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第四章 振り返る過去 4

「えっ?」

 唐突にも聞こえる彼女の問いに、必要以上に驚いてしまったのは、図星を突かれたせいなのかもしれない。目を丸くするローズマリーに、エリザベスは小さく苦笑して見せてから、御者へと声を掛ける。

「少し、適当に走らせてちょうだい。ゆっくりね」

 すぐに了承を伝えて来る御者の返答に頷き返し、改まって真正面から向き直られるともう、ローズマリーに逃げ場所はない。

「先程のお話しに出ていた、ボローワ伯爵夫人に関わることかしら?」

「…リズは何でもお見通しなのね」

「あなたがとても判りやすいのよ。…まあレイドリック様がお相手なら、いつかは起こる問題でもあると思っていたけれど」

「? リズもボローワ伯爵夫人のことを知っているの?」

 意味深な親友の口調に、今度は純粋に驚いた。レイドリックの恋多き噂話はローズマリーも数多く耳にしてきたが、具体的な相手の女性の名前を耳にしたことはない。あまり社交界に出ることはなかったせいもあるし、意図的に避けていたせいもあるだろう。

 反してエリザベスはローズマリーよりも遙かに人前に出る機会が多い人物だ。目にすることも、耳にすることも、自分より多くて豊かなのは当たり前なのに、そう言ったいわゆる他人の色恋沙汰を彼女が耳にしていることが意外だ。

 頭の中で、立場上仕方ないにしても彼女も、社交界が苦手な仲間だと勝手に思い込んでいたからかもしれない。

 ローズマリーの問いにエリザベスは少しだけ迷う様子を見せた。この話をしてしまっていいものかどうなのかを迷っている素振りに見えたが、他の誰かに面白おかしく聞かされるくらいならば、信頼している友人からきっぱりと言って貰った方が良い。

 先程エリザベスも言ったではないか。レイドリックを相手にするならば、いつかは起こる問題の一つだと。避けて通れないのなら、立ち向かう努力はせねば。

「…そうね。…では、お話をする前提として、これだけはしっかりと心得ておいてね」

「何を?」

「今から私がするお話は、人々の噂話の域を出ないということ。当然だけれど、レイドリック様ご本人から伺ったわけではないもの。噂の全てが、真実とは限らないでしょう」

 つまりは聞いたこと全てを、真実だと思わないで欲しいと言うことだ。一番正しいのは、レイドリック本人から聞くことなのだからと。

「思わせぶりなことを多々なさっているのは事実でしょうし、幾人かの女性とのお付き合いがあるのも本当。広まる噂をご本人が否定なさっていないのもね」

 また、ちくんと心の奥が傷む。その痛みは、先程のサロンでよりも素直にローズマリーの胸を刺した。

「でも、以前も言ったけれど私は、レイドリック様は世間の噂ほど、不誠実な行為を繰り返してこられた方ではないと思っているわ。少なくとも意図的に、女性を傷付けようとなさったことはない。彼はそう言うことが出来る方ではない」

 言い切るエリザベスの言葉は、まるで自分よりもレイドリックのことを良く知っているかのような口ぶりだ。こんな時だというのに、それが少し面白くなくて、心配してくれる親友に対してこんな感情を抱いてしまう自分に自己嫌悪する。

「…駄目ね、私……」

「え? 何が?」

 自分だけに聞こえる様に呟いたつもりだったけれど、狭い馬車の中では彼女の耳にも届いてしまったらしい。突然謝罪したローズマリーに驚くエリザベスに、何でも無いのだと苦笑しながら首を横に振って、先を促す。

「リズはどうしてそう思うの?」

 少しばかりおかしなローズマリーの言動を不思議に思っただろうに、エリザベスはそれ以上尋ねることはせずに、流してくれた。

「そうね、理由は二つあるわ。一つは、彼に好意を持つ令嬢や、実際お付き合いのあった方から、レイドリック様の悪口が出たことが一度も無いと言うこと」

「………」

「本当よ。あの方をご存じの女性からは一度も聞いたことがないわ。お別れをするときにも女性側の事情か、あるいはお互い納得の上でのことのようよ」

 それ以前にレイドリックはそもそも、噂になって困るような未婚の、結婚相手を探しているような若い令嬢とは、夜会での会話以上のことは決してしないらしい。付き合うのはいずれも、恋愛を楽しみたい割り切った女性か、パートナーを失った未亡人かに限るのだと。

 もちろん男女の関係のこと、最初は割り切っていてもその内に本気になってもおかしくはないが、そうした女性のいずれもとレイドリックはきちんと相手を納得させて、別れを告げている。そして一人の女性と付き合っている間は、他の女性を誘うようなことはしない。

 それでもそうしたあっさりと現在の恋を終わらせて、次の新しい恋に移る姿が、本気で女性と付き合っていないというように周囲に見えるらしく、都合よく女性と女性との間を渡り歩いているとやっかまれて「渡り鳥の君」などと言われているらしい。

 これは少し、ローズマリーが抱いていたイメージとは少し違った。もっと節操無しに浮ついた行為を繰り返しているのかとばかり思っていたのだ。

 様々な人の耳や口を経てローズマリーの元に届く頃には、噂話はあれこれと脚色されて随分と華やかなものに変貌してしまっていた結果かもしれない。

「少し安心したかしら?」

「そ、そんなことは別に。……でもそれならもっと早く教えてくれても……」

「レイドリック様ご本人を知っているあなたに、あえて詳しく言う必要は無いと思っていたのよ。口ではどうこう言っても、幼馴染み同士のじゃれ合い。世間の噂よりもあなた自身が、彼のことは良く知っているものだと思っていたから」

「………」

 それを言われると辛い。確かにレイドリック本人を良く知っているくせに、まんまと噂を真に受けて、浮気鳥だの、幼い頃の思い出は所詮思い出にしか過ぎないだの、後ろ向きな考え方をしているのは自分自身だ。

 でもレイドリックだって悪いのだ。そう誤解させる態度を自ら進んで見せるし、噂やローズマリーの言葉も積極的に否定して見せないし。

 それに………少なくとも彼が、どこか変わってしまったのは本当のことだ。改まってどこがどう違うのだと問われても、上手く説明することは出来ないけれど……

「もう一つの理由は、そうね…言うなれば女の勘かしら」

「またそれなの?」

 ついこの間も、同じことを言われた気がする。

「あら、女の勘を馬鹿にしちゃ駄目よ。これまでの経験と観察から基づく推理のようなものですもの」

「それはそうかもしれないけど」

「私は、侯爵家の娘としてそれなりに多くのパーティや夜会に顔を出しているけれど、本当に女性を傷付けても、咎める良心もないどころか、それが男のステータスだと笑う男性が多いことを知っているわ。そう言う殿方は、大体会えば何となく判るの」

 それを見分ける目には少し自信があるのよ、と彼女は笑う。確かにハッシュラーザ侯爵家令嬢ともなれば、ローズマリーとは比べものにならない社交経験があって当たり前だ。年齢は変わらなくても、こなした場数が違う。

 ローズマリーのように、危なげな時に助けてくれる兄は、彼女にはいない。

 それなりに人を見抜く目を持っていなければ、痛い目に遭うのは彼女自身だ。そう言う意味で、エリザベスは人を見る目を養わなければならないと言う、切実な問題がある。

「でもレイドリック様に、初めてお会いした時にはそんな嫌な印象は持たなかった。あなたから、先にお話を聞いていた先入観がないと言ったら嘘になるけれど……それでも、この方とはお友達としてお付き合いしても大丈夫な方だと思ったわ」

「そう…」

「大体、ローズがそんなに大好きな方が、ひどい殿方なはずないじゃない?」

「なっ…!」

 からかうように微笑まれて、とたんに頬に朱が走る。

「ち、違うわよ! 私はただ、幼馴染みとして…!」

「はいはい。幼馴染みとして、彼のことが心配で、気になって仕方ないのよね。ええ、幼馴染みを心配する気持ちは私も良く判るわ」

「…意地悪な言い方をするのね」

「あらそうかしら? ………まあ、それはともかくとして」

 話を戻しましょう、とエリザベスが話題を最初に戻す。

「ボローワ伯爵夫人、ルイーザ様は元々はチェルク男爵家のご出身で、彼女が社交界デビューする頃には、ご実家は没落寸前だったそうよ。対して、亡くなったボローワ伯爵は商才が豊かな方で、沢山の財産をお持ちの富豪だったわ。もっともこの時点で、既に五十歳を越えていらっしゃったそうだけれど」

 まだ十七、十八だったデビューしたての没落貴族の娘であるルイーザと、五十を超えた裕福な伯爵家当主の結婚。聞いただけで二人の結婚がどういうものであるか、想像は付く。

 そんなのはひどい、と思っても貴族社会では特別珍しくもない、良くある話だ。財産はあっても若さはもうない男が、若い娘を望むとき、金銭に物を言わせるのは普通である。そして財政難に喘ぐ娘の実家の方でも、願ったり叶ったりである場合が多い。

「ルイーザ様は、その頃、貴族家出身の若い従騎士と恋人関係だったらしいの」

「…それがレイドリック?」

「ええ。そして二人は、ルイーザ様のご結婚話に仲を引き裂かれて、泣く泣く別れたと」

「………」

「でもまた、別の噂があるの。結婚を嫌がるルイーザ様を諦めさせるために、ボローワ伯爵が恋人だったレイドリック様を買収して、彼の方から手を切らせたと言う話よ」

「そんなこと、あるわけないわ!」

「でもどちらかというとこちらの噂の方が、社交界では根強いらしいわ。だってレイドリック様はその後、多くの従騎士達が二十歳を超えてやっと叶えられる騎士叙勲を、最短の十八歳ですぐに受け、そしてそれから僅か三年で王宮騎士へと駆け上がっていらっしゃる。彼は騎士見習いに入る時期も遅かったのに、何故と疑問に思う声が多いのは事実だもの」

 それはレイドリックの才能が優れていたからだ。始まりが人から遅かったとしても、その差を埋めるほどに彼が努力を重ねた結果だ、とローズマリーなら素直にそう考える。実際そうなのだろうと信じてもいる。

 けれど、普通はそうは思わずに何か裏があると、人は考える。

 これがまだ伯爵家以上の嫡男であり、王宮にも上級貴族達にも強い繋がりを持っていたら、誰も疑問には思わなかったに違いない。実力主義のアルベルト王の御代とは言え、長く続いた家柄や血筋を重視する者は未だ多い。

 たかだか子爵家の息子では、そう言った者達には納得出来ないのだろう。特に、後からやって来たレイドリックに、さっさと先を越されてしまった者達にとっては。

「……でも、違うもの…」

「ええ、違うと思う。私もこの間少し気になって、エリオスに尋ねてみたのよ。彼は騎士叙勲も王宮騎士団入りも、全てレイドリック様の実力だと認めている。馬鹿なことを言うなと、逆に叱られてしまったわ。だけど、そうは思わない人の方が多いの」

 恋人を奪われ、世間ではそんな噂を流されて、まだ年若い少年だった彼の心が激しく傷付けられたのは想像に難くない。

 だからだろうか。あの夜、一人で泣いていたのも。それからレイドリックがこれまでと違った行動を見せるようになったのも。

 先日の御前試合で再会したルイーザに対して、彼にしては珍しく棘のある対応をしていたのも。だとするならば、一応納得は出来る。納得は出来るのだが……あまり、しっくりと来ない理由は何故だろう。

「以前、夜会で何度かお会いしたことがあるけれど、ボローワ伯爵もルイーザ様も、それなりに仲の良いご夫婦に見えたわ。始まりはどうであれ、ご夫婦としてのお二人の時間は良いものだったのね、きっと。でも、後で思うとボローワ伯爵夫妻がご参加の夜会には、レイドリック様はいらっしゃらなかった」

 どちらかというとレイドリックは社交的で、様々なパーティや夜会、晩餐会などの招待を受ける。もちろん騎士としての努めや、次期子爵としての仕事もあるので、それらの全てを引き受ける訳ではないが、ただの一度もボローワ伯爵夫妻が参加するパーティで顔を合わせないと言うのも少々不自然な話だ。

 意図的に、彼らと鉢合わせすることを避けていたと考えて、まず間違いないだろう。

 これらの話を、ローズマリーはどう受け止めて、どう考えれば良いのだろうか。

 もはや、ローズマリー自身にも良く判らない。

 ただはっきりしていることは、全てが状況や噂による推測を出ないことばかりであり、事実を知るのは、レイドリック本人だけだと言うこと。ローズマリーが真実を知るためには、やはりどうしても、彼から本当の話を聞くしかない。

 だけど……きっと今、ローズマリーがいくら尋ねたところで、レイドリックは話してくれないどころか、逆に無遠慮に心に踏み込もうとするローズマリーに心を閉ざす。

 あの、夜のように。

 ローズマリーに許されているのは、彼の心のほんの一部に触れることだけであって、それ以上ではない。決してどうでも良いと思われているわけではないのは感じているけれど……一体、どうしたら良いのだろう?

 それとも何もしない方がいいのか。

 この思いは、まるで真っ白なシーツにこびり付いたインクの落ちない汚れのように、ローズマリーの心を沈ませるのだった。

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