった。始め、会場に訪れた時には彼女の姿は無かったから、少し安心していたのだけれど……どうやら見落としていたか、あるいは遅れて到着していたかのどちらからしい。
彼女が同じ会場にいることをローズマリーが知らなかったのと同じように、レイドリックも知らなかったらしい。そう、露骨ではないものの確かに彼は驚いて、けれどすぐに気を取り直したように表情を作る。
当たり障りのない微笑を浮かべた、作り物の表情だ。
周囲から小さく、ざわめく声が聞こえ、先程二人がダンスを踊った時以上の視線が注がれているのを感じる。もう六年も前のこととはいえ、それなりに社交界を賑わせた噂話は今もまだ、多くの人々の記憶に残っている証と言えるだろうか。
それらの視線は明らかに、六年ぶりに顔を合わせた、過去の恋人同士がどのような会話をするのか、そしてそこにローズマリーを混ぜてどのようなやりとりをするのかを、確かめようとする意思がある。
その殆どは好奇心と期待。そして微かな嫌悪と同情。
まるで自分が珍獣にでもなったかのような気分にさせられて、知らずローズマリーの肌は、寒くもないのに泡立っていた。
そんなローズマリーへと、ルイーザが顔を向けて来る。ふんわりと、上品で儚い、繊細なガラス細工のような微笑を浮かべながら。
「先日はきちんとご挨拶もせず、申し訳ございませんでした。懐かしい方にお会い出来て、つい、気を取られてしまい、大変失礼致しましたわ」
懐かしい方。それが誰であるのかを、考えるのは余りにも無駄な行為だ。
口の中に何か苦い物が広がって行くような、微妙な思いを飲み込みながら、ローズマリーも相手に微笑み返す。
「いいえ、どうぞお気になさらず。私の方こそ、ご挨拶もせず失礼しました。ローズマリー・ノークと申します。どうぞお見知りおき下さいませ」
自分は上手に笑えているだろうか。
何だか周りの様子も、ルイーザの顔も、そしてレイドリックがどんな顔をしているのかも良く判らない。自分はどうして、これほど動揺しているのだろう。
まるでとっくに過ぎ去ったはずの悪夢が、再び夢の中に舞い戻ってきたかのような気分だった。
「こちらこそ。私はルイーザ・ボローワと申します。どうぞ仲良くして下さいね」
何の冗談だろう。彼女は、ローズマリーが過去のことを何も知らないと思っているのだろうか。例えそうだとしても、意味深に自分の恋人の元に現れる女性と、仲良くしたいと思う女性など皆無に等しいだろうに。
からかわれているのだろうかと、穿った感情を抱く物の、ルイーザの表情にはそれらしい物は見えない。とはいえ、今のローズマリーには物事を正しく見抜ける自信など、全くないのだけれど。
こちらの気も知らぬげに、周囲の視線にも素知らぬフリで、ルイーザは続ける。
「三日前に、ようやく夫の喪が明けましたの。社交界から遠ざかっている間に、すっかり色々なことが変わってしまって驚いております。もしご迷惑でなければ、是非、最近のお話をお教え頂けたら嬉しいですわ」
意味深にも取れるルイーザのお願いに、今度答えたのはレイドリックの方だ。
「ボローワ伯爵夫人でしたら、お願いなどなさらなくても進んで、お力になって下さる方が大勢いらっしゃいますよ」
丁寧ながらも、遠回しな拒絶は間違いなく彼女に伝わったはずだ。噂好きな者達は他に大勢いる、他を当たってくれと。
ほんの一瞬、傷ついたような表情を見せたことからも、確かに伝わったと思えるのに、すぐにルイーザは食い下がるように、言葉を続けようとする。
まるで何とか、レイドリックと繋がりを持とうとでもするかのようだ。そんな彼女の姿は、昔の恋人に未練があるようにしか見えなかった。ローズマリーがそう思うのだから、周囲で様子を伺っている人々の目にも同様に映っただろう。
きっとこのことは、今夜この場を始まりに翌日には信じられない程沢山の、貴族達の噂になるだろう。彼らはきっと、こう言うはずだ。
夫の喪が明けたとたんに、未練たっぷりに元の恋人に言い寄る伯爵夫人。未亡人の魅力的な誘惑を前に、果たして彼は墜ちるのか、等と想像するのも不愉快なことを。
もしこれが、お互いが特別な相手がいない状態でのことならば、お互いに大人の男女のこと、どんな関係にもなり得るだろう。けれど今は、レイドリックにはローズマリーがいるのに。どんな理由であろうとも、今は自分がいるのに、彼の隣にいるのに。
まるで自分の存在などないかのように、彼を連れて行こうとするのは止めて。
気がつけば、無意識のうちにローズマリーはレイドリックの右腕に縋っていた。両腕で彼の腕を胸に抱え込むように、しっかりと。多分自分でも、今にも泣き出しそうな顔をしていただろう。
自覚すると、ひどく情けない気持ちになったのは、自分のこの行動がまるで子供が独占欲を露わにしたような行為だと判っていたからだ。
世間で大人と呼ばれる年齢になったならば、もっとスマートに、それでいてさりげなく振る舞う必要がある。感情を露わにして言葉や行動に表すのは、未熟な人間であることを自ら証明するのと同様で、恥ずべき行為だ。
けれどなら、ローズマリーは今この時、どうやって自分の感情を伝えれば良かったのだろうか。周囲の目など気にせずに、レイドリックと言葉を交わそうとする女性を相手に、冷静に対応出来るほど自分はまだ、大人にはなり切れていない。
レイドリックが、自分をじっと見つめているのが、何となく判る。きっと彼も、呆れているだろう……そう思った直後、空いている彼の左手が、右腕に縋り付くローズマリーの手に重ねられる。
その手の温かさに、恐る恐る顔を上げて見れば……彼は、笑っていた。仕方ないなとでも言うかのような優しさと、そしてどこかはにかむ様な、何となく嬉しそうな顔で。
その笑みを口元に刻んだまま、改めてルイーザに向き直ったレイドリックが告げた。
「何かお困りの際にはもちろん、私達もお力になりますよ。ローズマリーもまだ、社交界には不慣れで判らないことも多い様ですし、色々とご助言頂ければ幸いです」
誰もが社交辞令と判る言葉の中に、ローズマリーの存在を強調するのは、彼女の存在を無くしての付き合いはない、という意思表示である。つまり、二人で個人的に会う事も、周囲に特別な関係だと誤解を招くような行動も、するつもりが無いと言う意味にもなるだろうか。
そこまで言われると、さすがにルイーザもローズマリーを差し置いて、これ以上あれこれと言える言葉は思い付かなかったらしい。
少し寂しげな苦笑を浮かべながらも頷いて、
「ええ、もちろん。私でお力になれるなら、是非」
それだけを最後に口にして、それではと二人の前から立ち去って行った。ぴりぴりとした張り詰めたような雰囲気が和らいだのは、彼女の姿が会場の離れた場所へ移動して、別の人間と談笑を始めたのを見届けてからである。
ほっと息を付くのと同時に、腕に縋り付いていた手から力が抜けた。よほど強く握り締めていたらしく、厚手の彼の上着にうっすらと皺がついてしまっている。それを罰の悪い感情を隠すように、指先で擦るように伸ばしながら、小さく小さく、謝罪した。
「………ごめんなさい」
呟きの様なその声は、それでもちゃんとレイドリックの耳に届いたようだ。
「どうして謝るの?」
「だって………子供が駄々を捏ねているみたいだったから…」
「うん、まあ確かに少し…というか、大分? 子供っぽかったと思うけど」
「……あなたは少し、言葉に緩衝材を含められないの?」
事実とは言えど、やっぱり言い切られると、少し傷つくのだ。恨めしげな声を押し出すローズマリーだったが、それに対してのレイドリックの返事は実にあっさりしたものだった。
「事実は事実だからね」
「……」
「でも…俺はちょっと、嬉しかったかな」
「えっ…」
「うん、ちょっと……いや、かなり?」
この時ローズマリーに、咄嗟に何が言えただろう。まるで不意打ちのように囁いて、本当に嬉しそうに笑う彼の笑顔は、まるでそちらの方こそが子供に戻ったかのような素直な笑顔だ。子供っぽいと言うのなら、今のレイドリックの笑顔だって負けてない。
なのに、その笑顔を前にローズマリーの顔には、これまでにないほどに勢いよく熱が昇って行く。慌てて俯いて見ても、頬と言わず、耳朶や首筋までも真っ赤になってしまっては、とてもではないが隠しようがない。
しかも今は夜会だ。昼間のパーティとは違い、首から肩、胸元まで肌の露出の多いドレスでは尚更隠せない。
「ちょっと、外の空気に当たった方が良いみたいだね」
素直なローズマリーの反応に、込み上げる笑いを堪えながら回されたレイドリックの手の平は、暖かな温もりと共に、ローズマリーの肩をその中に包み込むのだった。




