一匹の猫(第四話)
春の息吹を感じつつ、暖かい日が続いている。そんな日に、暖簾は揺らめいて、一人の女性が来店する。
女性はカウンターに腰かけると、幸司の顔をじっと見た。
「すいません、今朝、子猫を預けたのは、この私なんです!」
いきなりの告白であった。幸司は、包丁を落としそうになった。
「まあ、落ち着いてください。訳を聞きましょう」
幸司は、泣きそうな女性をなだめ、優しく促した。
「すいません、ビールを頂けますか?」
彼女は、幸司を見て一息つき、ビールを注文する。その瞳には、微かに涙がにじんでいる。
「生、一丁!」
幸司は、女性を横目で覗いながら、仕事をしている。
「はーい。今行きます」
優子は、話を聞いていたが、落ち着いて女性にビールを運んでくる。それから幸司は、お通しを用意して女性の前に置いた。
「鳥貝の黄身酢かけです。どうぞ、頂いて下さい!」
出されたお通しを、じっと見ている女性がいる。
「これって、回転寿司によく、廻っている貝ですか?」
女性は、涙をハンカチで拭うと、美味しそうにお通しを口に運ぶ。
(美味しい!)、女性は心で思った。
「そうです。その鳥貝です」
「鳥貝の名前の由来は、足の部分が鳥の舌に似ているという説と、身質が鶏肉に似ているからだという二つの説があるんです」
幸司は、様子を見ながら、女性に鳥貝の説明をしている。
「黄身酢に味が、とても素晴らしいですね!」
女性は、幸司のお通しで、気持が和んでいるのか、笑顔がこぼれる。幸司は、その女性の笑顔が、嬉しく思えた。
「先程は、いきなりでしたから。お困りになられたでしょうね?」
「すいませんでした」
「いえ、大丈夫ですよ。何かの縁でしょうし」
猫が、飛び込んできた、その日に、預け主が現れるとは、幸司も正直驚いている様子である。
「あの、お任せなんでしょうか?」
女性は、メニューがないことに気がついて、幸司に訊ねた。
「そうなんです。六品で二〇〇〇円になります。酒代は、別に頂きます」
「しかし、どうして猫を、ここに預けようと思ったのですか?」
幸司は、遠慮せず短刀直入に訊いた。女性の口からは、真実が語られようとしている。その瞳の色に、幸司はまるっきり、悪意がないことを見抜いている。
女性の訴えかける瞳と、猫の潤んだ瞳の思いは、「道しるべ」で始まろうとしていた。
つづく。