悲しい記憶(第七話)
長い春を待つように、山野の息吹は、芽を出し始める時期であり、これからの雪解けのように、清らかな清華といえる、水の流れを感じさせる。
これからが、勝負と思う幸司は、快く男の相手をしている。
「私は、長い冬のようだった。心がいつも、凍りついていた気がします」
自分を分析している男には、変化の兆しが見えている。
「必ず、雪解けは来ますから!」
幸司は安心したように男に言った。
「白く積もった雪は、やがて解けて、貴方の心を洗い流しますわ」
優子は、男の旅立ちを予感していた。入ってきた、男とは雰囲気がまるで違って見えている。
何かの切っ掛けで、全てが変わる事もあるのである。心のこもった話と、酒が心を洗い流す瞬間であった。男は、自分を見つめ返している。鳥肌が立つくらい、現わし切れない想いが、脳裏に考査した。
幸司は、5品目に取り掛かる。こうなると、男は料理が楽しみになって来ている様子で、厨房の中を覗き込んで見ている仕草が、晴れ晴れと感じさせた。
「いったい、次はなんですかね?」
仕事を覗きながら、予想する男。楽しそうな、その笑みは心を変えていた。
「はい、どうぞ!」
目の前に、提供されたのは、竹の器に盛り込まれた、桜鱒の棒寿司である。オレンジ色に輝く美しさは、男の食欲を刺激している。
「桜鱒の、棒寿司で御座います。いい色してますね」
幸司は、やさしく言う。
桜鱒と言うものは、ヤマメの後悔型で、川に帰って産卵する魚である。釣り人にとっては、最高級の憧れの魚であった。
男は、笑みを浮かべながら話した。
「桜鱒ですか。実を申しますと、私は釣り好きでして、良く釣りには行くんですよ」
「この時期は、以前、桜鱒にハマっていまして。夢中で、釣りに出かけた記憶があります」
「なかなか、釣れない魚なんです。真剣勝負なんですよ」
桜鱒は、川の釣りの女王といわれるように、数万投に一度という、幻の魚である。姿は光り輝き、光沢が素晴らしいのが印象的だ。
「女と一緒ですね! 女もなかなか難しい」
「やっぱり、餌なんすかね? ハートをつかむには、心が折れていたらいけませんよ」
幸司の話は、的をついていた。心が折れていると、顔の表情に出るから難しいものである。
温かい雰囲気が店を包んでいた。男は、「フーッ!」と意気を漏らし、目を閉じている。
つづく。