花弁の舞う荒野
「約束の時にはまだ早い」
金色に輝く月明かりの下、凛とした声が荒野に染みる
「お前は何故、此処に居るのだ」
一片の感情も入っていない淡々とした口調
しかし何処か悲しげで、怒っているようにも感じる
「何を笑う。無様な我をお前は笑うのか」
そっと目を開けると、まず月明かりを眩しく思った
それから視界に広がる荒れ果てた野原
いや…野原とは言いようのない、地面が露出した荒地
「もう、あの頃とは違うのだ」
先程とは違う、憂いを帯びた声に、はっとする
「お前が来るにはまだ早い。こんな姿、見せたくなかった」
荒野のど真ん中でただひとつの命といえるだろう、大きな木
その木の下に、少女は居た
色褪せた着物は元の色が分からない程で
どうにかこうにか恐らく鮮やかな紅色だったのだろうと思う
いや
確かに彼女の着物は紅色だったのだ
凡そ、千余年前までは
「お前は…忘れたか、我を」
少女の問いに小さく首を横に振る
「そうでなければ困る」
少し嬉しそうに声が弾んだようだ
「覚えているか?この木がまだ、小さな花弁を咲かせていた時代を」
昨日の事のように思い出せる
大きな木は、それはそれは美しい桜の花を咲かせていた
「約束の時はまだ先だ。我も木も、まだあの頃のようには戻れていない」
少女は自分の着物を見やり、そして木を見上げた
優しげにそっと、少女が木の幹に触れる
有るはずのない葉と花が風に揺れた気がした
慌てて木を見上げると、そこには枯れた木の枝しかなかった
「お前は変わっておらぬな」
そうだろうか
自分では随分と変わったように感じられたのだが
「そういう所が変わっておらぬ」
少女は微かに笑った
「聞かせてもらおうか、約束の時より幾年も早くこの地へ戻ってきた理由を」
少女の顔が僅かな怒りで少し強張る
余程、今の姿を見られたくなかったのだろう
少し長い瞬きをすると、目の前の少女と風景が
記憶の中の千余年前の少女と風景に重なる
「比べるな。もう過去だ」
厳しめの口調で言われては従うしかない
「早く理由を述べよ。我の性格はよく分かっているのだろう?」
よく怒らせた記憶がある
時間が無い、単刀直入に言う
もう、終わらせよう
「どういう意味だ」
少女は眉を顰めた
もう、いいんだ
約束は、今此処で終わらそう
「何を言っている…?お前は…我を捨てるのか」
少女の言葉に、先程と同じように首を横に振る
この荒野は二度と元の姿を得ることはできない
それと同時に、この大きな木も、命が戻ることはない
「我は消えぬ。此処で…この地でもう一度、あの頃と同じように花弁を咲かせる」
少女は切れ長の綺麗な目をさらに細めて睨みつける
「それがお前との約束ではないか」
その約束が、少女を長い間この地へ縛っている
「我の身は案じずとも…」
少女の言葉を遮るように首を振る
続きの言葉を飲み込み、少女は静かに見つめてくる
共に行こう、この地を離れて
千余年前の約束は今此処で果たす
そっと近付き手を差し出すと、少女は恐る恐る手を重ねた
手と手が触れあった瞬間
少女の着物は鮮やかな色彩を取り戻す
本来の美しい紅色の着物へと姿を改める
驚く少女と共に上を向く
大きな木には、それはそれは美しい桜が花を咲かせていた
「これは…」
約束は果たされた
少女は自由の身となり、この地より解き放たれる
「お前は…変わっておらぬな」
少女の瞳には先程までにはなかった光が宿っていた
何処からか吹いてきた風に
少女の長い黒髪と桜の花弁が揺れ乱れる
「またしても我を救うのはお前なのか」
微笑んだ少女の体が薄くなっていく
重ねた手にも、少女の体温は僅かにしか感じられない
「まったく不思議な者だな、お前は」
少女の体が薄くなっていくのに比例して
桜の花弁たちは風に吹かれて散っていく
「最初に出逢った時、枯れていた我を救ったのを覚えているか」
勿論だと力強く頷くと、少女はまた笑う
「あれから千余年経つが…お前は相も変わらずあの時のままだな」
再び風が吹いた
桜の花弁はもう、一握りしか残っていない
「これから先も、お前は変わってくれるな」
一際強い風が吹いた
豪風に閉じていた目を開けると、すでに少女の姿はない
大きな木にも、花弁は一片も残っていなかった
少女が立っていた場所へ目を向けると
木の根元には小さな石版が埋められているのが見えた
そっと石版の汚れを取る
まだ荒野が生き生きとしていた頃に出逢った
愛しい人の名が金色の月明かりに照らされて浮かび上がる
紅桜凛華
ふとその名を読み上げると
何処からかあの少女の声が聞こえた気がした
この話は、私の中ではあるひとつの大きな物語りのラスト部分です
少女と“お前”の間には千余年という長い年月があり、
もし何処かでちゃんとしたひとつの作品として発表できたら、と思っています