母恋し、幼き想いは(第六話)
梅雨を感じさせるような、小ぶりの雨が降り続いている。外を覗いている、その男が寂しそうに天を見上げていた。
時は、気まぐれである。時間という途方もない年月が、時に深い傷口を癒すこともある。本人からしてみれば、到底、忘れることの出来ない想いが、切ない事情として、心の中に残っていることを幸司は自分のように考えていた。
カウンター越しに、幸司が丹念に料理を仕込んでいる。その姿は真剣そのもので、何かを考えているように感じられる。
「今日の四品目だよ!」
中鉢に盛り込まれた、刺し身が美味しそうに輝いている。
「この刺し身、何?」
「僕、魚に疎いから。教えてもらうと助かるな!」
幸司の友人らしい、答えが帰ってくる。その言葉を聞いた幸司は、何処か嬉しく感じられてならない。
「この魚はね。黒鯛だよ!」
「生け締めにしてあるから、薄造りにしてみたよ。淡白な魚だけど、上品な味わいが楽しめるんだ」
黒鯛は、稚魚時代は全て雄として知られ、その後に雌雄両性になり、4歳前後には雄、雌、に分化 する面白い魚であるという。
「どうして、薄造りにするんだい。そのまま、引き造りではダメなの?」
友人の哲ちゃんは、興味津々に訊ねてくる。
「単純に考えると、身が硬くなるからさ!」
「黒鯛の場合は、特に舌触りに感じるくらい、硬くなるんだよ」
黒鯛は、磯臭いイメージがある。そんな雰囲気が、この男には良く似合うと幸司は内心のこと思っていた。
「この刺し身だと、日本酒が欲しくなるね。いいお酒あるかな?」
お酒好きの哲雄が、カウンター越しから幸司を覗きこんだ。
「やっぱりな!」
幸司は、棚に並んである日本酒を見ている。お酒を探している仕草をしながら、男女の心の葛藤による生活の分岐点が、複雑であれば、あるだけ意味あいを持つと感じ入っていた。その意味に、彼の両親の深い想いが感じられる。
「これなんか、どうかな!」
「これって、静岡のお酒?」
「おんな泣かせって、どういう意味なの?」
静岡のお酒に、若竹という日本酒がある。それの純米大吟醸を、「おんな泣かせ」という。子供を手放した、女親の心情を理解する幸司が、友人に示した意味あいが、そこには深い心の優しさが伝わってくる。
つづく。