Lesson01−00.第一印象は大切です
大学から帰って、自宅の扉をあけて。さて、その日常的動作のどこをどうしたらこんなことになったのか。
首を傾げてみたのは、現実逃避の一環だ。
不肖、望月真理、この世に生まれ苦節二十一年。
どうにも巻き込まれ体質なのは否めない。
『まあちゃんが歩けばトラブルにあたる、だねー』
失礼なことを朗らかに言って下さったのは、私と同じ顔をした双子の姉上さまであったが、その時その場に居合わせた誰もが、私から視線をそらしたものである。
それも仕方ない話だ。
物心ついて一番初めのトラブルは、幼稚園の遠足で行った動物園。経緯は省くが気がつけば、知らないおじさんと一緒に象の檻に入っていた。わんわんと泣くいい歳した大人をなぜ子供の私が宥めなくちゃいけないのか、とうんざりした記憶はまだ生々しい。
後に知ったがおじさんはその象の元飼育係だったそうで、リストラされての暴挙だったらしい。……私とおじさんが檻に入りこんだときの象の恐慌状態を思えば、リストラの理由は垣間見えるわけだが、あえていうならば、彼は行き過ぎた愛情の結果、奥さんどころか象にすら怯えられたらしかった。
だがまあ、彼はマシな方だったかもしれない。
殴ってひとを昏倒させるわけでなく、一服ひとの飲み物に盛るわけでなく。何より、刃物銃その他でひとを脅すわけでもなく。……強盗ストーカーの類いは滅べばいいのにと切実に思う。あと愉快犯と爆弾魔の類いは地獄に堕ちろ。
嗚呼、現実逃避の間くらい、どうして心安らぐことを思いだせないことだろうか。
溜め息と共に、いろいろとひととしてのいろんなものを諦める。
開け放した窓の外、眼下は絶壁。
そしてそのはるか下に広がるのは、これが世にいう樹海だろう。目には優しいが、心には優しくない光景だ。
上空はやはり風が強いのか、カーテンが煩くはためいて、危ないから窓辺によるなと追い払われた。
私の家は駅徒歩十分のおんぼろアパートだったはずだけど、と、今更ながら思うのも逃避。
どうやら私がいまいる建物は、切り立つ崖の上にあるらしかった。
大学のために越してきて早三年の、住み慣れたアパートでないことは、とうの昔に気づいている。
目が覚めて、一番にやったのは家捜しだった。振り返れば、泥棒もびっくりの荒らしようである。
オーケー、わかった、ここは、私の部屋じゃない。
仕方ないが認めよう。ついでに言うと、どれだけ古い記憶を掘り起こしても、この景色は見つからない。
もしかして外国か。
ついに、外国にさらわれるイベントまで発生したのか。
今、鏡を見てみれば、沈痛な表情の自分と相見える気がする。
実を言うと、本当はわかっているのだ。
生憎、夢と現実を勘違いできるほど非現実的なことに免疫がないわけじゃない。
『ここはどこ』と聞いた声に応えた言葉を、聞き漏らしたわけじゃない。
コン、と扉を叩く音がして、知らず歯を食いしばっていたことに気づく。
振り返れば、やはり、先程見たままの、ヨーロッパのどこかにありそうなホテルの一室がそこにある。毛足の長い絨毯――裸足の足には大変優しい――の上に、シーツ――白地に黒の細かな文様。これがここのフォーマルならちょっと美意識を疑う――やら、机の上引き出しから引っ張りだした小物――は大して役に立ちそうなものはなかった――やら、取り付けのチェストの中身――白ワンピ一枚はさすがに微妙だったので勝手に拝借しました、洗って返します――やらが、散在しているが、今は構わず、
それらの合間を縫って、重そうな木の扉に近づいた。
先程確認したときには、ぴくりとも回らなかった、ドアノブが回る。
まさか、私が起き出しているとは思わなかったらしい。
扉を開けたまだ十代だろう使用人らしい制服を着た少女と、肩が凝りそうな詰め襟のやはりどこかのヨーロッパ圏で見かけそうな軍服を着た、少女と同年代に見える少年が目を丸くして、私を見た。
ふむ。と考えたのは一瞬だ。
さりげなく帯刀している性別男と、水差しの乗ったお盆で手が塞がっているいたいけな少女。
にこりと愛想だけはいいねと姉に評された笑みを向け、引き出しを漁ったときにみつけた、ペーパーナイフを逆手に隠し近寄った。
どちらが人質に相応しいのは考えるまでもない。
距離がさほどなかったこと。
相手にとって、私が警戒すべき対象ではなかったこと。
いろいろと理由は上げられるだろうが、彼等の一番の敗因は。私の掲げる主義主張にあっただろう。
目には目を。
歯には歯を。
拉致監禁にはそれ相応の、態度でお相手しようじゃないか。
ガシャンと水差しが割れる。
ヒールとジーンズ装備なら、こんな無粋な真似をせずとも済んだのだが。
「動くな、少年。……そう睨まないでよ」
喉に充てたナイフの切っ先を離さないように身を起こす。
無防備な相手の足元を払って反撃に転じようとした手を捻ってそのまま押し倒して、その背に馬乗りになった揚句、反対の腕を足で封じるなんて、なんて邪道。
しかも、相手は見るからに年下だ。
甚だ不本意とは思いつつ、それでも後悔はない。
顔をあげて、立ち尽くす少女をみれば、混乱と驚愕に目を見開いていた。
「お嬢さん、責任者呼んでおいで」
女の子に手を挙げる趣味はない。
本当なら、子供に手を挙げる趣味もないのだが――恐らく、主犯ではないだろう相手にすら気を使う余裕がない程度には、私は今の現状に不満だらけだ。