母恋し、幼き想いは(最終話)
降り続いていた五月雨も、次第に雨雲も流れて行き、雨は止もうとしていた。その友人が、「道しるべ」に初めてきた頃が、懐かしく感じている幸司は、ふと、晴れ間に浮かぶ月を見上げている。
「雨が、止んだね。雨はいつまでも、降り続ける訳ではないしね」
いつかは、心も晴れる日が来ると、幸司はその男を見守っている日々が続いている。
友人の哲雄はいつものように、ほろ酔い加減になり、杯を口に運んでいる。
「しかし、こんなに鮎と木の芽味噌が合うとは意外だったな!」
鮎のほろ苦い内臓と、木の芽の香りが感じられる甘味噌の味わいは大人の味である。その美味しさを感じつつ、哲雄は子供の頃に出かけて行った川の恵みを大切に思っていた。
「俺、改まって、お袋を訪ねたことがなかったからね。何処か、避けていたような感じがするよ!」
心の蟠りであろうか、時折のこと見せる男の表情が、その心に葛藤の長さを物語っている。
「幸ちゃん、絞めの料理をリクエストしてもいいかな?」
「前に食べた、あの味が忘れられないんだよ。こんな無理言ってごめんね!」
普段の板前任せの料理を翻す、勝手な部分を持つ男は哲雄しかいない。その男の罪のなさが、何処か、心地よい春の風のように感じられてならない。
「柳川鍋以外に、食いたいものって。なんだっけ?」
一瞬、その料理がなんであるか、幸司は頭の中で悩んだ。
「車エビの、海老フライだよ!」
「やっぱり、頭付きのままにかぶり付きたいよね」
幸司はそそくさと、車海老を用意すると串を打って、パン粉をまぶして油で揚げはじめた。
「美味しそうな匂いがするね。最後はこれに限るよ!」
車エビは、日本近海からインド洋、アフリカ東海岸までの沿岸部から砂泥地に生息している。その車海老は、体を曲げたときに、独特の縞模様が車軸のように見えるところから車海老と云われている。
天然物の旬は夏であるが、近年は養殖技術が発達したため、美味しいものが通年に出回っている。
「しかし、哲ちゃんは、海老フライが好きだよね!」
幼き時の思い出の一部が、記憶に残っていることが、大好物の所以でもある。その料理が出ると、友人の哲雄は美味しそうに、ソースに味を味わいながら満足していた。
男は、その料理を懐かしそうに食べ終わると、幸司にお礼をして「道しるべ」を後にした。
つづく。