悲しい記憶(第二話)
初春の寒い季節は、風が強く吹き荒れる時期である。幸司は、料理を仕込みながら、お客さんが店に訪れるのを待つかのように、準備を着々と進めていた。
やがて、暖簾がひらひらと揺らめき、店先の入り口がゆっくりと開いてゆく。物静かなひとりの男が、寂しそうに背中を丸めて入ってきて、「道しるべ」に来店することになる。
幸司と女将の優子は、声を揃えて、「いらっしゃいませ!」と、お客さんを迎える。
お客さんは、少し元気がない様子でこの店にやってきた。その男はジャンパーを羽織り、眼鏡をかけている様子であり、どこか寂しそうな表情を浮かべている。
それから辺りを見渡し、そそくさと席に付いた。そして、少し落ち着いてからであろうか、男は上着を脱いでいる。
「今晩は寒いですね、風が凄くて、ちょっと立ち寄らせて頂きました」
男は席に着くと、静かに口を開くように語りだすことになる。
「こちらにどうぞ! 寒かったでしょうに」
幸司は、その男を親切に迎えている。一人の悩める男が、「道しるべ」にやって来ました。今回の物語のお客さまです。
「温かい、お絞りをどうぞ」
優子が、温かいお絞りを手渡す。
男は、温かいお絞りで手を拭くと、辺りをキョロキョロと、不安そうに見廻している。
「あの、メニューらしき物がありませんが?」
不安そうな表情で、板前の幸司を見つめ、男は問いかけるように言った。
「うちは、お任せです。料理だけで、6品2千円です!」
「ご安心ください、安い値段で、最高のおもてなしをしますから」
店のシステムを、幸司は丁寧に説明している。
「アルコールは別料金なんです。 お飲み物は何になさいますか?」
幸司は、男に飲み物を、何にするかを訊ねている。男は、躊躇いながらも、幸司を見て言う。
「生ビールを、お一つ下さい」
小さな蚊の鳴くような声で、男はビールを注文した。
「生、一丁!」
カウンターから、優子にビールの注文を告げる幸司がいた。それから、優子は生ビールをジョッキに注ぎ、男に運んでくる。
「はい、どうぞ!」
美味しそうなビールが男の喉越しを潤おす。それと同時に、心のこもったお通しが男の前に出されることになる。客を迎えるべく丹念に仕込まれている料理は、幸司の心意気であり、魂のこもった一品であった。
春一番の吹き荒れる、春の装いに男の物語が、ここで語られようとしている。
つづく。