一匹の猫(最終章)
季節を感じさせるように、桜が舞っている。奥から聞こえてくる猫の鳴き声は、何処か切なげに響いている。女性としての、瑜一の癒しの存在は、猫であったであろうと幸司は考えていた。
「お前さん、連れてきたよ。いい子だよ、この子は」
優子が猫を抱きながら、厨房に入ってきた。猫は、キョトンとした顔で女性をじっと見ている。しかし、元の飼い主とわかると、甘える仕草を見せはじめた。
「ごめんね。いい子にしていたの?」
「本来なら、私が飼ってやりたいけど。それは、出来ないの」
女性は猫を抱きしめ、優しく頬ずりを繰り返す。
「今日は、しょうがねえな!」
「特別許可で、猫を抱いてやって下さい。これから、最後の料理に取り掛かります」
幸司は、女性と猫をチラリと見ると、料理の準備に取り掛かる。猫は、おとなしく女性に抱かれている。その愛嬌のある姿が、幸司には大切な場面に思えた。
「お待ちどう様でした。今日の、絞めの一品になります」
幸司が女性の前に、ささやかな演出を届けている。その料理は、これからの思い出の一品になる雰囲気が感じられる。
春を彩る、器に盛られたものは、この季節の魚の王様といえる鯛を使った、鯛茶漬けであった。
「美味しそう、鯛茶漬けですね。初めて食べます」
出しの香りが、食欲を増進させる一品である。女性は、渡されたレンゲで、喉に茶漬けを流し込むように味わっている。
この時期の鯛は、桜鯛と云われ、まるで花見酒に酔ったように、鮮やかな桜色に鱗を染める。産卵期に旬を迎え、脂ものり、味もひときわ素晴らしいという。
「ほんのりと、酔った顔が色っぽいですね。そんなイメージにピッタリな鯛で〆ました」
「お辛かったことは、経験になります。悪く考えずに、前向きに進んでもらいたいですよ」
「鯛は、荒波でもまれた魚体が、美味しさを増すと云います」
女性の辛い経験は、幸司の思いやりで、少しは癒されようとしていた。これからが、女性にとってはトラウマとの闘いである。
「いつでも、来てくださいね。ここは、人々の味方ですよ」
優子が、にこやかに女性に微笑んでいる。
「すいません、猫をお願いします」
女性は深々と頭を下げると、「道しるべ」を後にした。猫が、その後ろ姿を見つめている。
幸司は、猫を奥にやると、ひとりカウンターにたたずんでいた。
つづく。