悲しい記憶(最終章)
道しるべを訪れて、凍りついていた心が、徐々に溶けてくるような感覚に、男は、この店に来て本当に良かったと思った。
「桜鱒が帰ってくる、川があるように。帰るべき場所である、女は一番大切ですよ」
幸司は、男に真実味のある言葉を伝えた。
いつも、寂しいそうにしている男に変化が現れた瞬間であり、これからの生きる道を、手助けする言葉が語られた局面であることに変わりはない。
(そういう女を、探せばいいんだ……)
心の中で、自問自答している男がそこにいる。
「今日は、この店に入ってきて、ほんとうに良かったです」
男はそう思い、正直な気持ちを幸司に伝えた。それと同時に、深々と頭を下げている。
「有り難うございます。今日は、私にとって大切な日です」
優子は、落ち着きを取り戻した男に、酒を用意している。
「ご苦労なされたのですね、これからは幸せを探して下さいね」
「私から、このお酒をサービスして差し上げても良いかしら!」
おもむろに七福神を取り出した。
「よっしゃ!良いだろう。」
幸司は、万面の笑みを浮かべ許しを与える。
七福神。岩手県の「菊の司」のお酒である。蔵は、盛岡と石鳥谷の二ヶ所にあり淡麗な酒質である。全国的に愛好家が多いようで、人気がある酒である。
「神の祝福が、来ますように。私たちも、そういう想いで一杯です」
優子は、男に酌をしている。男は、嬉しそうにお酒を味わっていた。そして顔には、笑みが浮かべ七福神を堪能している。
「神様は、必ずどこかで必ず見ているものですよ」
見えない神こそ、優しく人々を見守っていると幸司は真剣に思っている。
そして、幸司から最後の料理が提供されようとしていた。閉めの料理は、アブラメ(アイナメ)の煮物椀であった。
「お椀の中に、大輪の花を咲かせた煮物椀です」
口に入れた時に、崩れる事がなく、しっかりと噛み締めながら味わえる一品を、幸司は最後の演出に選んだ。
「これからは、あなたが、ほんとうの大輪の話を咲かせる番ですよ」
幸司は、熱くなる眼がしらを感じながら、男に料理を提供する。心から、温かさが漲るこの料理は、これからの、この男性にやさしく問いかけているようであった。
「心に染み入るような、忘れ難い味です。有り難うございました」
深々と頭を下げた男は、幸司と優子に、感謝の意味を込めた言葉を述べた。
「お会計、お願いします」
男は会計を済ませ、店を後にしていく。
幸司と、優子は涙を拭い、次の客を待つのであった。春の風の強い日、ひとりの男が「道しるべ」から旅立って行った。
つづく。