第三章 芽吹き始める 3
御前試合はその後も続いた。二回戦で上位四名が選出され、残る準決勝一戦目では話題のエリオスと、レイドリックとの対戦になる。
一体どうなるのかとハラハラするローズマリーとは打って変わって、エリザベスの様子は落ち着いたものだ。幼馴染みの勝負の結果など気にしないのか、それとも負けるはずがないという自信のせいなのか……この時ばかりは、少しだけ落ち着きすぎている親友が恨めしい。
とにかく勝っても負けても、怪我だけはしないで欲しい。
これまでのレイドリックの戦い方を見ていると、肉を斬らせて骨を断つ…という訳ではないが、本当に勝ちを手に入れるためには身体の一部分が失われても構わないのでは、と思ってしまうくらい危なっかしくて仕方ない。
握り締めた両手の平がじんわりと汗で湿ってしまう。
そんなローズマリーの心境を知っているのかいないのか、レイドリックは見た目はこれまでと変わりなく、悠然と会場へ姿をあらわす。けれどもその表情が、これまでに比べて無いに等しい。
まるでこれから自分が断頭台にでも向かうかのような印象を抱かせる。これまでレイドリックの様々な表情を見て来たローズマリーだが、今の彼の顔は初めて見る。
いつもからかうように浮かんでいる笑みも、甘い眼差しも、飄々とした態度もない、目前の対戦相手に集中する、それは戦いの前の騎士の顔だった。この対戦では、誰もがレイドリックの健闘に期待しながらも、エリオスの勝利を確信している。
それはレイドリック本人も同じに違いない。けれど、だからといって最初から負けるつもりで戦う意思はない、刃を交わすからには勝ちを狙って行く。そう言わんばかりのレイドリックは、ローズマリーの知らない青年のようだ。
試合開始を告げるトランペットの音が響き渡った直後、二人の手にする剣が唸り、ぶつかる音が周囲に響き渡る。端的にこの試合の結果から言ってしまえば、やはり勝負を持って行ったのはエリオスで、レイドリックに勝利の女神が微笑むことは無かった。
それでもレイドリックもただ一方的にやられた訳ではない。今の自分に持てうる限りの技術と力で相手に対抗していたし、愛用の剣や体格の身軽さを利用して素早い動きの連続攻撃で、一時はエリオスを追い詰める場面も見られた。
こういった整えられた試合では、戦場とは違い各騎士それぞれが通常とは違う力を見せることもある。実際普段ならば実力が上だろうと思われる方が、下の者に破られる試合もいくつか発生している。
けれども、そう言った要素を含めても力が届かなかったのか、最後に剣を手元から飛ばされて、敗北を認めたのはレイドリックの方だった。
額から流れ落ちる汗を乱暴に袖で拭う彼の顔は、やっぱり今までローズマリーが見たことがないほど硬く引き締まって見える。それでも、敵わないだろうと判っていても、精一杯の努力はした自信のせいか、顔を上げた時には意外にさっぱりした表情で、エリオスの差し出す手を握り返していた。
周囲の観客達からも満足そうな声援や拍手が響き、それらに応えるように腕を振って二人は会場を後にする。この後に控える決勝までは、準決勝二戦目の騎士が連戦となるため、一時間ほどの休憩時間を挟んでの開始となるようだった。
その休憩時間に、いてもたってもいられなくなったローズマリーは兄とエリザベスを残し、一人こっそりと観戦席を抜け出した。
「お疲れ様。見ていたわよ」
通路で役割を終え、表舞台から裏へと出て来たレイドリックを捕まえて声を掛ければ、ローズマリーを見やった彼が少しばかり情けなさそうに苦笑して見せる。何故そんな顔をするのかと首を傾げたローズマリーに、意外にも素直な返答が返って来たのはその直後だ。
「出来ればもう少し、格好いいところを見せたかったな。負け試合なんて情けない」
「そんなことないわ、とても頑張ってたじゃない。私はこういうのは良く判らないけれど……あなたは充分、強いと思うわ」
「それでも負けは負けだ」
「そんなこと」
どっちでもいいじゃない、と最後まで言うことは出来なかった。
「これが戦場なら、今頃俺は首を獲られている」
レイドリックが言い切った言葉に一瞬ギクリとして、目を見開いた。確かにレイドリックが今無事な姿で、ローズマリーと話が出来ているのはこれが試合だからであって、戦場であれば彼の言う通り一度の負けが死に繋がるものだ。
彼の言うことは間違っておらず、正しい。
「………そう言うことは、言わないで」
でも、正しくても今は聞きたくないし、考えたくない。
彼にとっては身近な当たり前の出来事であっても、ローズマリーにとっては出来ればそうした現実は遠いものであって欲しい…と思うのは我が儘だろうか。
もしもこれから先、彼の妻となるのであればこうした現実も受け入れて、覚悟しなければならないことだろう。例え相手がレイドリックでなかったとしても、騎士を夫にするのであれば、やはり相応の覚悟は必要だ。
それでも今は死を想像させる言葉は嫌だ。もしものことなど、考えさせないで欲しい。
折角の慰労に水を差す、無粋な言葉に対する怒りや苛立ちよりも、何故だか悲しくなって俯くように視線を落とせば、とたんにレイドリックが罰が悪そうに詫びた。
「ごめん。余計なことを言ったね」
レイドリックが間違ったことを言った訳ではない。ただ、ローズマリーにまだ覚悟が足りないだけだ。それを承知の上で、今この場では彼が譲ってくれたのだと思うと、今度罰の悪い気分になるのはローズマリーの方である。
その後に続いた、数秒の沈黙の後。
「……レイドリック、あなたはいつも、あんな戦い方をしているの?」
正直に言えば、尋ねることは躊躇った。先程もレイドリックに言った通り、ローズマリーは戦いの何たるかも知らない素人で、誰かが剣を合わせる姿を見るのも今日が初めてだ。自分が感じた印象の全てが正しいかどうかなんて、判らない。
それでもどうしても気になって仕方がない。自分の気のせいなら良いのだが……兄も似たような印象を抱いたとなれば、尚更に。
「あんな戦い方?」
一方レイドリックは、ローズマリーの疑問が判っているのか、いないのか。少なくとも今の彼の様子を見るだけでは判らなかった。
「ええ……何というか、積極的というか……好戦的というか…」
「騎士が戦いで尻込みしていたらお話にならない。それは当たり前のことだと思うけど?」
そうなのかもしれない。いや、その通りなのだろう。
でも違うのだ、ローズマリーが言いたいのは、そう言うことじゃない。
何と言えば彼に上手く伝わるのだろう。言葉が思い付かなくて、つい、視線を彷徨わせ、まごつくように唇を震わせた時だ。
ふっとレイドリックが、その口元を綻ばせて、今度は彼の方から問いかけて来る。
「ねえ、ローズ。俺は本当に頑張っているように見えた?」
「ええ、見えたわ」
「あんなに頑張ったのに、負けちゃって可哀想とは思わない?」
「………少しだけね」
先程一瞬漂った、気まずい雰囲気を打ち払うような笑顔を見せるレイドリックは、何か悪戯を考えついた少年のような目をしている。それに警戒しなかったかと言うと嘘になるものの、彼の気持ちが切り替えられるのなら、少しくらい付き合ってもいいかと素直に頷けば。
とたんに、彼の口の端が、にぃっと釣り上がったように見えた。
残念なことに今の彼の表情には嫌な予感しか感じない。ついつい出してしまった仏心は無用だっただろうか。
じりじりと後ずさって距離を空けようとするけれど、それより早くに一歩前に足を踏み出したレイドリックによって、腕を掴まれた。
痛みを感じるような強い力ではないものの、咄嗟に振り解くことが出来ない程度には掴まれていて、より一層嫌な予感に眉を顰めたローズマリーに、彼はもはや胡散臭いとしか思えない甘ったるく微笑んで寄越す。
これが他の令嬢ならば、この微笑み一つで真っ赤になって舞い上がるのだろう。しかしいかんせん、ローズマリーはレイドリックとの付き合いが長すぎる。舞い上がるよりも、より一層警戒心を強めてしまう彼女に、身を屈めて耳元に唇を寄せながらレイドリックは囁いて来た。
「じゃあ、キスをして?」
「………はあ!?」
何を言い出すのだろう、この男は。つい、令嬢としてあるまじき素っ頓狂な声を上げながら、胡乱に見上げるもレイドリックの笑顔は変わらない。
「御前試合に勝つと、もちろん報奨金が貰えるんだけどさ。他に、王妃様から祝福のキスをして貰えるんだよね」
言いながら、自分の頬を指し示す。それは知っている、こういった試合では騎士は名誉の他、貴婦人に対しての勝利をも誓って戦うのが習慣だ。勝者には、身分の高い貴婦人からの祝福のキスが贈られるのは定番である。
「でも今回は負けちゃったから」
「……だから代わりに、私にしろと言うわけ? 王妃様の身代わりは光栄だけれど、でも結構失礼な言い草ね」
「平たく言っちゃうとそうだけど。でも俺は、ローズにして貰った方が嬉しいし、その方がまた頑張ろうって思えるんだけどなあ」
調子の良い、滑らかな言葉に咄嗟に言葉が詰まってしまったのは、決して彼の言い分にドキリとときめいたから……ではない、はずだ。今は随分と大人しくなっているけれど、渡り鳥という異名を持つ彼は、女性に対してのこの程度の発言などお手の物だ。
自分だけに囁いてくれているのだと、勘違いしてはならない。そう思うのに、どうして否応なく顔が赤くなってしまうのだろうか。
「大丈夫、頬でいいよ。昔は良くしてくれていたじゃない、一日に何度も大好きって言いながらさ。ああ、それともやっぱり成長すると子供の頃の記憶なんて忘れてしまうのかな、今じゃ昔が嘘のように、刺々しくされることも多くて結構傷つくんだよね」
「昔は昔、今は今でしょう。子供の頃の話を引っ張り出して、さりげなく自分を被害者にしないで」
「ああ、やっぱり子供の頃の思い出は思い出のまま二度と戻れない、美しき過去ってことなのかな。大人になるにつれて綺麗な心を忘れてしまうなんて余りに悲しすぎるよね、俺のこの悲しい気持ち、君には判って貰える?」
「ええ。なんだかとっても面倒臭い人ね」
「相変わらず容赦ないな、ローズは」
「何度も言うけれど、私相手じゃその気になれないと言ったのはそっちじゃないの」
忘れもしない、縁談を聞かされたその日の出来事だ。あの時は、こっちの方こそごめんだと思ったし、お互い様だとも思ったけれど、自分で思うよりも結構、引っかかっていたらしい。
恨めしげな視線を向けるローズマリーだが。相変わらずレイドリックの返答はケロリとしたものだ。
「それこそ、昔は昔、今は今…かな?」
どういう意味だろう。以前はその気にはなれなかったけれど、今は多少なりともそう言う気持ちがあると言うことだろうか。それとも自分の反応をただ楽しみ、からかわれているだけなのだろうか。
問い質してみたいけれど、どちらの返答が返って来ても多分、複雑な気分になるのは逃れられそうにない。かと言ってここで嫌だと言っても彼が引かないだろう。
それこそまた過去のことを持ち出しては、さめざめと泣いてみせるくらいのことはする。卑怯で狡いとは思うものの、それで先程の試合の落ち込みを解消してくれるのなら、そちらの方が良いのかも知れない。
………もっとも、見た目、あまり落ち込んでいるようにも見えないのだが。
「……仕方ないわね、こんなところで駄々をこねられても面倒だし」
「俺は子供と一緒なの?」
「子供にしては邪気が多すぎるんじゃないかしら。……もう良いから、屈んでくれる?」
「仰せのままに」
戯けた口調で一礼して、身を屈める彼の頬に手を添える。微妙に、その手が強張っているような気がしたのは多分、気のせいだ、きっと。
こんなことは大したことではない。それこそ、昔にはレイドリックの言うとおり、何度もしたことだし、頬に口付けながらぎゅうとしがみついては、好きだと繰り返し甘えたことも何度もある。
それこそ昔は定番の、大きくなったらお嫁さんになると言う発言を口にしたのも、一度や二度ではない。とは言えその可愛らしい思い出は、耳にしたデュオンに『結婚というものがどれ程恐ろしく、人生の墓場と言われるほど嘆かれるのか』と世にも恐ろしい男女の愛憎劇を切々と説かれ、いくらもしないうちに「もうお嫁さんにはならない!」と軽くトラウマになって泣きながら叫んだ、苦い記憶にすり替わっているけれど。
あの時の兄の所業は、今思い出しても酷すぎると思う。幼い少女の淡い夢を、どす黒い世知辛いものに変えてしまったのだから。
……とまあ、それはともかく。
そういうわけだから、頬へのキスなど大したことではない、そう大したことでは。
…………それなのにどうして、こんなに緊張するのだろう。
近付くと、ふわっと汗の匂いがした。つい少し前まで、あんなに身体を動かして剣を振るっていたのだ、当たり前のことだ。毎日兄と共に走り回っていた子供の頃の、彼からも同じ匂いがしていたことを、不意に思い出した。
嫌な匂いではない、むしろどこか懐かしくなる。たったこれだけのことでも、懐かしく感じる程に、今までの自分達がどれだけ疎遠になっていたのかと思うと、僅かに唇が震えた。
そのまま、逆の頬に唇を寄せて、軽く触れ合わせてからすぐに身を引こうとしたローズマリーは、いつの間にか背に回っていたレイドリックの片腕に遮られて、離れることが出来なくなる。
「ちょっと……!」
赤くなった顔をあまり見られたくなくて、早く離れたいのにそれを許してくれないレイドリックの腕の中でもがき、彼を睨んだ…直後だった。




