悲しい記憶(第五話)
壮絶な経験を持つ、男の話に言葉を失いかけた幸司がいたが、本来の思いやりのある性格は隠せない。男の体験に、もらい涙する幸司であったが、何か考えながら、慎重に考え、言葉を選ぼうとしている。
「それは、さぞかしお辛いでしょう。されど、あなたが幸せにならなくては、人生は変わらないのでは?」
女将の優子も、もらい泣きしている。ハンカチで、目頭を拭いている仕草が、幸司には解かっていた。
男は、ゆっくりとビールを口に運ぶ。その仕草は、少し落ち着いた面持ちである。幸司の言葉を、噛みしめながら飲んでいる様子が伝わってくる。
幸司は、次に料理に取り掛かっている。焼き台からは、美味しそうな匂いが感じられるほどである。
「お待たせしました、蛤の塩焼きです!」
一呼吸おいて、幸司は男に悟らせるように、ゆっくりと話す。
「焦る事は、ありませんよ。しっくり来る、女性を探したらどうですか?」
「蛤と一緒ですよ!」
蛤を味わいながら、じっと、聞き入るように箸をすすめる男がいる。独特の磯の香りが、何処か哀愁を帯びている。
「実に、旨い。今までは、味わいもない、妬け酒でしたから。心が、荒れていたんです」
男が、自分を反省するように呟いた。
「蛤は、同じ殻じゃないと合わさらないんですよ。この世に、たった一つの殻なんです」
「焦る必要は、ありません! 心にしっくり来る女性がいるはずです」
「そう言う出会いは、人生を変えてくれます」
そう言うと、幸司は静かに目を閉じた。その後、静かに仕込みを続けながら、男をチラリと見た。
男は、幸司の言葉に、聞き入っていた。大切な、何かを思い出すように、自分の過去を見つめている。
(心に染み渡る酒と料理だ……)
男は、ふと考えると再び口を開く。
「美味しい、日本酒はありますか?」
それを聞いていた、優子が丁寧に答えるように、男に近づく。
「はい、ありますよ。あなたにぴったりの酒が……」
男の人生を変えるために、最高の演出をする必要があった。幸司は、棚に並んでいる日本酒を、じっと見つめている。この男のために、人生の生きる活力を、与える演出が欲しい所であることは云うまでもない。
つづく。