悲しい記憶(第四話)
悲しい記憶は、時に人生を狂わせることもある。他人事とは、言えない事故の悲しみは、本人にとって、一番の苦しみである。
男は、空になったジョッキを覗き込むように見ている。少しだけ考えたのか、落ち着いた表情で、ビールの注文を頼んだ。
「生ビールを、もう一つください」
彼の声は、震えている。今までの、心を抑えているのか、吐き出すように、男はため息をついた。
「生追加!」
幸司は、男の表情を窺がっている。
「はい。 かしこまりました」
並々とビールを注ぎ、優子は男に近寄る。
「はい、どうぞ!」
優しそうに、男のビールを差し出した。
「どうも、すいません。こんな、お話しかできない自分です」
心配そうな顔をしながら、優子が男に切り返す。
「この店は、そういう人の味方ですよ。悩みごとがあれば、私共が承ります」
あまりにも、辛い経験は、男の肩に圧し掛かっているように見えたのである。頃合いを見て、幸司が次の料理に取りかかる。
「そのお辛い経験は、忘れる事は、出来ないでしょう」
幸司が男にやさしく言う。その眼差しは、男の目をじっと見ていた。
「取り敢えず、この一品はいかがでしょうか!」
幸司は、男の様子を覗いつつ、次の料理を提供する。
「鰆の酢絞めと、蛍烏賊のお造りです」
春を象徴する鰆、そして海で光を放つ蛍烏賊。刺し身鉢に、きれいに盛られた逸品は光を放つようであった。
「春の訪れに、光を放ってほしくてね!」
「要するに、忘れる事は出来ないでしょうが、一歩、前に進み、あなたに光を放って頂きたい!」
「何時までも、苦しみ、悩んでいては、ご家族は成仏出来ませんよ! あなたのお心次第で、人生は変えられます」
幸司は、精一杯の言葉を、男に聞かせた。その言葉には、真実味があり、優しさがあふれていた。
男は、何かを悟るように、無言で刺身に手をつけはじめた。男の目蓋から、ほんのりと涙が見えている。
「あれ以来、恋が出来なくなりまして」
男は、何かを考えていたが、ゆっくりと口を開く。
「女を抱く事が、出来ないんです、トラウマと言うヤツですか」
男から、正直な心の葛藤が語られた。その言葉は、経験の苦しみからきているのが、幸司にはよく分かった。
カウンターでは、ひとりの男が、これからの人生を変えようとしている。
つづく。