悲しい記憶(第三話)
浅き春のおぼろ月は、ぼんやりと「道しるべ」を照らしているように見えた。そんな夜の風は強く、まだ、寒さを物語るように吹き付けてくる。
カウンター越しに、来店した男の姿を幸司はちらりと見て、仕込みを続けている。
すると、男が料理を見渡しながら、興味津々に幸司に訊ねるように言った。
「これは、何ですか?」
幸司は仕事を進めながら、男の顔を覗きながら話しだす。
「このお通しは、春に旬の、筍と独活の木の芽味噌和えです」
「筍は、外気に触れると、身は固くなり風味を落としてしまいます。朝暗いうちに、掘った筍を手早く料理すれば、どんな料理法にも向くんですよ」
「今回は、お通しとして、木の芽味噌和えにしてみました」
仕事をしながら、料理の説明を丁寧にする幸司が、男の心に語りかける。
「実に旨いですねぇ!」
男は、お通しを味わいながら言った。
そして男は下をうつ向き加減に見て、ため息を吐いた。その姿が、何か思いつめた表情であることを、幸司は見逃さなかった。
「どうなさったのですか?」
幸司は、男の表情を察したのか、思いやりを込めて、問いかけている。その言葉に頷くように、男はビールを一気に飲み干す。
「ふう、美味いですね。このような場所で、身の上話は、よろしいんでしょうか?」
男は肩を落として、身の上話を始めようとしている。とても辛そうな表情から、心配したように優子が問いかける。
「なにか、あったんでしょうか?」
男は、話す機会を得たように口を開く。
「あまり話したくはないのですが、交通事故で家族を亡くしまして。それから、ショックで酒ばかり飲むようになっています」
店の中は一瞬、沈黙する。あまりの話に、かける言葉を失ったように思えた。うつむき加減で、ジョッキを飲み干す男の表情は、悲しみに暮れている。
「それは、やり切れねぇな。お辛かったでしょう」
幸司は、男を気遣うように、話を聞いてあげることを決めている。
「夕暮れの、見づらい時の事故でした。女房が飛び出した子供を、連れ戻そうとした時です」
「その瞬間に、トラックが避け切れず、突っ込んできたんです。それで、女房と子供が事故に遭いましてね」
「私の、目の前だったんです。病院に運ばれましたけど、二人とも息を引き取りました」
男はうつむきながら、言葉を濁すように語るのを止めた。
「お辛い、経験でしたね」
優子が、心配そうに男に語りかける。男は、お通しをじっと見つめている。悲しみに満ちた、表情は苦しそうで、やけに哀愁をおびているようであった。
つづく。