母恋し、幼き想いは(第一話)
季節は初夏を迎える頃、幸司はひとりの友人の事を考えていた。その友人は、体が不自由で難病指定を国から受けている状態である。
彼は、いつも幸司の店を訪ねると、お酒を飲むのが癖になっていた。それは、痛みを忘れるかのように飲酒を繰り返している状態である。その事情を知る幸司は、彼に酒を飲ませるのが辛い時もある。
「また飲みすぎるなよ!」
いつも心配そうに、友人の酒の量を気にかけている幸司が注意する。
「分かったよ。控えないとな!」
こんな会話が、繰り返される毎日であったが、それから友人はしばらく、「道しるべ」には来店していないのであった。
それを心配している幸司は、彼の事を思い悩んでいる。
さて、そんなある日の夕方から、雨が降り始めていた日のことである。外はにわか雨の為か、人通りはやけに少ない状態である。
「今日は、雨降りじゃないの? やだねえ」
優子が、外の雨雲を見上げながら、お客さんが入らない状態を気にかけていた。その雨脚は、いっそう激しさを増し、トタン屋根の音が響いている。
「今日はこの雨では、どうにもならないかな!」
幸司は、椅子に腰かけて、時間を気にしながら雑誌を読んでいる。雨の音が、お客さんの気配を消しているように思えた。
「そういえば、哲ちゃん。この頃、来ないね!」
哲ちゃん、これは通称である。幸司の心配している友人で、今回のお話の中心人物であった。その名を川口哲雄という。
時間は、夜の十時を回っている。店は、珍しく暇でお客の入りが良くない。そのうち、入口がゆっくり開くと、雨にずぶ濡れの男が入ってきた。
「ごめん、幸ちゃん。一杯、飲ませてくれるかな?」
よく見ると、幸司の心配していた友人が、「道しるべ」を訪れることになった。
「いらっしゃい、ずぶ濡れじゃないか!」
「優子、奥からタオルを持ってきてくれ!」
幸司が心配して、濡れた男の背中を拭いてやっている。
「どうしたんだ、こんなに濡れているじゃないか?」
心配した幸司は、男に訳を訊いている。
「ごめんよ、傘を盗まれたんだよ。他の傘、盗んじゃいけないし」
病気でも、正直者であるこの男は、少し哀れな状態でも、心の清らかさは幸司に匹敵していた。その男の人生が、これからの物語の深い意味合いを持っていることは、幸司は知る由もなかった。
つづく。