一匹の猫(第八話)
奥から、猫の鳴き声が響いていた。もの悲しい声から、何処か甘える声に聞こえてくる。女性は、その声を聴きながら、グラスを傾けている。
「猫の鳴く声が、木霊のように聞こえてくる。おかげさまで、猫も幸せになれますわ」
女性はグラスを覗きながら、次の料理が出来るのを待っている。
「いやあ、猫を飼うなんて、初めてですから」
「どうしたもんかと、考えていたんです」
幸司は、五品目の準備を整えながら、女性と話している。カウンターからは、いい匂いが立ちこめ、女性の食感を刺激していた。
「とても、いい匂いがします。次の料理が楽しみです」
僅かながら、盛り込まれる料理は、少しずつ胃袋を満たしてゆく。幸司の料理に対する、配慮は繊細で、かつ芸術性を感じさせる雄大さが盛り込まれている。
盛り台の上では、料理が完成しようとしていた。
「お待ちどう様でした。赤貝のぬた和えです。辛子酢味噌で、和えてみました」
赤貝は、切ったとき出る汁が、赤いので赤貝と云われる由縁がある。ほのかな甘みと、磯の香りを生かし、造り、すし種、ぬた和えにされるのが一般的であるという。
「赤貝ですか。よくお寿司屋さんで頂いていました」
「辛子酢味噌で、和えたんですね。初めて知りました」
女性は、小鉢に盛られた、ぬた和えを美味しそうに食べている。幸司は、その様子を疑いながら、ひとつ言葉をならべた。
「どんな動物にも、赤貝と同じように、赤い血は流れています。僕は、それを考えると、命の大切さを、意識しなくてはいけないような気がするんです」
「暴力は、間違った選択でしょうね。その男性も、いつかは気がついて欲しいと思います」
痛みを感じてこそ、辛さを知る幸司は、暴力という間違った男の選択を、哀れと思っている。人が強くなるためには、精神の修業が先決であると、幸司は深く肝に銘じている。
「猫の様子が、知りたいと思いませんか?」
幸司は、女性に優しく問いかけた。辛い感情を察しての、有り余るような優しさが滲み出ている。
「猫に、一目会いたいと思っていました。捨てた、私がこんなことをいう資格はないと思うんですが?」
「そんなことはありませんよ。優子、猫を連れて来てくれ!」
幸司は女性のために、特別に厨房に猫を入れようとしている。奥から、猫の声が聞こえていた。
つづく。