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第四章 振り返る過去 2

「レイ? ……レイ、どこ?」

 エイベリー子爵令嬢であり、レイドリックの実姉であるエミリアの婚約披露パーティーのさなか、姿を消したレイドリックの姿を探してローズマリーがまず向かったのは、彼の私室だ。

 幼い頃から家族と共に出入りしている子爵家の屋敷は、誰の案内を受けずとも迷わずに彼の部屋に辿り着くことが出来たし、また子爵家の使用人もローズマリーを見かけても柔らかく微笑むだけで、その行く手を阻むことはしない。例えそれが、屋敷の主人達一家のごくプライベートな空間であっても。

 何の障害もなく彼の部屋に辿り着いたローズマリーは、けれどその部屋でレイドリックの姿を見つけることは出来なかった。彼はまだ、部屋に戻っていないのだ。

 では一体、どこへ行ったのだろう。会場に戻ったのだろうか?

 ならば良いのだけれど……レイドリックの姿が、いつの間にか広間から消えたことに気付いているのはローズマリーだけではない。実の姉の晴れ舞台だというのに、その弟であるレイドリックが姿を眩ませるなど、と、エイベリー子爵が気難しげに眉を顰めていたことを知っている。

 幸いまだエミリア本人は気付いていない様子だが、もし気付けば見えない弟の姿に残念に思うだろう。

 レイドリックほどではないが、エミリアもローズマリーが小さな頃から可愛がってくれている人だ。出来れば彼女が悲しむ顔は見たくない。

 けれども、子爵がどうのとか、エミリアがどうのと言う以前にローズマリーの胸をざわつかせ、今こうしてじっとしていられずにレイドリックの姿を捜し歩いているのは、今回の婚約披露パーティが始まる少し前に顔を合わせた彼の様子が、普段のレイドリックと少し様子が違ったことが気に掛かっているからだ。

 本当はもっと早く声を掛けて、何かあったのかと聞きたかった。

 でも、賑やかな周囲の雰囲気や幸せそうなエミリアの様子、そして初めて見る家族だけではない多くの人々達に囲まれてのパーティに、すっかり飲み込まれてしまっていたローズマリーは、結局彼に聞くことが出来ないまま時が過ぎてしまったのだ。

 そして気がついたらもう、彼の姿は無かった。かといって、すぐにローズマリーも何かの理由無くしては、パーティを抜け出す訳には行かない。

 しばらくして、夜遅くまで続くパーティの中で小さなあくびをした娘の様子に、ローズマリーの母があなたはもう先にお休みなさい、と声を掛けてきたのをきっかけに、ようやく広間を抜け出した。

 まだ十一歳の少女が眠気を覚えて退出する姿を、見咎める者は誰もいなかった。お休みなさい、と声を掛けてくれる人の方が多かったくらいだ。だけどレイドリックは違う。他の誰が先に退出しても、身内の彼は可能な限り最後まで残らなければならない立場のはずだ。

 一体いつから広間を抜け出したのかさえ、ローズマリーには判らなかった。

 にじり寄る眠気を前に、早くベッドに入ってしまいたい気持ちはあったけれど、今は先に彼を見つけ出したい。見つけて、どうしたのと聞いて、彼が何でも無いよと微笑んでくれれば、ローズマリーは安心して眠れる。

 逆を言えば、そうでなければ何だかどうしても気持ちが落ち着かなくて、うろうろと屋敷の中で彼のいそうな場所を探し歩きながら、ようやくローズマリーが辿り着いたのは庭の温室だった。

 レイドリックの母が育てる、色とりどりの花が咲く小さな温室は、ローズマリーにとってもお気に入りの場所だ。夜にこの場所を訪れたのは初めてだけれど、夜空に昇った満月に近い月が、温室のガラスに映り込んで、青白い光を投げかけている様は、どこか幻想的に見える。

 例えば今、目の前に小さな妖精が姿を現せても不思議ではないような…そんな気分にさせられる。

 通常花は太陽の下に咲くものが多いけれど、中には夜に花開く花もあるらしい。そうした夜に咲く大輪の白い花のすぐ傍に、探していたレイドリックがいた。昼間は輝いて見える彼の朱金の髪も、今は月の光に染められてどこか青白く光って見える。

 なにもかもを吸い込んでしまうローズマリーの黒髪とは、全く趣の違うレイドリックの髪はそれだけで何かの宝石のようで、きらきらと輝く様が美しい。

 ようやく見つけた幼馴染みの姿にホッとして、彼の傍らに駆け寄ろうとしたローズマリーは、けれど望みを叶えることは出来なかった。

 不意に立ち尽くしていたレイドリックが、右手に握り締めていた鞘が付いたままの剣を振り上げて、力任せに近くで温室を見守っていた天使像目掛けて振り下ろす。陶器で出来た繊細な天使は、いとも容易く甲高い悲鳴のような音を立てて砕け散った。

 パラパラと残骸が断末魔のごとき音を響かせながら、当たりに散らばる様はローズマリーに、物が力任せに破壊される単純な恐怖と、目の前の幼馴染みがしでかした行動が信じられない驚きとで咄嗟に声も出ない。

 天使像の変わり果てた姿を前に、レイドリックの手から剣がゴトリと重たく滑り落ちる。空いた両手で少年が自分の顔を覆い、肩を震わせるのと、ローズマリーが無意識のうちに後ずさる足元から、微かな靴底が擦れる音が洩れるのとはほぼ同時だ。

 人の気配に気付いたレイドリックがハッと顔を上げて振り返り、その弾みできらきらと輝く何かが彼の目元から散る様が確かに見えた。

 最初それが何か判らなかった。同じようにきらきら輝く彼の髪かと思った。でも違う、散ったのは髪ではない。

 彼の、涙だ…………

「…………レイ……?」

 咄嗟に、何を言えば良かったのだろう。自分の目にしたものが信じられず、同時に何故彼が涙を零すのか、その理由が判らず、尋ねようとしても舌が痺れてしまったように動かなくなる。

 ローズマリーの記憶にあるレイドリックはいつも笑っていて、悪戯や我が儘が過ぎる時には少々叱られることもあったけれど、無意味に物を壊したり、泣いた顔を見たことはない。少なくともすぐには思い出せないほど、記憶にない。

 いつも泣いては慰められたり、宥められたりするのはローズマリーの方で……だから、こんな時どうしたら良いのか判らなかった。

 目を丸くし立ち尽くすローズマリーの様子に、レイドリックも自分の涙が彼女に見られたことは察したのだろう。従騎士の白い礼服に身を包んだ、彼の腕が顔を隠すように上がって、背けられる。

 何かを堪えるように噛み締められた唇が、わななきながら震えているように見えて、ますますローズマリーを困惑させた。

 何があったの、どうして泣いているの? 何が悲しいの、どこか辛いの?

 尋ねたい言葉は幾つも存在するのに、たった一つさえ声に出すことが出来ず……それでも、ローズマリーは彼の元に近付こうとした。理由は判らないまでも、ひどく辛そうな、悲しそうな様子は放っておけないと思ったし、立ち去ることの方が今は優しさになると言うことも、彼女はまだ知らなかったから。

 ただ、自分が泣いた時のことを思い浮かべて、頭を撫でて貰った優しい手の温もりを自分にも再現出来たらと……思ったのはそれだけだ。

 幼いがゆえにまっすぐで、純粋だからこその優しさ。

 でもその優しさは、相手に受け取れるだけの心の余裕がなければ、ただの押し付けがましい自己満足になる。そんなことさえ知らなかった、この夜の、この瞬間までは。

 それを痛烈に学ぶことになる。他の誰でもない、レイドリックから。

「………るな…」

「……レイ?」

「…っ……来るな!」

 前に踏み出したローズマリーの足は、それ以上先に進む前に地面に縫い付けられたように、固まってしまった。

 決して怯えるほどに大きな声で、怒鳴られた訳ではない。それでも、無視出来ない程強く、はっきりと向けられた拒絶の言葉に、心の中が真っ暗になる錯覚を覚える。

 これまでにレイドリックから拒絶などされたことのないローズマリーには、初めて向けられた彼のその言葉が、剥き出しのまま突きつけられた剣のように感じられた。

 まるで自分自身が、先程彼に砕かれてしまった天使像になったかのような錯覚を覚える。

 月の下、レイドリックの姿が普段よりも青白く染まり輝いて見えるように、ローズマリーの白い肌も同じように青白く見えるだろう。でも例え今が昼間であったとしても、多分大差は無かったかも知れない。

 さあっと自分の頭から血の気が下がり、いつもは健康的に色づいている頬も、色を無くしているだろうから。

 今にも泣き出しそうな顔をするローズマリーから、感情の行き場を見失ったように顔を背けたまま、レイドリックはその夜、一度も真っ直ぐにこちらの目を見ることはしなかった。

「…ごめん、悪いけど今は、少し一人にして欲しい」

「で、でも…」

「お願いだから」

 逆らうことを許さない強い口調に、嫌でも悟らざるを得ない。

 今、レイドリックが求めているものは、ローズマリーの慰めではない。一人になりたいと願う彼は、ローズマリーを求めていない。むしろその存在を拒絶している。

 それがはっきりと判った。だとするならば、ローズマリーにこの時、出来ることは何もない。

 一歩二歩と後ずさり、奥歯を強く噛み締める。

 今までで感じたことが無いくらい、幼馴染みの……レイドリックの存在が遠く思えた。例え彼が騎士になる為に実家を出ても、年に数度しか会えなくなっても、彼が遠いなんて思ったことは無かった。

 なのに今、目の前にいるはずの人がひどく遠い場所にいるように思えてならない。どんなに手を伸ばしても、決して届かないくらい……近寄ることも、出来ないくらいに。

 次の瞬間、ローズマリーはパッと身を翻すと、温室から逃げるように駆け出した。後ろからレイドリックが追って来ることはない。

 温室から、子爵家で自分に用意してくれた客室に戻るまでに、途中で見かける使用人の姿さえ避けながら、ようやく飛び込んだ客室の扉を閉めた直後、ぽろりと涙が頬を滑り落ちる。

 頭の中を埋め尽くすのは、なぜ、どうしてとそればかりで、答えなど判るわけもない。

 自分が知らないうちに、何か失敗をしてしまったのだろうか。それとも自分の知らないところで何か、彼を傷付けるようなことがあったのだろうか。

 知りたいのに、知ることの出来ないもどかしさと拒絶された恐怖、そして深い悲しさに溢れて止まらない涙を、こぼし続けたまま扉の内側で、膝を抱えて蹲る。

 この日のためにと、母が新しく用意してくれた可愛らしいドレスも、綺麗に結って貰った髪も、うっすらと施して貰った薄化粧も、何もかもが台無しだ。

 本当は、暫くぶりに会う彼に、普段よりもめいっぱいおしゃれをした姿を見せて、褒めて貰うつもりだった。

『可愛いよ、良く似合っている』

 と、彼は微笑んで、きっとそう言ってくれる。そしてそれから、以前より少しは上達したダンスを披露するために、彼とワルツを踊るはずだった。

 なのに今の彼の心は、ローズマリーの些細な期待にも気付かない程…実の姉の祝福にも集中出来ないほど、他の何かでいっぱいになっていて、そこには自分が割り込む余裕など欠片も無い。

 レイドリックはローズマリーの、まだ狭い世界の大きな部分を占める特別な存在だけれど、レイドリックの中での自分はその十分の一……いや、もしかしたら百分の一にさえ満たない存在なのかも知れないと思うと、急にどことも知れない場所に放り出されて迷子になったような、心許ない気分になる。

 自分はレイドリックを特別だと思っていた。

 でも、どうやら彼にとってはそうではなかったらしい。

 少なくとも辛いとき、寂しいとき……傍にいても良いと思ってくれるほどには……自分は、彼の傍にさえいられないのだ。

 泣きながら、心の中で辿り着いた結論はさらにローズマリーを傷付けて、打ちのめしたけれど。何より苦しかったのは、それでも、嫌いになれない幼馴染みを慕う気持ちと、思い詰め、傷ついた様子の彼を案じる自分の心だった。

 いっそ、それならもう良いわと、綺麗に割り切れたら良かったのに。

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