悲しい記憶(第一話)
今の情勢は、時折のこと、目を覆いたくなることが多い世の中である。そんな世の中でも、魂を持って生きている人間もいるのだし、けして捨てた世の中ではない。
これから語られる物語は、人生の狭間を経験した一人の料理人の物語である。それを今から、お伝えしようと思いこの小説を書きました。
ここは、人々の悩みや迷いを、温かい心と料理で癒す、「道しるべ」という次元を超えた料理を提供する場所です。カウンター10席と、小上がりがある粋な小料理屋さんで、小さな田舎町にその男は店を構えていた。
今日も、いつものようにお店では営業のため、準備がされています。そんななか女将の優子が、仕事を見計らって手を止めた。
「お前さん!今日のお勧めはなんだい!」
女将の優子が何気なく訊ねてくる。人生には、色々な場面があります。その場面ごとに、語り尽くせぬ思いがあるのが真実であり、それがこの店の真剣なる人生模様であった。
「今日のお勧めは、お客様次第よ!」
この店の主人の幸司が意味あるように答えた。
この店には、献立という物がありません。客に見合った、料理を提供するのが主人のこだわりでした。板さん任せはあるでしょうが、客の悩みに合わせて料理を手掛けるのは幸司ならではです。
「しかし、今日は風が強いわ。お客様は来るかしらね?」
優子が何気なく、心配したように外を見ながら呟く。この頃は不景気で、殺伐とした世の中ですから、悩む人たちには、とても優しい真心のある店です。そんな店が幸司の店であり、「道しるべ」は人情が一番の売りでした。
さて、店も開店準備に取り掛かります。女将の優子は、急いで店の掃除を始めます。
「チョイと、気合い入れて、今日も頑張ろうか!」
優子は、掃きそうじに床みがきを済まして、カウンターをセットしている。それから、外に出て水を撒いていた。
そのころ幸司は、手捌きの良い仕事で、次々と仕込みをこなし、あらゆる素材を、独りで率なく片付けている。仕事も一段落すると、幸司が手を休めた。
「さてと、そろそろ、おっ始めるか!」
「はいよ、お前さん!」
優子が火打石をはじき、火花が飛び散り、いよいよ開店間近です。
「今日も、世のため人の為の道しるべ! 人を思いやる心は、人生の助けとなる」
いつもの決まりごとで、この店の儀式である。仕事に気合を入れる、幸司の決め台詞であった。
さて、この板前。やけに気風のいいのが、幸司の良いところである。苦労していて、人生経験が豊富であるゆえに、心は優しいところが持ち味といえる。それに惚れた、優子との二人三脚の店といえましょう。
今日も暖簾が、店先にそっと掛けられる。時節は、まだ肌寒い春です。外は、春一番が吹荒れ、強い風が店の中にも、木霊のように聞こえていた。
つづく。