悲しい記憶(第六話)
春一番が、男の悲しみを吹き消そうとしている。春の訪れを、待つかのように、覆われていた雪が解けようとしていた。
男は、カウンターで落ち着きが感じられる。入って来た時の、悲しみに充ちた表情は、影を潜めているようであった。
幸司は、それを見ながら、ある清酒を用意する。もっ切に、注がれたお酒は、溢れそうで今にも毀れそうだ。
「神亀なんか。いかがでしょうか?」
それに続いて、幸司が分かりやすく、お酒の説明を始める。
「少し、口あたりはピリッとしますが、実に旨いお酒ですよ」
「埼玉のお酒です、酒名は、蔵の裏の天神池に住むという。神の使いの亀にちなみます」
「これは、槽口と言いまして、圧力をかけずに流れでる酒だけをつめた、度数の高い薄いにごり酒なんです」
幸司は、お盆にお酒を注いだ、もっ切りを置く。そして優子に、手渡した。
優子は、ニッコリと顔に笑みを浮かべ、男の前に神亀をおいた。男は、ゆっくりと口に含みながら酒を味わっている。
「なんせ、神の使いの亀ですから、家族の分も、長く生きてもらいたいと思いまして。幸せになって貰いたいですし」
幸司の思いやりのある演出は、男の渇いている喉越しを潤している。味わい深い酒は、至福の時のように思えた。
「あなたが、幸せになることが、一番大切なんですよ」
「悲しいのは、解りますが、一歩ずつでも、ゆっくり前へ、進んだらいかがですか」
「亀は、のんびり前に進む、慌てず、急がずなんです」
優子は心を込めて、男に話しかけている。カウンターの横に、腰かけながら、男の表情を確認するように優しく微笑んだ。
男の目からは、涙がにじむ。なにかを考える言葉であった。
頃合いを見て、幸司は4品目に取り掛かる。手さばきがよく、隙がない仕事ぶりが見事といえる。
「はい、お待ち。山菜の白和えです」
男は、意外そうに口を開く
「白和えですか。懐かしい味だ」
男の目蓋からは、涙がにじみ出ていた。
(女房が、見様見真似でよく食べさせてくれた)
家族団欒が、懐かしく思えるのか、ハンカチで涙を拭う仕草を見せた。感動する味に、心は浄化されていく。
「山菜は、自生植物です。雨や、嵐にも負けないんですよ」
「長い、冬ごもりの末、根茯くんです。豆腐は、真っ白な雪です」
「貴方の心を、浄めるために、この一品にしました!」
男の顔に、笑みが戻ってきている。心は落ち着きを取り戻し、人生の方向性を考えていた。
つづく。