Lesson0.あるいはこれが始まり
守りたかったひとがいた。
何があっても一緒だと、そう、ずっと信じていた。
救いたかったひとがいた。
優しい眼差しの、月明かりのように柔らかな儚いひと。
結局のところ、伸ばした指先が届かなかったと知らされたのは、真っ白な病室で。
己の幼さと傲慢をつきつけられたのは、全てが終わったあとだった。
それなのに。
貴方は。貴方達は。
よりによって、この私に、助けてくれなどと、言うのか。
* * * * * *
『死にたくなければ、さっさと目を覚ませ』
混沌と激流に呑まれていた彼女の意識を覚醒させたのは、低い、男の声だった。
それとも、お前は死を望むのか。
繰り返し問う、その声の真摯な響きと、問われたその内容に現実に引き戻された。
私は一体なにをしているの。
我を失うにもほどがあるだろう。
息を吐く。否、正確には息を吐いたつもりだった。
実際にはそんなことは不可能だった。
その事実に気付いてぎょっとする。
自分は確かにここに在るのに、それに付随すべき体が見当たらない。
視界に入るべき薄茶の前髪も、成人を迎えたにしては貧相すぎる四肢胴体その他も。
そもそもこれを、視界、というのもおこがましいのかもしれない。
視るべき眼球も彼女は持ち合わせていなかったので。
音が遠い。
世界が遠い。
それでいて、今の彼女は、なにもかもに溶けてしまいそうに世界そのものに近かった。
ひとの気配がする。
一人や二人じゃない、たくさんの人間の気配、思考、これは……畏怖、いや恐怖と、それから混乱?
ぐるぐるといろいろな絵の具をかき混ぜたかのように、大人数の感情が渦巻いて、彼女を混乱させる。耳元で大声で叫ばれているようで、耳をふさぎたいのに、それもかなわない。
なにをそんなに怯えている。
自分をか。
そんな馬鹿な、彼女はただの小娘である。
ならば何をと考えたとき、唐突に彼女の意識を覆うぬくもり。
『呆けている場合か、さっさと目をあけろ。それほどこの地で魂魄の破片すら残さず消え去りたいか』
声が叱咤した。
死を望むのか、と彼女に問うた声だった。
(なにを、)
思い出した途端、思考が赤く明滅する。
状況がわからない、理解を拒んでいる、もしくは夢の延長と、そう思いたがっている、その理性よりも先に感情だけが答えをはじき出した。
(さっきからぐだぐだ、ぐだぐだぐだぐだと! 死にたいのかって? はっ。冗談じゃないわ、こんなわけわかんない状態でわけわかんないまま、ひとを殺してくれるんじゃないわよっ!!!)
声が出たなら、絶叫していただろう。
もしかしたら声の主にすれば、それに近い状態だったのかもしれない。
一呼吸、間が空いた。
それから、一つ、小さく息を吐き出す気配。
まるで彼女の罵倒に呆れたような。
もしくは答えを返した彼女に安堵したかのような。
そんな気配を一瞬で掻き消すように声は厳かに言う。
『ならば、望め』
(何を)
『お前がここにある事を』
(何故私がそんなことをしなくちゃならない)
『それがお前が唯一生き延びる道だからだ』
不本意だろう、と声は初めて彼女を気遣うように言う。
それでも望め、と男の声は告げた。
『死にたくないだろう、殺されたくはないだろう、他人の身勝手で呼び出され挙句世界に霧散して、そして失敗の二文字で片付けられたくはないだろう』
そんなのは冗談じゃない、と彼女は思った。
けれど、ろくな説明もなく声の言いなりになるのも業腹だった。
『説明がほしければ、お前の口で問え。このままではお前の声は届いても言葉まではとどかん。……頼む』
声は届く、なのに言葉が届かない、ということは、どういうことだろう。
この声は訳のわからないことばかり言うなと彼女は思った。
死にたくなければ望めと言ったその声が、頼む、と告げるその矛盾。
声が届けど、言葉は届かない、その意味するところはなんだろう。
わかるのはこのままでは埒が明かないということと、それから、声の言うとおり、彼女にはもう時間がないということだった。
このままでは溶けてしまう。
その認識が恐怖を呼ぶ前に、声が再び彼女に指示する。
『ここに在ることを望め。自分自身の身体を想え』
(からだ……?)
促されて、思い浮かべたのは、まず指先だった。整った爪の形。そこから付随する、手の甲、掌、手首、腕、肩、肩にかかる、茶色い髪、悩みの膨らみが見当たらない胸、胴、腰、足、足の指の形、それから。
連想ゲームのように、まるで慣れた作業のように脳裏に描く。自慢ではないが、彼女以上に自分の身体の細部まで思い描ける人間もいるまい。
どれだけ手間隙、金をかけたと思うのか。……その割に、くびれや女性らしい曲線とは無縁の身体に泣きたくなったことがないとは言わないが。
それでも。
唐突に、うるさいほど彼女に近かったひとの気配は遠ざかり、彼女を取り込まんとしていた世界から隔絶された。
一瞬の静寂。次いで、それと引き換えにまず、耳が、ざわめきと呻き声をひろう。
視界が開けた。
目に映ったのは、揺らめく炎に照らされた薄暗い石の部屋だった。
「……ここは、どこ」
反射的に喉からこぼれ落ちた言葉は掠れていた。安堵と怯え、畏怖が入り交じった複数の視線が彼女を突き刺した。
決して狭くないその石畳の上、妖しい黒いローブを来た人間たちが膝をつき、あるいは肩を貸して支え合い、彼女を円の中心に、言葉なく、彼女の一挙一動を見守っている。
「ここは聖都オルセン、貴女が生まれ、生きる世界とはまた別の理に縛られる世界だ」
頭上から知っている声と共に、柔らかい布でぐるりと身体ごと包まれた。かと思えば、浮遊する感覚。何者かに抱き上げられたのだと、背中に触れた掌の暖かさで、先に知る。
見上げれば蒼い双眸が、彼女を見下ろしている。無表情に近いその顔で、その眼差しだけが痛ましげな色を讃えている。
現状を理解できず、瞬くしかない彼女には、抵抗する気力すら湧かなかった。
この声の言う通りにしたのだから、今度はこちらが疑問に答えてもらう番。そうは思うのに、身体を動かすのも億劫で、彼女を包んだ大きな布と、近い体温が、緩やかに眠気を連れてくる。
「自覚はないだろうが、貴女は今とても疲れている。今は眠れ。誰にも触れさせやしない」
促されて、拍車がかかる。
不思議とこの青年の言葉は信じられた。身体から力が抜ける。だから、続けられた懇願は、夢うつつに聞いた。
−−貴女はきっと我等を怨むだろう、それは道理で、そして貴女の当然の権利だ。
「怨みも、憎しみも、俺が引き受けよう。貴女の刃に、盾になろう。だから、どうか次に目覚めたとき、絶望だけはしてくれるな、異世界の娘」
馬鹿じゃないの、と彼女は暗闇に思考を明け渡す寸前に思った。
(あんたの方が私より、よっぽど死にそうな声じゃない)
−−ねえ。本当に、この世界に絶望しているのは、誰?