9. 不老のからくり
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その夜我々は伯爵邸に忍び込んだ。
正直なところ、私は大それた不法侵入よりも、いつフレレクスがあの銀の剣で私の喉を貫くかに恐々としていた。敵地に敵と侵入している、八方塞がりの状態だった。
「あの絵画だけ、壁に傷跡があった。何かが繰り返し擦ったひっかき傷だ。絵画の裏に金庫を隠すのはありふれた手段だ。既に中は確認してある。入っていたのはさっき使った鍵だ。それに居間のあの絨毯だ。あんな折れ目は通常つかない。折った状態で上に重いものを置くことが頻繁にある証拠だ。そしてその重いものとは、君が今持っている地下に繋がるハッチという訳だ」
「いいからはやく降りろ」
フレレクスは、恐ろしいまでに鮮やかな手際でこの邸宅の地下室を暴いてみせた。これほど腕の良い盗賊は国内にもそういないと思う。そうでなければ、私は夜眠るのが怖くなる。鍵は錠前を必要とするが、錠前はそうではないということを、その日私は学んだ。
彼は大きな荷を持ってきていたが、その中身を尋ねてもはぐらかすだけだった。
地下室は真っ暗だった。私が手さぐりで階段を進む中、フレレクスがさっさと階下に降り歩き回るのが、小さくなっていく足音でわかった。程なく私は完全に置いて行かれた。ようやく暗闇に目が慣れ始め、自分の手の輪郭が薄っすらと見えるようになった頃、足音が戻ってきた。
「蝋燭だ」
私の手に押し付け、すぐに足音は遠ざかった。私はもたつきながら、ポケットから手袋を出して火を付けることで、その全貌を目にすることが出来た。石造りの壁と床、壁に沿って飾られたワインセラー、無造作に置かれた木椅子、床に転がるセラミックのボウル。何より目を引くのは部屋の中央に置かれた巨大な木桶の浴槽だった。そこには何かがいた。
「なんだこれは……」
浴槽の中で何かが、生きていた。
痩せこけた人の形をした何かだった。それは浴槽の中で丸くなったままぴくりとも動かなかった。唯一それが息をしていることを証明するのは、纏った襤褸の間から覗く、時折ごく僅かに震える青白い肋間の窪みだった。
「吸血鬼だ、ナプティア先生。瀉血のために死に瀕しているがね。ヴェルディ伯爵の不老の源泉だよ。高位の吸血鬼の血には治癒能力がある。うまく使えば一時的な不老の効果も得られる。そこに陶器皿と刃物が見えるだろう。どちらも血で汚れている。瀉血の道具だ。その道具で血を搾り取っていた訳だよ。そして彼こそが初代伯爵、ヴェダンテ・ヴィルシアン伯爵だ。応接間の肖像画を見たかい。初代だけ取り外されていた。吸血鬼に子孫は残せない。恐らく二代目からは養子が継いだのだろう。何の因果で、不幸な彼がここに幽閉されるのに至ったのか我々には推測することしかできないが……、明らかになる事は無いのだろう」
金属の擦れる音がした。蝋燭のか細い光に照らされて、彼が剣を抜いているのが見えて私はドキリとした。
「なにをする気だ?」
「なにを? 明白だ。人に訊く前に少しは考えたらどうだ、ナプティア先生」
「殺すのか」
「目玉が欲しいなんて言わないでくれ。あれはちょっと悪趣味だ」
痛烈な切り返しだった。私には最早選択肢はなかった。
「やめろ、君の仲間だろう!」
「なんだと?」
「君が人でない事は知っている。吸血鬼だ」
「鋭い洞察をどうも。君は私に同情心を求めているのか? その試みは見当違いだ。私は決して無情な訳でも、無関心な訳でもない。これでも陰惨な仕打ちに身を引き裂かれる思いと激しい怒りを感じている。けれど私には彼を救う手立てがない。いくら再生能力が高いとはいえ、こうなってしまっては手遅れだよ」
彼は剣先を突き付けたまま抑揚の無い声で語った。奇妙な話だが、私は彼にこんな事をして欲しくなかった。その理由を自覚した時、私には彼らを討伐出来ない事を悟った。
「君はそうかもな。だが私は人狼を治癒した。吸血鬼も可能だ」
「本気で言ってるのか?」
「本気だ。正気ではないかもしれないが。ああ、どうしてこんなことに……? 癇癪さえ起さなければ私は今頃、都のシルクの寝台でエールを浴びていたのに。フレレクス、先に行け。私はこいつを背負う。連れて帰るぞ」
「君は彼について何も知らない。そいつが大量虐殺者だったらどうする? 君は人間なのに、人間を殺した魔物を救うのか?」
「その時は審問会に引き渡すさ。だが少なくとも今じゃない、君の言う通り彼について何も知らないのだから」
私は支離滅裂な事を言いながら、初代伯爵を持ち上げた。生きた魔物に触れたのは初めてだったが、ぞっとするほど冷たく軽かった。だが不快よりも、憐れだと思うくらいには、私はどうかしてしまっていた。
フレレクスは私の代わりに蝋燭を持って階段を上った。私はその後ろに続いた。ハッチを開ける前に彼はこちらを振り返った。
「待ち伏せされている。聞こえるかい。金属の擦れる音がする。鎧だ。私兵が来ている。想定通りだ。私はそこの伯爵の死体を引き渡し、ヴェルディ嬢のおぞましい蛮行を明らかにするつもりだった。だが、君は初代伯爵を救う事を選んだ。これがどういうことかわかるかね。このハッチを開けると我々はお尋ね者になるだろう。私と君の二人ならば、どうにか突破も出来たかもしれない。だが、君は両手が使えない。私も諸事情で本調子でない。君は走るのは得意だと言っていたね。一つ案がある。私が彼らの注意を惹きつけ、ほんの少しの間視界を塞ごう。君はその間に屋敷の外に出て、東の生け垣から出ていくんだ。その後、何があっても帰ってきてはいけない。生垣を抜けたら酒場の裏に出る。そこからが少しややこしいんだが__」
「なぜ今説明するんだ? 一緒に来ないつもりなのか?」
「行けないからだ。ところで君が持っていた発火石を借りてもいいか? 返せるかどうかはわからないが……冗談だ。君そんな顔が出来たのか。一応伝えておきたいんだが、私は君にとても感謝している。結末がどうであれ、君はそこの吸血鬼を救おうとした。私はこの町に来た時、多くのシナリオを予測した。だが君の行動はそのどれにも当てはまらなかった。私にとってこれほどまでに嬉しい裏切りはなかった」
その後道順を説明し、彼はハッチを開けて出ていった。怒号と剣のぶつかり合う音が地下にいる私にも聞こえた。やがて合図に従って私は外に出た。一体何が起きたのか視界は真っ白だった。私はうっすら見える敵影を避け屋敷の外に出た。そうしてレッドロビンの生垣を抜けた時、何艘もの船が同時に大砲を着火したような爆音が屋敷から聞こえた。何かとんでもないことが起きたのだと知った。
私は後ろ髪を引かれる思いで、彼に教わった通りの道を辿り宿舎に着いた。驚くべきことに、道中誰にも見つからなかった。私は窓から部屋に戻った。
「遅かったな」
私を出迎えたのは、我が物顔で椅子に腰かける、つい先ほど遺言めいた言葉を残した男だった。